声の商売をしている者にとって風邪は、やっかいだ。
お、以前もらったクスリがあるぞなんて、引っ張り出して飲んだりする。
そんなのイケマセンなんてわかっちゃいるけど、まあ、ちょっとくらいならいいだろう。
そんなにヤワじゃないよ私、なんていきがったりする。
ところで。
三浦雄一郎さんて、なんで山に登るんだろう。
なんて昨日思った。
昭和7年生まれというから、私の親と四歳しか違わない。
それなのに、なんであんなムズカシイ山に登りたいんだろう。
高齢者はこんなに元気なのだ、頑張れるのだと皆さんに希望をもってもらいたいというけど、それってほんとにそうなのかなあ。
かつて三浦さんは格好良かった、スキーでの直下降なんて、ものすごくカッコよかった。
カラダも、そういうカラダだった。
筋肉質の無駄のない美しいカラダだった。
難しい南米の山に登るのだと、その訓練やら食事やらがテレビで放送されたけど、この人、もう登山家ではないなあと正直思った。
登山家のカラダではない。
足に重りをつけて歩き、訓練のあと、巨大な肉を食いワインを飲む。
カラダは、もうそういうカラダだった。
登山家のカラダではなかった。
一緒に行く息子さんに同情した。
一緒に行く医師にも同情した。
心臓も悪く、筋力も衰えた老人、しかもデカい。
その人と山に登るなんて自殺行為としか思えない。
最後に登れなくなってあきらめた時、息子さんと医師は泣いて止めたという。
三浦さんも泣いて承諾したという。
これを「勇気ある撤退」と表現する人もいるけど、そんなカッコいいものかなあ。
だって、はなから無理だもん。
と、私なんかは思う。
三浦さんは、たとえばスポンサーとかのことで行かねばならないのかあ、商売的なことがあるのかなあ、と推し量ってしまう。
もしそうでなくただ「登りたい」というのであれば、三浦さんがしなければならないことは多い。
心臓を治すとか、痩せて筋肉つけるとか。
そうでないと、こういうのはただの老人のわがままに思えてしまう。
他の誰かも犠牲にする危険なわがままに思えてしまう。
たしか、三浦さんのお父さんも100才とかでスキーをされていた。
その姿は、きちんとした美しいカラダだった。
カラダはウソをつけない。
他の誰かに希望を与える、っていうのは、そうそう簡単なことじゃない。
自分を厳しく律することなど、もっともっと地味なことを続けることこそ尊いと思う。
希望は派手ではない、地味なものに宿る。
と私は思う。