ツダくんがね。
と母親が話し出す。
どこのどのツダくんなのか、わからない。
勝田の軍需工場に行くのにね、私は上のほう、ツダくんは下のほうの道を歩いてくのよ。
そうか、同級生のツダくんなのだな。
「ツダくんが、いっつも口笛吹いて歩いてんの。
いつもおんなじ歌をねえ。」
なんて歌?
「ええっと、なんだっけなあ。ええっとええっと。
たしか谷間の灯とかそんな歌だったかなあ」
母親、ちょっとその雰囲気のメロディーを口ずさむが、よくはわからない。
「それって、アイルランドとか、スコットランドの歌みたいなやつかなあ」
「ああ、ああ。きっとそういうの!」
この頃、ひょっとしたときに、なんの前触れもなく、昔のことを母親が話し出す。
それは、それまで何回か聞いていたものもあるし、初めてのものもある。
戦争中は、まさに青春の頃、娘時代だから、多感なはずだ。
そこに埋もれた花のような想い出が、今頃、ふっと息を吹き返すのかもしれない。
「谷間の灯(ともしび)」
部屋に帰って、検索してみた。
ああ、これだ、この懐かしいメロディ。
でも。これ、アメリカの歌だった。
「赤い河の谷間」と同じ、古き良き時代のアメリカの歌だった。
わが子を待つ母の住むふるさとのわが家。
どの国にもある、母、そして故郷を想う歌。
でもツダくん、死んじゃったのよねえ、空襲で。
かわいそうなことしたねえ。
母親が遠い目をした。
軍需工場に通う道の、上と下を歩く二人。
その間に流れる「谷間の灯」。
ツダくん、それ、アメリカの歌だったんだね。