自分が還暦になって、若かった両親の軌跡をたどるとは思いもしなかった。



戦後70年。

家族の戦争の歴史を語り継ぐ。

そういう企画で、ロケに行った。

ディレクターは、これまでも石巻ロケなどで気心の知れた杉本純子さん、通称スギジュン。




私の両親から、根気強く話を聞き、それをもとに番組を組み立てる。


さまざまな関係者の方々との折衝やら、ロケハンやら。



ジャーナリスト、と一口にいっても本当にタイヘンな作業だ。





そして、昨日。


スーパーひたちに乗り、常陸多賀へ。

ここは父親が入った多賀高専(今の茨城大学工学部)の寮があった場所。


入った初日に艦砲射撃で、校長先生も友人も死んでしまう。



このことは、どうやら父親のココロに大きな傷を残しているらしい。


70年たっても、ココロはすぐに「そこ」に立ち戻る。




亡くなった方々の名前が記された慰霊碑に手を合わせる。


海、近かったんだなあ。

現在の寮の屋上から、はるかに霞む辺りを見る。そこが海。


その海に並んだアメリカの軍艦から発射された砲弾の嵐。

資料館に残された砲弾のカケラは、ずっしりと重い鉄の塊だ。



こんなものが、深夜に父たちを襲ったのか。






そこから、今度は勝田というところへ移動する。



まだ10代の若者だった両親が通った軍需工場があるのだ。


日立工機。

日立グループの一つで、日本の「ものづくり」の代表のような会社。



そこは戦争中、武器を作っていた。


母親は事務、父親は鉄砲部品作り。





驚いたことに、その当時の工場のいくつかが残っていた。


出来上がった鉄砲がまっすぐに飛ぶかどうかを確かめる「試射場」もそのまま。


地下から地上へと伸びたコンクリートの建造物は、途中ツタがからまり、爆弾で壊され、廃墟のよう。



大きな木々が周りを囲む。


母の働いていたという事務棟の前に立って、写真を撮った。

ほら、玄関そのままだよ、と母に見せたいと思った。






そして、最後に水戸偕楽園。


今はもうない踏切をはさんで母の家があった。

そこが空襲で焼け、母たちは偕楽園の洞穴で生活する。


その洞窟、洞穴。


あった。



地下水がしとんしとんと落ちる音がする。


こんなところで。こんなところで。

真っ暗で湿った、こんなところで。

言葉が出ない。




ロケが終わると、ずんと疲れた。


両親からの遺言状を渡されたような気持ちがした。





書き足りないことばかりだけど、どう書いていいかわからない。


いつか、何かの機会があれば、少しづつ。

今はそんなふうにしかいえない。


大きすぎて飲み込めない。





あ。でも。これだけは。



茨城大学の皆さま、資料館の皆さま、日立工機の皆さま、偕楽園の皆さま。



本当にお世話になりました。



皆さまのご厚意がなければ、できなかったロケです。



個人的にも、若い両親と出会えた貴重な仕事でした。



本当にありがとうございました。


心から感謝申し上げます。