コマーシャルっていうのは、つくづくムズカシイものだなあと思う。

 

それがテレビの場合、なんの予告も断りもなく、家庭に流れてくる。

当たり前のことだ。

 

 

昨日、両親との昼食後、やっと一息入れていると、「認知症、認知症」と連呼しているCMが流れ出した。

連呼といってしまうのは悪意があるかもしれない、CMというのはまあそういうものだし。

 

とはいえ、そのCMの間、私は凍り付いていた。

 

ちょうど父親がいたからだ。

 

父親の症状は、たしかに認知症だ。

さっき言ったことを忘れるし、つい二日ほど前には、リストを書いた紙を持っていても買い物ができなかった。

 

そのたび、彼が傷ついているのがわかる。

 

 

「平気、平気、ダイジョウブダイジョウブ」と励まし、できたことを取り上げ、盛んにホメる。

そんな繰り返しで、父親を支えてきた。

 

ずっと一緒にいる母親が、冷たいことを言ったりするので、なおさらそのフォローな必要になるのだ。

(とはいえ、ずっと一緒、ということほどシンドイことはない)

 

 

自分はなんなのか、どこかおかしいのか、ボケたのか、認知症なのか。

そんな問いを父親は、おそらく胸にしまっている。

 

それがぽろっと言葉に出ることもある。

そのぽろっと出た言葉で、今の彼の状態を推し量る。

 

つらいだろうなあ、不安だろうなあ。と思う。

 

 

 

そういう毎日に、保険会社の新商品「認知症保険」のCMだ。

 

 

そりゃあ、宣伝しなけりゃしょうがない。

でも、まさに当事者の家族は、身の置き所に困る。

 

 

「ご家族の顔も判断できなくなった段階では」というように、認知症のステップによる保証のことも流れてくる。

 

幸い耳は遠いけど、今はテロップが流れる。

 

父親は無言だった。

私は、手元のスマホを見続け顔を上げなかった。

 

 

認知症が進んで家族の顔もわからなくなる。というCMは、テレビから飛び出しどういうふうに、人のココロに落ちていくのか。

 

こういうのってどうなの。と憤っているうち、ガン保険のことを思い出した。

 

ガンで苦しんでいる家族に、そのCMはどう流れていくのか。

 

そうだった、それに気づくことがなかった。

 

 

 

当事者。

当事者にしかわからない苦しみや、いらだちに思いを馳せること。

 

病気の保険CMは、まったくムズカシイ。

でもだから、よりデリカシーが必要なんだろう。

 

一人ではない、家族という場所にも、半ば暴力的に入り込むCMだからこそ、表現の仕方、流す時間帯など、些細なことに思いを馳せてほしいということだろう。

 

 

ああ、ムズカシイ。