「銀巴里」の先輩、深江さんが開催されている「シャンソンコンクール」。

 

 

今年もまた審査員としてお招きいただく。

 

 

50代あたりを中心として、30数名のかたの歌を聴く。

 

その中で、あれと思うお名前があった。

 

 

あっという間に、シャンソン界からいなくなってしまった女性だけど、私の事務所社長が、その方のデモテープを持っていた。

 

 

どうやら、その昔、その女性をデビューさせようとしていたらしく、諸事情でそれを断念。

次に、たまたま「銀巴里」でヘンな歌い手を見つけた。

 

それが私だ。

 

 

 

 

ほんとにうまい、ほんとにいい歌をうたう。

 

 

と、その頃、どれだけそのかたのカセットテープを聞かされたことか。

 

 

まあ、でも、確かに完璧なほどステキだった。

(それに比べ、私の下手なことといったら)

 

 

 

デビューされていれば、確固たる活躍をする歌手になっていただろう。

 

 

 

 

声を張るでもなく、一つ一つ丁寧においていく言葉が、ぱらぱらと真珠のようにほどけて、それが美しい世界を紡ぎだす。

 

 

こうだったらいいなあ、こういう自分だったら、こういう世界だったら、こういう人生だったらいいなあ。

 

そんな世界を作り出す。

 

 

 

とはいえ。

それからもう35年以上は経っている。

 

果たして今は。

 

 

 

 

まったく同じだった。

 

素晴らしいものは、ずっと素晴らしいのだった。

 

 

 

 

素晴らしい歌手は、若い時は若い時、年とったら年とった時、それぞれの素晴らしさを持つのだった。

 

 

それは、歌は人が歌うものだからで、その人のセンス、技量、心持ち、感性、これは経年劣化をするものではなかった。

 

 

 

 

 

「声がでなくなってて」

と、終演後、そのかたはいわれていたが、そういうことを越えてあまりある、歌声。

 

 

 

「若い時に唄っていました。今、また唄いはじめました。その点と点をむすんでいるような気持ちです」

 

唄われる前に、そう前置きをして唄った名曲「桜んぼの実る頃」。

 

 

 

 

春を越え、夏を越え、秋を越え、冬を越え。

人生の波を越えてきた歌声は、静かに穏やかに切なく、ぽとんぽとんと会場に落ちて満ちていった。

 

 

そうだ、これ、さくらんぼだ。

 

 

時のさくらんぼ。

 

人生のさくらんぼ。

 

 

甘酸っぱく、じじじと胸がうずくような。

そんなさくらんぼ。

 

 

 

会場のみんなそれぞれが、手の中にそっと包んだに違いなかった。

 

大切に持ち帰ったに違いなかった。