今年の大学センター試験の国語で。

原民喜(はらたみき)という作家の作品が出て、そんでもって、ふだん小説とか読まない子供が、それを読んでなにやら胸に深く残ったらしい、とかいう話を聞いた。

 

それってどういう話なんだろう。

それにまず、この原民喜という作家を私は知らなかった。

 

で。

すぐさま、ネットの「青空文庫」を開いた。

(著作権切れの作家たちのものが読めるアプリで、これはかなり重宝してる)

 

試験に出ていた「翳(かげ)」という作品は、なぜかないのだったが、他のものを読み漁り、この作家のことをまたしてもネットで探った。

 

 

広島で生まれ、慶応を出て、結婚をし、妻が死に、疎開した広島で原爆に会い、最後は吉祥寺と西荻の間の線路に横たわって死ぬ。

45歳。

 

 

試験問題になっていた「翳」は、新聞で読むことができた。

戦争がひどくなっていく時代の妻との日常、魚屋さんの青年との交流などが、明るい奥さんのからからと笑う声が聞こえるような、でも、まさしく廊下の闇に戦争が息をひそめているような、そんな光の表裏、人生の翳が浮かぶような作品だった。

 

 

私の作品は、妻が死んでからはぜんぶ遺書のようなものです、という文章が残っている。

奥さんは 今見られる写真からでも、快活で優しく、ユーモアのある明るい人のように思える。

 

それに反して、この作家は、いまでいう「適応障害」のような人だっらしい。

外部の人とうまく話せない。

一言も話さず帰ってしまうこともあったらしい。

 

奥さんと一緒になって、奥さんが彼の社会への窓口となって、二人は暮らしていたのだろう。

それは本当に幸せだったのだろう。

 

 

そのことが、ずっと胸の奥に残っていて、お風呂に入っても、寝床で横たわっても、ついてくる。

 

唯一のこの世のよりどころだった妻を亡くし、原爆の地獄を生きたこの人のことが、頭から離れない。

 

 

そして。

うまく人と話せなかった、というそのことにも。

 

反射神経のように、ぱっぱとうまく人との会話や受け答えができる、そういう人が重宝され、できない人は疎ましがられる。

でも、うまく話せない人はたくさんいる。いや、本当はうまく話せないことばかりなんだ。だから話せないんだ。

 

この世にたった一人でも「話せる人」がいればいい、そして、そのたった一人に出会うために人は生きてるのかもしれない。

 

 

妻の死んだ後のものはぜんぶ遺書。

 

切なくてどうしようもない。