クスリをもらいに久しぶりにクリニックに行く。

 

ドアを開けると、誰もいない。

 

 

受付も看護士も整体師も、誰もいない。

 

 

奥から、先生が出てきた。

 

 

「いやあ、今日はね、午前中みんないなくてね」

 

へえ、そんなことってあるのか。

 

 

「まあでも、なんとかなるもんだね、一人でも」

といいながら、外へ出て行ってしまう。

 

 

なんだこれ、と思いながら、そこらに貼られた印刷物を見る。

 

 

予防接種のこととか、いろんな注意書きを上書きするように、先生の講演写真が貼られている。

 

 

中国に行ってきたらしい。

 

 

もともと、ゴルフの写真だったりを貼る先生ではあった。

 

 

なんの不思議もない。

 

 

「ガンの講演に行ってきたんだよ」

と、いつのまにか戻ってきた先生が言う。

 

 

中国講演の貼り紙の向かいに「がん」に関する論文のようなものが貼ってある。

 

 

それにしても、この先生、いつからガンに関する医者になったんだろう。

 

 

皮膚ガンに関する記述に目が留まった。

 

「ノーマン・カズンズ」とある。

 

 

あ、この人、あの笹森マミーの養父だ!

 

原爆で焼かれた広島の乙女たちを、アメリカに招いて形成治療をさせ、その縁で笹森マミーは、この人の養女になり、ずっとアメリカで暮らすことになった。

 

「INORI」を唄いに、ニューヨークに行った時から、私とマミーの縁は続いている。

 

そんな人の名前だったから、「先生、このノーマンさんて」と、また奥に引っ込もうとした先生に声をかけた。

 

 

 

「え、なに」

 

明らかに不機嫌な声で先生が、近寄ってきた。

 

イヤな予感がした。

 

 

「このノーマン・カズンズさんて」と言いかけたら。

 

 

「なに、この人と友達なの?そういうこと言いたいの?」

 

え、なにいってんだろう、この人。

 

「この人と友達で知ってるって言いたいの?」

 

このたたみかけかたが、もう尋常ではない。

 

「このかた、もうとっくに亡くなっていますし、そういうことじゃありません」

 

「で、長くなるの?その話」

 

「いえ、長くはなりません。ちょっと聞いてください」

 

 

 

こうなったら、きちんとお話だけはしておきたい。

 

 

かいつまんで話しても、どうやらわかってはいないようだ。

 

興味もないようだ。

 

だったら、なんなんだろう、このガンにかんする貼り紙。

 

 

 

 

 

「ほしいクスリ、ここに書いて」

 

座った先生が、そこらへんにある紙をよこす。

 

 

「マイスリー5ミリ」と書く。

 

 

なんなんだ、この人。

 

 

「なんだか、みんな今日は用事があるんだって、だから誰もこないんだ、まあ支障ないって思ったんだね」

 

と、言い訳するので。

 

「支障ありますよね」とはっきり言う。

 

私は、もうすっかり怒っている。

 

 

 

 

「だいたいね、日本人は英語しゃべれないのおかしいよ」

 

インド系の外国人が入ってきたので、先生は急にそんな話になる。

 

「この国だけだよ、遅れてるよ、英語しゃべれないなんて」とぶつぶつ怒っている。

 

 

 

 

ああ。この人、コワレかけてる。

 

 

こういう人を、これまでも見てきた。

 

 

 

自分の店に、なにかかにかを異常に詰め込んでくる人。

 

本来の店とは、関係のないモノを、そこらじゅうに置きはじめる人。

 

 

 

本来の自分はこうじゃない、ホントの自分はこうなんだ。とその関係のないもので主張している。

 

 

 

ガンの研究とは、まったく関係のない、この先生もまたそうなのかもしれない。

 

 

クセのある人ではあるけど、それはそれなりに、地元で愛された小さな病院なのだ。

 

お父さんの代からつづく、れっきとした「町医者」なのだ。

 

 

 

 

困った先生よねえ、とスタッフの人たちからも愛されていたはずの人なのだ。

 

 

この数か月で、いったいなにがどうしたんだろう。

 

 

 

 

怒りと困惑で、落ち着かなきゃと、クリニックを出てうろうろするうちに、いろんなことを思い出した。

 

 

そうだった、この先生のイトコだかは、有名なガンの先生なのだった。

 

ずいぶん前にそんなこと、聞いたことがあった。

 

 

 

 

60才をとうに超え、70才を控え、この人のココロで何かが変わってしまったんだろうなあ。

 

見果てぬ夢、なりたかった自分。

 

 

そんな執着が、この人を変えてしまったんだろうなあ。

 

 

 

自分自身の夢と現実、老いていく中で、それとどう折り合いをつけるのか。

 

 

ほとんどの人が、思ったように、願ったように生きてはいけない。

生きてはこれなかった。

 

 

だから、人生の終着駅が見えてきたとき、どうするか。

 

 

 

いいんだこれで。と思いたい。

 

どんな有り様であっても、ふりかえってどんな道だったとしても「良し」としたい。

 

誇りを持ちたい。

 

 

亡くなった渡辺シスターの言葉じゃないけど「今ある場所で懸命に咲きたい」。

 

 

 

 

きっと二度と、このクリニックには行かないだろうなあ。

先生にも、二度と会うことはないだろうなあ。

と思った。

 

 

やっぱり、ちょっと寂しかった。