というわけで、山本譲司さんのこの本を図書館で借りて読んでみました。
累犯障がい者のことを考える際には必読の本です。
一部、引用します。

山本譲司『獄窓記』(ポプラ社、2003.12)

 

そこは「塀の中の掃き溜め」と言われるところだった。汚物にまみれながら、獄窓から望む勇壮なる那須連山に、幾重にも思いを馳せる。事件への悔悟、残してきた家族への思慕、恩人への弔意、人生への懊悩。そして至ったある決意とは。国会で見えなかったこと。刑務所で見えたこと。秘書給与事件で実刑判決を受けた元衆議院議員が陥った永田町の甘い罠と獄中の真実を描く。

獄窓記

□序 章 
■第1章 秘書給与詐取事件
 ■政治を志した生い立ち
 □菅直人代議士の秘書、そして国政の場へ
 □事件の発端
 □東京地検特捜部からの呼び出し
 □政策秘書の名義借り
 □逮捕
 □起訴
 □裁判
 □判決

 □弁護士との打ち合わせ
 □妻への告白
□第2章 新米受刑者として
□第3章 塀の中の掃き溜め
□第4章 出所までの日々
□終 章 


第1章 秘書給与詐取事件

政治を志した生い立ち

九州の片田舎で育った私は、毎日、剣道やソフトボールに汗を流すスポーツ少年だった。さらには、児童会長や地域子供会のリーダーも務める活発な子供だったと思う。伯父が町議会議員だった影響もあり、小学生の頃から、政治への関心はあった。私は、代議士すべての名前と選挙区を諳んじて言えるような、いわば、政治少年へとなっていった。しかし、単にそれは、選挙への興味を持っていたに過ぎなかったのかもしれない。

そんな中、私が政治というものを痛烈に意識したのは、中学2年の時に起こったロッキード事件だった。首相経験者を含め、3人の国会議員が逮捕されるという政界汚職事件に、強い憤慨を覚えたのだ。
高校3年の6月のことだった。史上初の衆参ダブル選挙が行われ、自民党が圧勝する中、唯一、溜飲が下がる思いをした選挙結果があった。「地盤、看板、かばん」を持たない市民派議員の誕生だ。それが、当時、社民連という小政党から出馬し、4回目の国政選挙への挑戦で、初めての当選を果たした菅直人さんだった。私は、市民運動出身という既存の政治家のスタイルとはまったく違う菅さんに対して、強いシンパシーを抱いたのだ。ロッキード事件と対極に存在する政治家だとも思った。翌年、私は、早稲田大学教育学部に入学した。政治家への登竜門といわれていた雄弁会への入会も検討したが、政界さながら、派閥をつくって権謀術数をめぐらす幹事長選挙など、自分の体質や考えとは相容れないと思い、結局、入会はしなかった。

私は、子供の頃から、ピアノ教室に通ったり、ギターをひいてバンドの真似事をしたりと、かなりの音楽好きでもあった。そこで、音楽プロデュース研究会というサークルに加入することにした。流行のミュージシャンのコンサート企画や、学生バンドを発掘するためのコンテスト開催などが主な活動内容だった。ちなみに、私が在学時、そのコンテストから巣立ったアーチストに、デーモン小暮氏やサンプラザ中野氏がいる。

しかし、そんな中でも、大学内外で催される政治家や政治評論家の講演会には、可能な限り足を運んでいた。大学の大隈講堂において、各政党代表者によるパネルディスカッションが行われた際などは、社民連の菅さんの発言の後に、手が痛くなるほどの拍手を送ったことを覚えている。普通の言葉を使ったソフトな語り口に、強い親しみを感じたのだ。
大学3、4年のゼミは、政治学を専攻した。ゼミの指導教授は、私が初当選した総選挙に、新進党から立候補し、同じく当選を果たした萩野浩基先生だった。現在は、自民党の代議士だ。そして、そのゼミ生の中には、辻元清美氏もいた。彼女も衆議院議員の当選は同期なので、同じ総選挙において、20名ほどのゼミから、3人の代議士が同時に誕生したことになる。もっとも、辻元氏は、ピースボートのほうが忙しかったようで、ほとんどゼミには、顔を出していなかった。したがって、学生時代、彼女と会話をすることは、稀にしかなかったと記憶している。

就職活動の時期となった。私の周りの友人たちは、好調な景気状況の下、次々と一流企業といわれる会社への就職内定を決めていた。しかし、私は、このまますんなりと大学を卒業して会社人間になってしまうことに、割り切れない思いを持っていた。3年数ヶ月の学生生活は、不完全燃焼の状態だったのだ。まだまだ、多くの経験をしたい。そう思った私は、飯場に泊まりこんでの肉体労働をやったりもした。毎夜、出稼ぎ労働者の人たちと酌み交わす酒宴は、私にとって、貴重な社会勉強の場となっていた。また、その頃から、私は、市民団体主催のシンポジウムに頻繁に参加するようになり、実際に、いくつかの市民運動にも関わっていた。水俣病訴訟の勉強会や山谷労働者の支援運動などだ。そうした場において、現在の政治について、口角泡を飛ばして論じ合うのが何よりの楽しみとなっていたのだ。

大学4年の夏から秋にかけては、ひとりでインドを放浪した。卒業論文のテーマが差別問題だったので、社会の隅々にまでカースト制度が根付いているインドという国を自分の体で味わってみたいと思ったのだ。不可触民と称されて、一般社会から隔離されて暮らす人たちの集落に、寝袋ひとつで泊り込んだりもした。
インドから帰国して、周りを見ると、友人たちの就職活動は、ほぼ終わっていた。私は、マスコミに絞っての就職活動を考えていたが、それも、すでに手遅れだった。
「どうせ会社に入ったら、馬車馬のように働かされるんだ。今のうちに遊んでおかなくっちゃー」
そんな友人たちの言葉を尻目に、私は、ますます市民運動にのめり込んでいった。 人の世の不条理を痛感したインドでの体験にも影響され、人権問題の市民運動にも関わるようになっていた。
大学4年の後期試験は、全学にわたる学費値上げ反対のストライキによって、中止となった。卒業論文とレポートを提出しさえすれば、卒業できるのだ。このまま卒業してしまうか、それとも就職留年という名目で大学に残るか、私は迷った。大学既卒者の就職先は、限定されてしまうからだ。私は、授業料を浪費するのは勿体ないという気持ちもあり、4年間で卒業する道を選んだ。そして、既卒者も受け入れる新聞社への就職を目指すことにした。将来的には、新聞記者を経て、政治に携わる仕事をしたいとも思っていた。

大学を卒業した私は、就職試験対策の勉強をしながらも、相変わらず、山谷のドヤ街に出入りして、日雇い労働者やホームレスの支援活動などに取り組んでいた。この頃になると、福祉関係の仕事に就くことも、選択肢のひとつとして、真剣に考えるようになっていた。
そんな生活を続けていたある日のことだった。路上生活者の話を聞こうと、隅田川沿いを歩いている時、道端に落ちている新聞を一部拾った。生活に困窮していた私は、購読紙以外の新聞を読むために、新聞の拾い読みをする習慣が身に付いてしまっていたのだ。早速、ベンチに座り、新聞を読み始めた。すると、そこに、私の目を釘付けにする活字があった。それは、求人広告欄だった。
――衆議院議員 菅直人 政策スタッフ募集。
私は、当時住んでいた中野の四畳半一間の部屋に飛んで帰り、そそくさと履歴書を作成し、それを菅事務所に郵送した。
数日後、採用試験を受けることになった。
三鷹駅の北口にある菅さんの地元事務所には、5名の受験者が来ていたと思う。試験の説明をする菅さんの秘書は、「5、60名ほどの応募者の中から書類選考をして人数を絞り込んだ」と言った。想像していたよりも高い応募者倍率に、それは菅さんの人気を示すバロメーターだと思い、私は、自分の立場を忘れ、嬉しさを感じていた。菅さんに対しては、ファン心理のような気持ちを抱いていたのだと思う。論文記述や一般常識に関する筆記試験は、マスコミ受験の勉強をしていたおかげか、無難にこなすことができた。出題者である秘書は、新聞記者出身だったのだ。
いよいよ、菅さん本人による面接が始まった。目が合った瞬間、菅さんは、にっこりと微笑んでくれた。そして、すぐに、話を切り出す。
「普通免許を持っているようだけど、車の運転には自信がありますか」
私は、菅直人という政治家に寄せる自分なりの思いをぶつけようと、気持ちが勇み立っていた。ところが、まず、菅さんが口にしたのは、この質問である。肩透かしを食わされたような思いがした。後で分かることだが、菅さんというのは、そういう性格の人なのだ。情緒的な言葉よりも、まずは、単刀直入に、本当に聞きたい要件から話を切り出すタイプだ。その性格によって、人情味がないなどと誤解を受け、一方的に敵視されることもあるが、私は、付き合っていくうえで非常に分かりやすい人間だとプラス評価をしている。それだけではない。一緒に仕事を進めていくうえでも、大変心強い存在だと感じていた。あの性格が次々に作業を捗らせてくれるのだ。もっとも、周りがそのスピードに追い付けずに、独断専行と受け取られることも間々あった。 しかし、薬害エイズ問題を解決の方向へと導いた原動力は、せっかちとも言える菅さんの性格によるところも大きいと思う。
「はい、車の運転は、大丈夫です」
最初の質問が車の運転についてだったことに、多少、拍子抜けしたものの、私は、そう胸を張って答えた。実は、その頃の私は、完全なペーパードライバーだった。しかし、車の運転ぐらいどうにかなると考えたし、何としても菅さんの下で働きたいと急き込む気持ちがそう言わせたのだと思う。
その後、菅さんとは、政治談議めいたやりとりを若干したが、面接のほとんどの時間は、菅さんの横に座っている秘書からの質問と、それに対する受け答えに終始した。話は、採用に向けた具体的な内容にまで及んだ。
その日の夜、面接に立ち会っていた菅さんの秘書から、電話があった。採用を知らせる連絡だった。
私は、欣喜雀躍とした気分になった。

 


大学を卒業した私は、就職試験対策の勉強をしながらも、相変わらず、山谷のドヤ街に出入りして、日雇い労働者やホームレスの支援活動などに取り組んでいた。この頃になると、福祉関係の仕事に就くことも、選択肢のひとつとして、真剣に考えるようになっていた。
 

こういう経歴が、先々、刑務所内の障害者たちのおかれた過酷な現実にとりくむベースになっていたのかもしれません。

 


獅子風蓮