というわけで、山本譲司さんのこの本を図書館で借りて読んでみました。
累犯障がい者のことを考える際には必読の本です。
一部、引用します。

山本譲司『獄窓記』(ポプラ社、2003.12)

 

そこは「塀の中の掃き溜め」と言われるところだった。汚物にまみれながら、獄窓から望む勇壮なる那須連山に、幾重にも思いを馳せる。事件への悔悟、残してきた家族への思慕、恩人への弔意、人生への懊悩。そして至ったある決意とは。国会で見えなかったこと。刑務所で見えたこと。秘書給与事件で実刑判決を受けた元衆議院議員が陥った永田町の甘い罠と獄中の真実を描く。

獄窓記

□序 章 
■第1章 秘書給与詐取事件
 □政治を志した生い立ち
 □菅直人代議士の秘書、そして国政の場へ
 ■事件の発端
 □東京地検特捜部からの呼び出し
 □政策秘書の名義借り
 □逮捕
 □起訴
 □裁判

 □判決

 □弁護士との打ち合わせ
 □妻への告白
□第2章 新米受刑者として
□第3章 塀の中の掃き溜め
□第4章 出所までの日々
□終 章 


第1章 秘書給与詐取事件

事件の発端

(つづきです)

写真週刊誌発売日前日の午後、政策秘書のSが菅さんルートで、記事のゲラ刷りを入手してきた。Sは、私の政策秘書になる前は、菅直人事務所に籍を置いていたのだ。したがって、この一件は、Sの口から菅さんにも伝わっていた。
――民主党菅直人側近山本譲司代議士が「秘書名義貸し」で2000万円着服疑惑。
ゲラ刷りを見ると、こんな見出しで記事は始まっていた。
――政策秘書として登録していた女性の話によれば、彼女は、山本事務所に勤務したことはなく、山本氏に名義を貸しただけということらしい。したがって、山本氏は、約3年間にわたり、2000万円をピンハネしたことになる。
記事は、そんな内容のものだった。中島洋次郎元代議士が政策秘書の名義借りにより、詐欺罪に問われていることについても触れてあった。ただし、ある代議士秘書の話を引用し、「国会議員の2割くらいは同様のことをやっている」とも付け加えられていた。
この夜の秘書たちとの打ち合わせにおいて、今後の方針は固まった。政治団体収支報告書の修正報告を出し、I氏に給与を寄付してもらっていたこととして処理をするというものだ。
――政策秘書だったI氏には、電話などでたびたび政策的なアドバイスを受けていたので、勤務実態がないとは言えない。国から貰う政策秘書の給与が全額I氏に渡っていなかったのは確かだが、それは、本人了解のもとに事務所に寄付をしてもらっていた。ただ、迂闊なことに、政治団体の収支報告書に、そのことが記載されていなかった。したがって、この件は、収支報告書への単純な記載ミス に過ぎない。
そんな理屈だ。
すぐに、私は、菅さんに電話をかけた。
「いろいろと迷惑をかけてすみません」
「いやー、あなたもこの時期に大変だね。それで、これから、どういう対応をするつもりなの」
「収支報告書の修正で収める案でまとまってきています」
「うーん、その手もあるかもしれないけど、それでは収まらないかもしれない。その政策秘書だった女性と至急会った方がいいんじゃないのかな。これまでの秘書給与を全部彼女に渡すのも、ひとつの方法かもしれない。それに、自分の経験から言わせてもらうと、マスコミからは逃げないで、早く記者会見をした方がいいな」
当時の菅さんは、民主党の政調会長を務めていた。選挙を目前にして、この一件が表沙汰になることによって被る民主党の痛手を最小限に抑えたいという意識もはたらいていたとは思う。しかし、菅さんは、事態を収拾するために、本心から心配してくれている様子だった。
「なんとかこの件を乗り切るように、頑張って」
菅さんからの激励を受け、その場は、電話を切った。
翌日、写真週刊誌が発売されると、立川の事務所や国会事務所には、新聞記者が大挙して押しかけてきた。民主党本部、そして、政策秘書の名義を借りたI氏のもとにも、マスコミの取材は及んでいたようだ。その日も菅さんとは、電話で連絡を取り合った。
ひと晩熟慮した結果、私の気持ちは、またも揺れ動いていた。収支報告書の修正など単なる弥縫策に過ぎない。こんな杜撰なことは絶対に通用しない。けじめをつけるべきだ。そう思うに至っていたのだ。
「ここは、出処進退をはっきりしたほうがいいんじゃないかと思っています。議員を辞めて、選挙にも出ない。そう覚悟を決めつつあります」
私は、その時の心境を菅さんに吐露した。間髪を容れずに、菅さんの口から叱咤の言葉が返ってきた。
「こんなことで負けるな。これは、選挙を前にした一種の政治闘争だ。踏みとどまって、頑張るんだ」
やはり、選挙を目の前にして出馬を取りやめれば、支援者や民主党にも迷惑がかかる。そう思い直した私は、結局、収支報告書の修正報告を提出することによって、この件を乗り切る方法を選んだのだ。当時、労働組合「連合」の出先機関に勤めていたI氏にも会い、心労をかけたことを詫びた。
そして、写真週刊誌の記事が出た次の日に、記者会見をおこなった。会見会場となった立川の事務所には、複数のテレビ局も含めて、40名ほどのマスコミ関係者が来ていた。
「収支報告書への記載ミスでした。しかし、疑惑を招くようなことになったのは、すべて私の責任であり、不徳のいたすところです。このことを猛省して、今後の政治活動に取り組んでいきたいと考えています」
この私からの報告に対して、記者たちからの執拗な追及はなかった。
当時は、新聞記者と話をしても、「そのくらいのことなら、どうってことない。みんなやってることじゃないの」という反応だった。中島洋次郎元代議士の政策秘書給与詐取事件も、本筋の受託収賄事件を掘り下げるために、勾留延長を意図した別件逮捕に過ぎなかったという見方が強かった。実際、翌日の新聞各紙には、「修正報告を提出」と、小さな記事が掲載された程度だった。
その後、選挙期間中に、写真週刊誌の記事をもとにした怪文書が大量に出回り、それが私の後援会会員にも郵送されるということはあったものの、表立った動きは、ぴたりと止まった。
衆議院議員選挙の投票が行われた6月25日、私は、十万票近くの支持を得て、二期目の当選を果たすことができた。次点の自民党公認K候補に、二万五千票以上の差をつける大勝だった。しかし、私には、胸のつかえが残っていた。
 


「ここは、出処進退をはっきりしたほうがいいんじゃないかと思っています。議員を辞めて、選挙にも出ない。そう覚悟を決めつつあります」
私は、その時の心境を菅さんに吐露した。間髪を容れずに、菅さんの口から叱咤の言葉が返ってきた。
「こんなことで負けるな。これは、選挙を前にした一種の政治闘争だ。踏みとどまって、頑張るんだ」

 

菅直人の叱咤の言葉に、気持ちがゆらぐ山本譲司氏でした。

 


獅子風蓮