というわけで、山本譲司さんのこの本を図書館で借りて読んでみました。
累犯障がい者のことを考える際には必読の本です。
一部、引用します。

山本譲司『獄窓記』(ポプラ社、2003.12)

 

そこは「塀の中の掃き溜め」と言われるところだった。汚物にまみれながら、獄窓から望む勇壮なる那須連山に、幾重にも思いを馳せる。事件への悔悟、残してきた家族への思慕、恩人への弔意、人生への懊悩。そして至ったある決意とは。国会で見えなかったこと。刑務所で見えたこと。秘書給与事件で実刑判決を受けた元衆議院議員が陥った永田町の甘い罠と獄中の真実を描く。

獄窓記
□序 章 
■第1章 秘書給与詐取事件
 □政治を志した生い立ち
 □菅直人代議士の秘書、そして国政の場へ
 ■事件の発端
 □東京地検特捜部からの呼び出し
 □政策秘書の名義借り
 □逮捕
 □起訴
 □裁判

 □判決

 □弁護士との打ち合わせ
 □妻への告白
□第2章 新米受刑者として
□第3章 塀の中の掃き溜め
□第4章 出所までの日々
□終 章  


第1章 秘書給与詐取事件

事件の発端

2000年5月の連休明けは、小渕恵三首相が病に倒れ、その後を受けた森喜朗内閣の下で、衆議院の解散総選挙は必至の状況だった。
私も二期目の当選を目指して、選挙に向けての臨戦態勢に入っていた。その1ヶ月ほど前、私の有力対抗馬だった自民党の現職代議士が不出馬表明をしたことにより、自民党内では候補者選定作業が行われていた。後継候補として白羽の矢が立ったのは、地元大地主の跡取り息子で、立川市議会議員のまだ一期生であるK氏だった。そして、連休直前には、彼が自民党の候補者となっていた。
私は、都議会議員時代の27歳の頃から、立川青年会議所の会員として活動してきた。K氏も同じ会員で、当時から昵懇の仲だったし、人脈的にもかなり重なっている。したがって、対立候補であるはずのK事務所にも私の知り合いが数多く出入りしており、複雑な心境で臨んだ選挙戦だった。
5月の連休明け、私の私設秘書だったMという男がK事務所に現れ、「山本を告発するネタがある」と言ってきたらしい。
Mは、私が衆議院議員当選直後の1996年10月に、事務所に採用した私設秘書だった。彼は、経営していた建設会社が傾き、私の後援会の青年部長T氏から「雇ってくれないか」と頼まれ、秘書として採用した人間だ。やはり、MもT氏も青年会議所のメンバーだった。ところが翌年の5月から、Mは、事務所に姿を見せなくなり、その1ヶ月ほど後、大麻所持で小平警察署に逮捕されるという事件を起こしていたのだ。結局、これがきっかけで、Mは、私の事務所を辞めていた。
「まあ、どうってことない話だと思うけどさ」
T氏から立川の事務所に電話がかかってきた。
「なんですか」
私がぶっきら棒に聞き返すと、T氏は答えた。
「MがK事務所に行って、山本を告発するいいネタがあるから情報を買ってくれないかって、持ちかけてきたそうなんだ」
T氏のもとには、K事務所の幹部から、そういう話が入ってきたという。その幹部というのも、青年会議所の会員だった人物だ。
私は、この話を政策秘書の件だとは考えず、一笑に付して、T氏からの電話を切った。その当時の政策秘書は、すでに、常勤している秘書へと代わっていたからだ。
しかし、5月19日のことだった。突然、写真週刊誌「フラッシュ」の記者から、立川の事務所に取材の電話が入ったのだ。
「以前、政策秘書として登録されていた人間は、実は、名義借りではなかったんですか。そのうえ、代議士自身がその秘書給与を私的に流用していたんじゃないですか」
この記者からの問い合わせに、事務所では、公設第一秘書のAが対応していた。
「事実関係がかなり違います」
Aは、そう答えたようだった。
私は、地元の市議会議員と一緒に、選挙に向けて支援者への挨拶回りをしている最中だった。A秘書から携帯電話に連絡があり、取材のあったことを知った。
実際、指摘を受けた元政策秘書に勤務実態はなく、私は、そのことへの罪悪感があった。それに、1年半前に、自民党の中島洋次郎代議士が政策秘書の名義借りにより詐欺罪で立件されていたので、この時、議員辞職という身の処し方も私の頭をよぎった。だが一方では、この件をうまく乗り切るための方法を模索してもいた。
取材のあった日の夜、政策秘書のSを中心に、どう善後策を講じるかについての打ち合わせを持った。
私が衆議院議員初当選後、政策秘書として登録していたのは、Iという女性だった。打ち合わせまでの間、A秘書が情報収集をし、そのI氏にも電話連絡を取っていた。 A秘書によれば、彼女の話は、「突然、Mが写真週刊誌の記者を連れてきました。私は、その記者に、ありのまますべてを話しました」ということだった。
そもそも、彼女を政策秘書として登録してはどうかと事務所に連れてきたのは、Mだったのだ。私の政策秘書問題をマスコミなどに持ち回っていたのは、M以外に、もうひとりいた。私設秘書だったNという男だ。やはり、Nも私が紹介者となり、青年会議所のメンバーとなっていた。彼は、立川市議会議員一期目の任期半ばだった3年前、都議選に出馬したが落選。その後、ちょうどMと入れ替わる形で、私の私設秘書となっていた。そのNは、4月の後半から、体調不良を理由に事務所に顔を出さなくなり、私ともまったく連絡が取れなくなっていた。
彼は、4月の初めに、仕事上の不祥事を立て続けに起こし、同僚秘書から厳しい批判を受けていた。他の秘書は、私に対して、口々にNの処分を求めてきていた。私とNとは、十数年来の友人であり、私が都議選に初出馬した頃から応援をしてもらっていた、いわば、刎頸の友ともいえる間柄だった。しかし、私は、他の秘書の手前、事務所会議の場において、かなりきつい口調でNの失態を面詰したのだ。私にすれば、泣いて馬謖を斬る思いだったが、その数日後、Nは、事務所からいなくなった。
当時の私の事務所は、Nを含めて秘書は8人体制だった。選挙を目前に控えて、まったく人手は足りない状態だ。信頼してきたNがいなくなる痛手は大きい。私は、事務所に戻ってきてくれるよう懇願する手紙を書き、それをNの留守宅の郵便受けに入れた。だが、Nからの連絡はなかった。ちなみに、その時の手紙が私の逮捕後に公表され、口止め工作として報道された。
「山本にとって致命的な記事が、写真週刊誌に出る」
NがK陣営の幹部数人に電話をかけ、数日前から、そんな情報を流していたことがわかった。
「裏切り行為だ。許せない」
今後の対策を練るための打ち合わせは、MとNに対する批判に終始した。しかし、私は、人の口には戸が立てられないと思い、頭の中では、具体的に出処進退を考えていた。そして、MやNとの間に感情の疎隔をきたしていたことに気付かなかった自分の不明を恥じた。
結局、その場では、なんの結論も出ずに、打ち合わせは、写真週刊誌発売日前日の夜に持ち越すこととなった。
その間の3日間、私の体は、いつも通りに、選挙に向けての挨拶回りや遊説などをこなしていたものの、気持ちは重苦しく、心ここに在らずといった状態だった。選挙区内では、すでに、自民党市議会議員の一部が週刊誌についての話を触れ回っていた。私は、T氏をはじめ、後援会の主だった人に電話をかけ、議員辞職も選択肢の一つとして考えていることを伝えた。だが、すべての後援者に慰留され、かえって、ここで議員を辞めたら無責任だという思いを強くすることにつながった。

(つづく)


実際、指摘を受けた元政策秘書に勤務実態はなく、私は、そのことへの罪悪感があった。それに、1年半前に、自民党の中島洋次郎代議士が政策秘書の名義借りにより詐欺罪で立件されていたので、この時、議員辞職という身の処し方も私の頭をよぎった。だが一方では、この件をうまく乗り切るための方法を模索してもいた。
 

このへんの話は、リアルで正直な告白だと思います。

 

 

獅子風蓮