というわけで、こんな本を読んでみました。

佐々木閑/宮崎哲弥『ごまかさない仏教-仏・法・僧から問い直す』(新潮選書、2017.11)

 

 

基本原理から学び直せる「最強の仏教入門」登場!
どのお経が「正典」なのか? 「梵天勧請」はなぜ決定的瞬間なのか? 釈迦が悟ったのは本当に「十二支縁起」なのか? 「無我」と「輪廻」はなぜ両立するのか? 日本仏教にはなぜ「サンガ」がないのか? 日本の仏教理解における数々の盲点を、二人の仏教者が、ブッダの教えに立ち返り、根本から問い直す「最強の仏教入門」。


□はじめに
□序 章 仏教とは何か
□第1章 仏──ブッダとは何者か
□第2章 法──釈迦の真意はどこにあるのか
■第3章 僧──ブッダはいかに教団を運営したか
□おわりに──佐々木閑

 


第3章 僧──ブッダはいかに教団を運営したか

(つづきです)

悟りは証明できるか
 

佐々木 波羅夷第四条は、「悟っていないのに悟ったふりをしてはならない」という規則。なぜこれが永久追放の罪に値するのかと言えば、お布施の問題が絡んでくるからです。前にも話しましたが、インドでは立派な人にお布施をした方が、果報が多いと信じられていますから、阿羅漢になればお布施がたくさん集まるようになる。つまり、阿羅漢のふりをすることは、在家の布施を詐取するに等しい悪行なのです。

宮崎 社会学者の橋爪大三郎氏によると、仏教とは「悟りを訊ねあう言語ゲーム」だそうです。悟りがアプリオリにあるのではなく、「訊ねあう」ことで悟りのリアリティが担保されるという。これには一理あって、悟ったかどうかを客観的に判定するのはなかなか困難です。そもそも悟りの境地は言説を超えているわけですから、悟りがいかなるものかを言葉で端的に指し示すことはできない。となれば、悟ったか否かは「訊ねあう」ことを幾度も繰り返すなかでしか判明し得ないことになる。
橋爪氏と言えば、「ゴータマ・ブッダが、輪廻や解脱をまともに信じていたという証拠はどこにもない」「仏教は言ってみれば、唯物論です」などと仏教学者を唖然とさせる放言を連発し、その知識や言説の信頼を大いに失しましたが、この論文をものにした頃、1980年代半ば辺りはずっとマシで、なかなか鋭かった。

佐々木 ああ、橋爪氏の『ゆかいな仏教』という対談本は問題が多かったですね。質問者の大澤真幸氏の方は、最近の仏教学もかなりフォローしている形跡が見られますが、肝心の回答者である橋爪氏の方が、80年代の仏教学の知識で止まったまま、その後あまり勉強していないように見受けられます。
(中略)

 

宮崎 これで比丘の四波羅夷の評釈が終わりました。

佐々木 はい。整理すると、第一条が「性行為の禁止」、第二条が「窃盗の禁止」、第三条が「殺人の禁止」、第四条が「悟ったふりの禁止」。律ではこの四つが、もっとも重い犯罪行為と考えられています。
これら四条に共通するのは、サンガをサポートしてくれる在家信者の目から見て、きわめて悪辣に映る行為だということです。律の規則というものは、サンガが支援者たちから批判され、後ろ指を指されないようにすることを目的として制定されているということが明確に出ています。




大乗仏教の起源の謎

 

宮崎 この章の冒頭で、律は「仏教のDNA」であると伺いました。生物の進化過程がDNAを探ることで解明できるように、律の変遷を調べれば、仏教の変遷、発展の過程がみえてくるはずだというお話でしたね。
ということは、大乗仏教という、原始仏教や初期仏教とはかなり方向の異なる新しい仏教が生まれた原因や発生機序も、律を調べれば推定できますか。

佐々木 はい。私はそう考えています。

宮崎 佐々木さんは、律の「破僧」(サンガを分裂させるという犯罪行為)をめぐるルール変更が、大乗仏教の起源となったという実証に基づく新説を打ち立てられた。『インド仏教変移論』という学術書にまとめられていますが、手短に概説していただけますか。

佐々木 わかりました。その前に、大乗仏教の起源について、他にどのような説があるのかを見ておきましょう。
まず非常に有名な説で、平川彰先生が唱えた仏塔信仰起源説というものがありました。要するに、仏の遺骨を祀る仏舎利塔(ストゥーパ)を中心に集まっていた熱心な在家信者の中から、出家しなくても悟りに到達できるとする大乗仏教が創られたという説です。これは20年ぐらい前までは、かなり有力な学説だったのですが、現在の仏教学の世界ではほぼ否定されています。次の世代のさまざまな学者がそれぞれの領域で反証を挙げてきたのですが、平川説の矛盾を直接指摘して、その論理構造の欠陥を明らかにしたのは、じつは私の論文です。私は平川先生を先達として心底尊敬しているのですが、その先生の説を否定する役回りが自らに回ってきたというの不思議なご縁だと思っています。

宮崎 すでに20年も前に否定されている平川氏の仏塔信仰起源説、在家起源説は、先に触れた橋爪・大澤両氏の共著『ゆかいな仏教』であたかも定説であるがごとく語られています。何でもいいんですが、社会学などという、かなり適当な学域の研究者でも、一応学者なんだから、他領域に口を出すときは最低限の先行研究を調査してから容喙したらどうか、と一読怒りを禁じ得ませんでした。
しかしそういういい加減な内容の解説書だけではなく、学校の教科書でも大乗仏教の起源が平川説で説明されていたりします。世間においてはしぶとく生き延びている(笑)。

佐々木 学問の世界においては、もう平川説を正しいと考えている人はほとんどいないでしょう。ただ何も全否定する必要はなくて、たしかに一部の大乗の流れでは仏塔を崇拝していたわけですから、情報としては平川説の八割、九割は今でも非常に重要だと思います。
で、平川説が崩れた後、やっぱり大乗仏教は在家信者からではなく、サンガの中から生まれたはずだということになるんですが、その方向が全然まとまらない。日本の仏教学者は宗門出身者が多いですから、私からすると、どうしても自らが信仰する宗派を正当化する方向にバイアスがかかってしまうように見えるんですね。つまり、何とか釈迦の仏教と自らの信仰する大乗仏教が直接リンクしたもの、一体化したものであると言いたがる傾向があるような……。

宮崎 日本印度学仏教学会で佐々木さんと論争となった下田正弘氏もそうなのですか?

佐々木 はい。下田さんは私の親友でとてもいい人だから、そんな激烈な論争にはなっていないんですが。

宮崎 いやいや若手研究者が大変だったといってましたよ(笑)。

佐々木  そうかなぁ。ただ、私は日本の仏教学を、宗学ではなく、客観的で正当な学問に引き戻すために、意味があると思ってやっています。

宮崎 下田氏は『涅槃経の研究』という大冊で知られています。

佐々木 あの研究は、私は素晴らしいと思っています。部派教団の中からどうやって大乗経典が出てきたかという一つのモデルを、非常に明確に示しています。要するに、本来の釈迦の仏教とは違った考え方をもった「法師」と呼ばれる人たちが涅槃経に独自の註釈をつけて、そこから大乗の涅槃経が創り出されたという非常に合理的な話です。だから、当時は下田さんも釈迦の仏教と大乗仏教は本質的に異なるものだと考えていたわけです。
ところが、2011年に下田さんが発表した論文「経典を創出する―大乗世界の出現」では、要するに「大乗仏教は釈迦の仏教の延長として自然に現れた。両者に本質的な思想の違いはない」という説を採るようになってしまった。いわば、これまでの自説を否定するような内容で、私から見るとまるで自ら宝物を捨ててしまうようでもったいないと思うのです。

宮崎 ふーむ、そうですか。私は元々、下田氏はそういう立場の研究者かと思っていました。

佐々木 大乗仏教は、本来の初期仏教を大きく改変することでできた、新たな宗教運動であるということは、これはもう曲げられない事実だと思います。それでも、下田さんや日本の仏教学者の中には、どうしても大乗仏教は釈迦の仏教の直流であると言いたいという思いがある。

宮崎 ただ、大乗仏教というのは、いままで論じあってきたように実にいい加減なカテゴリーです。上座説部のように正典が制定されていないし、何を救済するのか、どこを目指すのかも一定ではない。修法にしても、ただひたすら仏の名を称えればよいというものから、仏を表す梵字をみつめて瞑想するものまでバラエティに富んでいる。はっきりいえば、何一つ宗教的価値を共有できないのではないかと思えるほど懸け離れた宗派や学派が、大乗の名の下に十把一絡げになっています。
部派仏教にも対立はありましたが、これほど多様性はなかった(笑)。密教まで大乗仏教の範疇に入れると、定向性のある運動として記述するよりも、定義不能の混沌として記述した方がた ぶん正確です。

佐々木 じつは大乗仏教の定義はその「方向性」を明示することだと考えています。 個々の大乗思想を個別に定義しても意味はない。そうではなくて、それらの間をつなぐ歴史的方向性を一義的に示すことが大乗仏教の定義だと考えています。そういう意味で、私は2017年に『集中講義大乗仏教』という本を出したのです。

宮崎 アナーキーなまでの多様性に開かれていますから、釈迦のオリジナルの仏教に比較的近い立場の宗派、学派もあるでしょう。例えば中観派はそうだと私は考えています。少なくとも連続性と断絶性の二面が看取できる。しかし、そうはいっても大きな差異はあるのです。それが何であるかは、私のいままでの話から予想が付くでしょうが、「言語という問題」の設定です。あるいは諸事物の実体視という「言語の罠」を回避するための方法の確立です。「生死即涅槃」とか、「煩悩即菩提」とかは、言語が作りだした分別の虚妄、概念設定の虚妄を破摧するために導入された道具立てに過ぎません。概念設定こそが諸事物の実体視を促進し、確定する決め手である以上、私達は煩悩を断じ、無明を滅尽するために概念設定の外に出るしかない。しかし言語を離れて「思考」するのは何と困難であることか! 概念設定を止滅するのは何と困難であることか! ブッダが梵天勧請に際し、自分の得た真理は、深遠にして微妙であり、しかも思考の領域ではないので、衆生の理解は届かない、と布教を謝絶した意味がわかるような気がします。

佐々木 梵天勧請というエピソードは、真理の深遠さというよりは、釈迦の見つけた真理が、人間という、自己増大の本能をベースにして生きる生物にとって、いかに理解困難なものであるかを示すエピソードだと思います。そこにはまだ言語の問題は起こっておらず、そこに焦点を当てたのは龍樹独自の志向だと思っています。

宮崎 龍樹は仏教における伝統説のなかに「言語の罠」を、あるいは伝統説に欠けているラストピースとして「言語という問題」を発見した。もちろん最古層の経典においても、上座説部の教理においても、この問題が看過されてきたわけではありません。この論所についても、これまで何度か経証を挙げながら解釈を示してきました。もしかすると彼は改変を施したつもりはさらさらなく、補完しただけ、と思っていたのかもしれません。
しかし、この発見は龍樹の大乗仏教のオリジナリティであって、殊更「釈迦の仏教」との同一性を主張しなくてもよいはずです。
まして浄土教や密教の方々がかなり無理をしてまで、どうしてブッダにオリジンを求めるのか、私にはよくわからない。

佐々木 なぜか釈迦がつくった仏教にあらかじめ大乗仏教が内蔵されていたなどという話になっていく。そうやって、ブッダとの直接関係を無理に設定することで、大乗仏教の正統性を裏付けようという思考です。

宮崎 まあ、教理を抽象的に捉えればそういう仮説も成り立つかもしれません。前にも紹介したように、「スッタニパータ」の最古層の章などにはすでに大乗仏教の様々な要素の萌芽が認められるという説もあります。私などは非常に惹かれる「お話」ですが(笑)。
思想史をやっているとたまに出くわしますが、古い抽象的な文言で綴られたテクストに、後代の様々な思想の祖型が先駆的に書き込まれているようにみえる場合がある。けれど、仮にそれを作業仮説として定立できても、学問というからは継受関係や影響関係を厳密に実証できなければ 単なる「お話」で終わりです。

(つづく)


佐々木 大乗仏教は、本来の初期仏教を大きく改変することでできた、新たな宗教運動であるということは、これはもう曲げられない事実だと思います。それでも、下田さんや日本の仏教学者の中には、どうしても大乗仏教は釈迦の仏教の直流であると言いたいという思いがある。

 

創価学会の仏教理解にも、こういう面がありますね。

法華経を含む大乗仏教は、ブッダの直説ではないものの、新たな仏教の創設と考えればいいのではないでしょうか。

 


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獅子風蓮