放送局の知人がイスラエルに行ってきた。



ええっ、イスラエル!危険じゃない!



電話で叫ぶ私に、彼女は困ったようにいう。



「それがまったく平和で」



イスラエルはまったく平穏だというのだ。



私たちがココロを痛める地獄絵図はガザだけなのだ。




「イスラエルの人たち、相手のことをニンゲンだと思ってないですから」



そうか、そういうことか。



大きな壁一枚隔てた相手は、テロリスト。だからニンゲンじゃない。だから駆逐しなきゃいけない。


(これじゃ、まるでネズミ退治だ)


こういう論理らしい。



「特に若い人たちは、相手のことなにも知りません」


だから憎しみだけが増える。


先人たちからの憎しみがそのまま、培養されたように増え続ける。




両方の人と話せる自分たちには、どちらの苦しみもわかる。


どちらのいうことも、それぞれ理解できる。



そう彼女はいう。




だって、ニンゲンなんてたいてい同じなんだから。




「でもさあ、イスラエルの人たちは、昔あんなに差別された歴史があるのにねえ」


ユダヤというだけで、殺された日々。




この春、なんの関係もない私だってマルゴー・アインシュタインという役で舞台に立った。


あの時の出演者はみんな、うなされるような悪夢のような気持ちに憔悴した。




私たちでさえそうなのだ。




歴史は繰り返す。てことなんだろうか。




とりあえず、停戦が決まったらしい。




でも、イスラエルには、この停戦に反対する人が多いときく。




「でも、若い人にも、むこうのことを知ろうという人も出てきてます」


そこに、光がある。



「知る」ことは「光」で「希望」だ。




何が同じで、何が違うのか、それはどうしてか。


憎しみはどうして生まれるのか。




「知る」ことでしか、はじまりはない。




ここにも広い河がある。