国立に行く。

 

国分寺と立川の間だから国立。

そういわれても、国立は国立で、前回降り立ったのは大学生の頃。

 

歳を重ねて生きてると、ちょっとこの前の感じなのに、数十年単位のことになる。

 

 

この駅の南口は、有名な三角屋根の駅舎で、今建て替え中。

 

なので、なにがなんだかわからん状態。

 

 

そこから二分ほどの普通の民家をギャラリーにした場所で、オオタスセリさんがライブをするという。

 

 

畳敷きで20名くらいしか座れませんという場所に、入れてもらう。

 

 

こっちかなあどっちかなあ、と駅からの道を歩いていると、白いシャツと黒いスカートの大きな人が現れた。

 

視界にちょっと入った時、どこかのバーテンダーの人だと思い、通り過ぎようとしたら。

 

「クミコさん、クミコさん」

 

スセリさんだった。

 

 

こうして、わかりづらい道に立って、お客を案内しているという。

 

 

ここからすでに、彼女のライブの中にいるような感じ。

 

 

去年、永さん追悼のライブ以来。

あの時は、過労からの入退院で、ぼろぼろだったスセリさんも、もうずいぶんと元気になっている。

 

 

それでも、畳敷きでの、それこそヒザ突き合わせるような空間でのライブはやりにくそうだ。

 

同じ蛍光灯の光の下、ここから舞台、ここから客席、その間には厳然とした線がある、と思っても、なかなか難しいところではある。

 

 

だけど、スセリさんは、だてにスセリさんではない。

 

2020年には還暦ですといいながら、エネルギーはふつふつと煮えたぎっている。

 

 

 

最後の酔っ払い女の歌では、もうこらえきれないマグマがどばばと放たれた。

 

 

二十代、三十代、四十代、五十代、と変遷する酔っ払い女の叫びは、もう他人事ではない、昔の自分をみているような気もしてくる。

 

 

若い頃は誰でもちやほや誘ってくれたお酒、それがだんだんとビミョーな変化をしてくる。

女でしかわからない男の変化。

 

ギターをかき鳴らし、「酔っ払いたいだけの酔っ払いおんなあああ」

 

そうだ、私も酔っ払いたいだけに飲んでた女だった。

 

 

もう身につまされ、おかしくて、過去の自分を愛おしく思ったりアホだと思ったり。

 

ココロがごった煮のようにぐつぐつする。

 

 

 

駅への帰り道。

 

そうだったなあ、あの時国立に来たのは、ここに女友達が住んでたからだったなあ。

たしか泊めてもらったなあ。

 

京都出身のええとこのお嬢ちゃんだったのに、なんだか二人でいつも酔っ払ってたなあ。

 

 

何から逃げたいのか、ホントはよくわかっていながら、わからないふりして、いつも酔っ払ってたなあ。

 

 

 

で。私。

もう一人では飲まないのに、コンビニでビール買って帰りました。

 

つまみはモツ煮込みとぬか漬け。

 

これじゃ、オッサンですわ。