昨日。予知夢というか正夢というか、そんなことを書いた。
で。
あろうことか。
母親に続き、父親も具合が悪くなった。

そりゃあまあ、7月には93才。
私が通ってはいるが、あとは二人生活。
そのことを言うと、皆さん驚かれる。


「みんな驚いちゃうよお。
トイレもお風呂もちゃんとできるんだっていうと」
と、ほめると。
「ええ、そうなのお」
と、母親は逆に驚き。
「ええ、もう93才なのか」
と、父親。
(どうせ、すぐいくつか忘れてしまうだろうから、なんとも幸せではある)


「あたしねえ、ほんとはお釈迦さまの生まれた日が誕生日なのよ」
と母親が言う。
その話、以前もちょこっと聞いた覚えがあったが、本人は「隠すべき恥ずかしいこと」のように思っていたせいか、ずっと「お蔵入り」していた。


それが、このところ、どんどんカミングアウト具合が進んでいて、他のいろいろな「人生の秘密」がこぼれることが多くなった。

いいことだと思う。
それで、人生の重荷が減れば、もっともっと軽くなれる。


「おじいちゃんが、おばあちゃんと籍入れるのが7月だったのよ、だからあたしの誕生日も7月1日になっちゃって。昔ってそういうことよくあったのねえ」

その瞬間、明治生まれの男女のどこかユルク牧歌的な有り様が浮かんでくる。その時代の匂いも感じられる。


そうなんだなあ、人に歴史あり。
明暗、いろんな歴史あり。
でも、どんなものも、この世でのこと。
脱ぎ捨てるようにさっぱりと、あちらへ行きたい、行かせたい。

人が人を送ることの仕事の一つが、そういうことじゃないかと思う。
重荷を降ろす作業を手伝うこと。


施設などで、一人一人が勝手にしゃべっている場所などに行くと、お互いぜんぜん通じてないじゃんと思うけど、いやいや、そういうことでもないのかもしれない。
と、この頃気づいた。

ただ自分のことをしゃべることが、少しずつあちらへの旅立ちの用意になっているのかもしれない。
年とると昔話ばっか。
と若い人がいうけど、それは、そういうことなんじゃないかなあ。


重荷を降ろした背中には、きっと羽根か翼が生えてる。
うん、生えてる。綺麗に。