翻訳劇。
というのは、当たり前だけど、役名が外国の人の名前だ。
ビリーだったり、メアリーだったり、ジョセフィーヌだったりする。
じつは、こういうのが苦手だった。
金髪とかをつけて、そういう名前で呼び合う劇は、いくら巧みでも、やっぱりどこか違和感があった。
いや、逆に巧みであればあるほど、違和感が増してしまう。というとこもあった。
昨日。
黒柳さんの舞台に出かけた。
80年代から続く海外コメディシリーズのファイナル。
サラ・ベルナールが主役の「ライオンのあとで」。
このシリーズは大変な人気舞台だが、これまで見たことがなかった。
だから、今頃、それも、ファイナルに初めて出かけるのが、なんだかとても失礼な気がした。
でも、どうにも見ておきたかった。
お客さまは、どうみてもサラ・ベルナールの名前も知らなそうな人が多い。
つまり、オーソドックスな翻訳劇の客層とはあきらかに違う。
混沌としている。
それが、徹子さんが舞台に登場すると。
もう、それはサラでも、翻訳劇でも、なんでもなくなる。
セリフもなにもかも、もう黒柳徹子そのものだ。
なんだこれ。
あまりのことに愕然とする。
徹子さんがサラなのか、サラが徹子さんなのか。
徹子さんの言葉なのか、サラの言葉なのか。
すごい。
すごすぎる。
徹子さんが退場すると、舞台は、また翻訳劇に戻る。
徹子さんは、すべてを超えてしまっている。
時代も、国境も、人種も。
すべての垣根をとおおおおおんと超えて、そこにいる。
黒柳徹子という世界だけがそこにある。
これまで徹子さんの舞台をみてこなかったことを、心底恥じた。
このすべてを超えたところにあるもの、誰にでもどこの国にも、どの時代にでも通じるもの。
その普遍のもの、それが、とてつもないでっかく深い「愛」。
生きることが、なんだか楽しくなって、うきうきして、勇気が出て。
カーテンコールで、車椅子から立ちあがった徹子さんは、客席に向かって大きく手を振り。
そして胸あたりに両手でハートマークを作った。
私の胸はいっぱいになって、ただ拍手をした。
しつづけた。