ちょうど良い時間に仕事が終わった。

 

前から気になっていた映画を見に行く。

 

地下のミニシアター。

トイレに入ると。

 

はい、次の映画「ぼけますから、よろしくお願いします」は、開場の用意ができましたらご案内いたします!

 

と大きなアナウンスが聞こえてくる。

 

 

トイレから出て、チケット売り場に「行くと。

「ぼけますからよろしくお願いします一枚ですね」

 

 

なんちゅうタイトル。

 

 

他人事ではない、この映画は、映像に関わるテレビ局の女性が、自身の老親を撮ったものだ。

 

 

ボケていく母親と、耳の遠い大正生まれの父親。

見ていてつらい。

 

このご両親は、とても知的で独立心があって、しかも穏やかだ。

そして何より特筆すべきは、お互いの中が良いこと。

伸ばした手に手を重ねていたわりあえるような関係だということだ。

 

 

こういう二人だったらなあ、とわが身を思う。

 

そういう冷めた目で見られるようになった、見てしまう自分がちょっとさみしい。

 

でも、そういうものだと思う。

 

 

自身が介護に関わる人にとっては、こういう映画で泣く人はいないんじゃないかと思う、

うちがこうだったらとか、いやいやそれはそうじゃないだろとか、もっと自分に引き寄せ、だからこそ、もっと冷静に見てしまう。

 

 

もっといえば。

こんなに腰の曲がった親に、買い物させるのかと、両手に大きなレジ袋を持って、途中でぜいぜいと立ち止まる老人の映像に、つっこみを入れている。

 

 

カメラ回してる場合か、あんたがやりなさい、じゃあなきゃ、ヘルパーさん使いなさい、とか、怒ってる私がいる。

とまあ、いろんな場面で、私は怒っている。

 

 

そんなこと、この作者はじゅうぶんわかっていて撮っているのだ。

彼女にとっての、これがこの世でのするべき仕事だと思って撮っているのだ。

 

 

 

時々。

ご両親との日常を取材させてくれませんかと言われる。

映像が入ると聞くなり、私は硬化する。

 

絶対イヤです!!

 

自分でも驚くほど興奮している。

 

 

数年前、両親がテレビに映った。

それは戦争についての取材だったからだった。

戦争体験を語り継ぐという趣旨に、いやいやだっけど、納得したからだった。

 

 

でも。

介護とかそういうことに関して、立ち入られるのは絶対イヤだ。

 

老いていく両親を映像に撮られるなんて、涙が出る。

 

もしこういう仕事を受けろというなら、私、歌止めますからと宣言した。

 

親は私が守る。

なんて、逆上といっていいほど興奮している自分に、自分で驚いた。

 

 

 

 

ドキュメンタリーは、これほどムズカシイ。

 

自身の身を削るように撮っているのだろうとわかっていても、それが許せない観客の私がいる。

 

 

 

だって。それぞれだもんと思う。

 

百あったら百違う。

千あったら千違う。

 

それぞれの老いや、家庭は、全部違う。

ニンゲン一人一人が、みな違うのだから。

 

普遍性など、介護にはないのだろうと思う。

 

 

 

こういう映画を冷静に見られないのが、今の私の状況なのだと思う。

 

 

 

ただ。

広島の呉の言葉たちが、とてもあたたかい。

 

東京で仕事をする、この娘さんとご両親とを行き交う言葉に、問答無用に胸が熱くなる。

 

 

おお、帰ってきたんか。

と迎い入れる二人の曲がった背中に、胸が痛くなる。

すごくすごく痛くなる。