ここまでの道のりは、とても運命的なものを感じてなりません。なぜなら、まるであたかも道がひかれていたかのように、なるべくしてここまで来たような歩みだったからです。もちろんたくさんの涙も苦労も挫折もありました。しかしどれひとつとっても今の私に必要な経験のように今は思えるからです。私は私立の高校から聖路加看護大学に入り看護師・保健師を目指して勉強してきました。母はとても料理の好きな人でしたので、高校生になった頃から料理教室に沢山通わせてくれました。今田美奈子先生や東京會舘・富岡淳子懐石料理教室などなど。パンも個人の先生に習いました。
しかし懐石以外どれも本当にあぶらが多く、これを食べ続けていたら太ってしまうなあというものでした。
学校を卒業して、今の三井住友銀行に産業保健師として就職しました。3年働きます。そのご看護技術がないことが看護師として自信につながらないことを感じて、日赤に就職しました。技術は色々教えていただいたものの、色々な世界が見たくなり、老人介護・学校保健と派遣で色々な職場で働きました。この頃、看護師以外の仕事はまったく考えていませんでした。
その後、派遣先でお世話になっていた生光会健康管理センターに就職し、色々な健康保険組合の保健師として健康管理の仕事を5年くらいしました。その頃も料理にはいつも興味があり、自分なりにあぶらを使わない(いつもここに健康のふとらないポイントがあると、自分の体を通して知っていました)レシピを作ってはケーキや料理・パンを焼いていました。自分用にレシピも書き留めていました。
上の娘を妊娠したとき、最後の職場を退職します。10年間の医療現場での仕事の終わりです。多分母がずっと働いていたので、家に母がずっといる家庭にあこがれていたのかもしれません。上の娘が1歳半になった頃、私は育児ノイローゼで寝込んでいました。主人に「仕事にもどったら?」といわれ、私はたまたまノンオイルのパンが焼けたというだけで、パン教室を始めます。まだその頃は娘が大きくなったら、又保健師にもどろうと考えていました。
しかしその教室は3ヶ月くらいで、ぶらりと中下車の旅という番組に取り上げられ、テレビの効果で生徒さんが大勢与えられました。テレビを見た方から本はないのかと電話を頂き、出版社を回りました。それが1冊目の本の『ノンオイルノンバターで作るパン&お菓子」になります。お蔭様で大変売れる本になりました。多分ここからが本当の料理研究家のスタートだったと思います。いつも私のレシピは『あったらいいな』『食べたいな』が始まりです。あくまでも自分の為。自分が心から食べたいから作るのだと思います。レシピが生まれるまでは大失敗は数え切れず、パイやタルトははじめは岩のよう。シューもふくらまずただの石ころのよう。鍵になる発想が生まれるのは布団の中が多いようです。なぜか明け方の目が覚めたころ。
料理は大好きです。物を作り出すのも大好きです。しかし常にバックヤードに健康というキーワードがあります。私はもどこまで行っても、保健師・看護師です。料理を通して保健師として仕事をしているのだと最近とても思います。
たぶんそれは自分が育児ノイローゼで苦しかった頃やダイエットの罠にはまりそうになったことなど色々な体験をしてきたから。祖父の癌での死や看護師の頃であった患者さんのこと。色々な体験が健康で元気で生きることが何よりすばらしいと教えてくれたからです。
今少しずつ私の仕事の方向は変化し始めているように思います。もちろんレシピは作ります。教室もまだまだずっとやります。料理本も出します。
変化とは、本当の私・保健師らしい仕事をもっと表に出してゆくことだと思っています。それには食だけにとどまらず、衣食住・心も体も含めてもっと広く、深く、総合的に人をとらえ、考えなくてはいけないと思うからです。