午後になると、だんだんダメになってきて、夜になるともう使い物になんない。

 

というのが、母親のいう父親の様子だ。

 

 

なんとまあ、わかりやすい。

 

 

だから買い物は午前中。

 

でも、そうやって買い物に行くという気持ちがあるだけ、素晴らしい。

 

 

 

 

昨日あたりは、友人がもってきてくれた「大人の塗り絵」を一生懸命やっている。

 

もともと絵心のある人で、以前にはクレヨンで描いたちっちゃな絵が、ごろごろしていた。

 

 

 

それからずいぶん経ってしまったけど、この「大人の塗り絵」の花や果物を、今では好きなように塗っている。

 

 

「素晴らしいねえ。さすがだねえ」とほめる。

 

 

 

「そうかあ」と父親もまんざらではなさそうだ。

「そんなにほめられちゃうとなあ」

 

 

 

いいや。ほめることに、ほめ過ぎはないと、私は思う。

 

 

それは、どんな人にでも、どんな状況でも。

 

 

ほめることは、応援になる。

 

 

 

 

そうはわかっていても、日常を一番長く過ごす母親のストレスもわかる。

 

 

母親ケアは、散歩だ。

 

 

私が帰るとき、そのあたりを一周する。

 

たいてい同じところを通るので、ツマンナイんじゃないかと思うが、日々の草や花の色の違いを見ては、うれしそうだ。

 

 

 

「あの毛虫どうなったかな」

と、このところ私たちの間でスターになった毛虫くんの存在を確かめる。

 

「ああ、いやだあ、毛虫なんて」と母親はいうが、その毛虫がだんだんさなぎになって、そうしていつしかいなくなってしまうのを、二人で確認する。

 

 

 

あの蛾だか蝶だかが、あの毛虫かもね。

なんていって、私たちのアタマの上を飛ぶ、蛾だか蝶だかを見る。

 

 

 

こうして、老親との時間が流れていく。

 

 

 

バイバイと母親に手を振って、曲がり角で別れると、いつもなにかを飲み込んでしまったような寂しい気持ちになる。

 

 

 

そうして私は一人になる。

 

 

一人になるとほっとする。

 

でも、ずっと一人になったときのことを思うと、また何か飲み込んだような寂しい気持ちになる。

 

 

 

こんな日が、さらさらと続いている。