この頃、なぜか父親が唄い出したことは、先日書いた。
ああああ、うううう。と声がする。

どうやら、その一つが「磯節(いそぶし)」という茨城の民謡であるらしいことがわかった。
あの年代の人たちにとって歌はたいてい民謡だ。

宴会とかで、ナニカシラの芸を要求されると、その頃は多くの人が民謡を唄っていたらしい。
父親はそんな芸が一つもなく、母親に教わって一曲を覚えた。
それが「磯節」。


水戸を離れてええ東にいい三里いいいいい
で、はじまるこの歌は、地味だ。
地味だけど、滋味もある。

でも、昔、父親が練習し始めると、母親も私も眠った。
催眠作用はハンパではなかった。
そして、それから半世紀も経とうというのに、今また、父親の声を聴くと、すううと眠くなる。

不眠症なのだから、いっそこの声を録音でもしておこうかと思うが、そういうもんでもないのだろう。


故郷の民謡。
大洗や千波湖や、そんな地名が出るだけで、磯節は特別な歌に思える。
私は故郷を持たないが(あちこち転々としていたので)、やっぱり水戸は故郷なのだろうなと思える。

こうして93才にして、また唄い出した父親を。
「不思議なのよお、このごろせき込まないのよお、ご飯の時」と、母親が言う。

老人の嚥下能力の衰えは「むせ」や「せきこみ」でわかる。
そしてそれが、肺炎の下地になる。
命取りになる。


それが減ったというのだ。
唄うって、すごいことだなあ。
ノドの体操なんかより、きっと楽しいはずだ。


まったく、人っていうのは、未知の生き物だ。
へえ、まだこんなことも、あんなこともあるんだ。

でも、ちょっとコワい。
未知は、やっぱりコワい。
なんせ私には初体験。
二つの老いの変化についていくのが、やっとだ。

もし、二つの命をちゃんと見送ることができたら、もうコワいもんないなあと思う。
まだ余力があって、歌を唄えていたら、その時はどんな歌になるんだろう。
でも、はたして余力残ってるかなあ、私。

ううむ。
いやいや、とにかく声だそう、歌うたおう、っと。