そういうわけで、初期仏教のことを勉強してみようと思い、こんな本を読んでみました。

佐々木閑/宮崎哲弥『ごまかさない仏教-仏・法・僧から問い直す』(新潮選書、2017.11)

 

 

基本原理から学び直せる「最強の仏教入門」登場!
どのお経が「正典」なのか? 「梵天勧請」はなぜ決定的瞬間なのか? 釈迦が悟ったのは本当に「十二支縁起」なのか? 「無我」と「輪廻」はなぜ両立するのか? 日本仏教にはなぜ「サンガ」がないのか? 日本の仏教理解における数々の盲点を、二人の仏教者が、ブッダの教えに立ち返り、根本から問い直す「最強の仏教入門」。


□はじめに
□序 章 仏教とは何か
□第1章 仏──ブッダとは何者か
■第2章 法──釈迦の真意はどこにあるのか
 □仏教の基本OS
 ■1. 縁起
 □2. 苦
 □3. 無我
 □4. 無常
□第3章 僧──ブッダはいかに教団を運営したか
□おわりに──佐々木閑


第2章 法──釈迦の真意はどこにあるのか
1. 縁起


(つづきです)

仏教に輪廻は必要なのか
 

佐々木 私は、カースト制度と仏教の輪廻・業思想は、直接的にはリンクしていないと考えています。カーストの存在根拠として、業が都合よく利用されてきたのだと思います。

宮崎 カーストはバラモン教、ヒンドゥー教の影響が大でしょう。他方、仏教の伝統的輪廻業報説を伝持するテーラワーダ仏教の信者が人口の7割を占めるスリランカでは、インドと同じようなカーストはありません。
けれども独自の階層差別は厳存しています。スリランカの最上位のカーストは「ゴイガマ」と呼ばれる農耕民出自の階級です。スリランカ・テーラワーダ仏教のシャム派ではゴイガマしか入信を認められません。ゴイガマのなかでも最上層は「ラダラ」と呼ばれ、シャム派の幹部はすべてラダラ出身者によって占められているそうです。
さらに、異なるカースト出身者同士の結婚は忌み嫌われ、障害者に対する差別すら「前世の業」によって受容を余儀なくされるという。
教理的には、こういった差別は最古層の仏教はもちろん、現在のテーラワーダ仏教によっても正当化できないようにみえるのですが、先の「癡慧地経」を読むとどうも……。

佐々木 ですから、阿含・ニカーヤといっても全部を聖典視して丸呑みするのは禁物で、やはり仏教学の知見を踏まえた歴史的新古の判別が必要なのです。

宮崎 古代インド社会には輪廻という世界観が深く浸透していたわけですから、 生天も解脱もアクチュアルな意味を持ち得たわけですが、輪廻という観念がもともとない地域にあっては社会的な意義すら持ち得ません。また各自の実存問題としても根本的な矛盾が出てきます。
仏教では伝統的に、輪廻という現象は輪廻という形式に対応した個々の生存欲によって引き起こされるとされているからです。「大智度論」第三十巻に「善悪を分別するが故に六道有り」とあるように、善悪を分別するから六道輪廻がある。 とするならば、輪廻思想に基づく善悪という観念を持たない人々のあいだには、少なくとも六道というかたちの輪廻は現象しないはずなのです。
事実、日本には輪廻思想は定着しませんでした。

佐々木 その通りで、日本には厳密な意味での輪廻思想は定着しませんでした。ですから、多くの日本人は良いことをして天に生まれようとか、悪いことをすれば地獄に落ちるとかいう話を、比喩的な道徳訓としては受け容れていますが、心底信じているというわけではないでしょう。しかしその一方で、自分の境涯を業の報いだとか、親の因果とか、成仏できない祖先の祟りといった理屈で理解しようとする人が大勢いることも事実です。そういう意味では、仏教の輪廻思想も日本的に形を変えて定着していると見ることもできるでしょう。

宮崎 西洋哲学者の加藤尚武氏の死に関する本を読んでいたら、仏教批判が展開されているページがあって「輪廻がもともと妄想だったとすれば、妄想から脱却しても、もとの正常人に戻るだけである」と書かれていました。さらに昔も同じ事を考えた人がいたということで、熊沢蕃山の『集義和書』の輪廻批判が引用されています。みてみましょう。
「古今異学の悟道者と申は、上古の愚夫愚婦なり。上古の凡民には狂病なし。其悟道者には此病あり。先地獄・極楽とて、なき事をつくりたるにまよひ、又さとりとて、やうやう地獄・極楽のなきといふことをしりたるなり。無懐氏の民には本より此まよひなし。是を以て、さとり得て、はじめてむかしのただ人になると申事に候」
現代語訳が加藤氏の本に載っているので、これも引用します。
「仏教の悟りを得た人は、大昔の凡人と同じである。大昔の凡人には、狂病(過激な妄想)がない。仏教の悟りを得た人には、この狂病(過激な妄想)がある。 まず『地獄・極楽』というありもしないねつ造に迷って、また『さとりだ』と言って、やっと地獄・極楽は存在しないということを知る。純朴な古代の人にはこのような迷いがもともとない。というわけで、悟りを得てはじめて昔の凡人になるのである」
文中で「大昔の凡人」「純朴な古代人」などといわれているのは日本の文化伝統に馴染んだ普通の人々のことでしょう。
では日本人は、仏教において苦の根源とされる生存欲や善悪、好悪などの分別から逃れられているかといえば、まったくそうではない。無明は、伝統仏教における輪廻とは異なる形式を取って、日本人においても生存苦を生じさせているのです。

佐々木 だからこそ、輪廻業報思想とは切り離した形での仏教が、いま必要とされているのです。さまざまな宗教の中で、いまの我々の生存苦を根本的に取り去ってくれる力を一番持っているのは、そういった形での仏教だと確信しています。

宮崎 従ってこの矛盾は、いまとなっては好機に転じる可能性を孕んでいるともいえます。仏教は、東アジア同様、輪廻の観念伝統を持たないキリスト教文化圏、とくに欧米でも少しずつ信者を獲得しつつあります。インド的、南アジア的文化伝統の重力圏を完全に離れたときこそ、阿含・ニカーヤ最古層などにみえる釈迦の思想の本義に立ち返る好機といえるのではないか。
大乗仏教の禅が欧米を中心に受容されている理由もそこら辺りにあるのかもしれません。坐禅という心身技法を中心に据えていることも理由の一つだとは思いますが、輪廻の伝統教説からかなり離れている、というのも理由でしょう。

佐々木 たしかに、禅には輪廻に対する危機感は見られません。中国ではもはやインド的な身に迫る輪廻の感覚というものはなく、その中である種の仏教復興運動として生まれたのが禅なのでしょう。釈迦の仏教の輪廻という要素を薄めたところに中国独自の禅が出来上がる、と私は考えています。

宮崎 私は輪廻の教説を取り除く必要はないと考えています。むしろ「輪廻思想の可能性の中心」を抽出すべきかと。
チベットで修行経験を持つ仏教学者にして倫理学者の吉村均氏は「輪廻とは単に死後の生があるということではなく、ひとつの行為はそれで完結せずそれによって次の行為が引き起こされていくという行為の連鎖のことである。そのため私たちの生もゼロからいきなり始まったわけではなく、また死んで突然ゼロになってしまうこともないと考える。欲しいものを手に入れよう、嫌なものをなくそうとすることは、いつまでたっても終わりが来ないのであり、そのような行為の連鎖から抜け出すべきことが説かれたのである」と述べています。

佐々木 それは輪廻を教説から取り除いているのと等価だと思います。輪廻という言葉を残しながら別の概念に置き換えているわけですから、それは私の考えている現代仏教のあるべき姿と結果としては同じことになっていくでしょう。

宮崎 また鈴木隆泰氏は、『ここにしかない原典最新研究による本当の仏教 第二巻』で「仏教にとって輪廻の観念は決して『本質的』ではありません。ただし、インドに誕生した仏教にとって輪廻の観念は『本来的』ではあった」としていて、私もそれでよいのではないかと思います。ただこの本は、例えば「スッタニパータ」の全章を最古層の仏典であるかのように扱っていて、どうもタイトルで「原典最新研究」と謳っているわりに、近年の先行研究に対する精査が行き届いていないなあ、という印象を拭えません。
そういう欠点はありますが、この書で説かれている「瞬間瞬間の輪廻転生」という輪廻の捉え方は伝統的であると同時に、未然の「可能性の中心」を開示し得る魅力的なものなので、引いておきましょう。
「サンスカーラは〈自分〉を形成する潜在的力・形成作用です。同一不変の〈自分〉が種々のサンスカーラを発動するのではなく、種々のサンスカーラによって形成される〈自分〉が、〈瞬間瞬間の輪廻転生〉を繰り返しながらせめぎ合っているのです」

佐々木 それもまた輪廻という言葉の意味を刹那滅性に置き換えることで、本来の輪廻を取り除いていることになります。輪廻というのは、本来、刹那滅とは無関係で、あくまで五道あるいは六道の世界を想定し、業の力によって、その中で転生を繰り返す。それが輪廻なのであって、それを他の概念に置き換えるなら、それはやはり仏教からの輪廻思想の除去ということになります。

宮崎 さてこれらの説を踏まえ、中観や唯識の教説を参照しつつ、私がとりあえず仮設するのは「言語表現の三世」です。先程、言語こそが仮構世界の縁起性を担保していると論述しましたが、輪廻もまた言語の「種子性」を軸として再解釈、再設定が可能だと思うのです。
言語は、自己の構成に必須の要素であるにも拘わらず、当初より、生まれる前から他者たちが形成したものとしてすでにあった。赤を「赤」と呼び、手を「手」と呼び、雲を「雲」と呼ぶのは、私が決めたことではもちろんなく、生まれる前の世間、つまり前世においてすでに決定していたことです。この「私」にとって生誕とは、決して自分自身に由来しない余所余所しい言語の世界、ラカン風にいえば「他者たちの語らい」の直中に投げ込まれることを意味します。 「私」が投げ込まれた世間が現世であり、言語は本源的な被拘束性、つまり業なのです。

佐々木 はい。釈迦が言うところの五蘊などのあらゆる構成要素も含めて、全世界がそのような構造であると言うのなら、それは中観的三世となるでしょう。この視点から見て、宮崎さんが中観的立場に立っておられることに関しては、まったく納得がいきます。

(つづく)

 


佐々木 ですから、阿含・ニカーヤといっても全部を聖典視して丸呑みするのは禁物で、やはり仏教学の知見を踏まえた歴史的新古の判別が必要なのです。

その通りですね。


佐々木 だからこそ、輪廻業報思想とは切り離した形での仏教が、いま必要とされているのです。さまざまな宗教の中で、いまの我々の生存苦を根本的に取り去ってくれる力を一番持っているのは、そういった形での仏教だと確信しています。

この主張は大事ですね。
ブッダ自体は、輪廻業報思想から自由ではなかったかもしれないけど、それを重視してはいなかった。
ならば、「差別的な輪廻業報思想とは切り離した形での仏教」を新しく目指してもいいのではないでしょうか。


宮崎 また鈴木隆泰氏は、『ここにしかない原典最新研究による本当の仏教 第二巻』で「仏教にとって輪廻の観念は決して『本質的』ではありません。ただし、インドに誕生した仏教にとって輪廻の観念は『本来的』ではあった」としていて、私もそれでよいのではないかと思います。(中略)この書で説かれている「瞬間瞬間の輪廻転生」という輪廻の捉え方は伝統的であると同時に、未然の「可能性の中心」を開示し得る魅力的なものなので、引いておきましょう。
(中略)
佐々木 それもまた輪廻という言葉の意味を刹那滅性に置き換えることで、本来の輪廻を取り除いていることになります。輪廻というのは、本来、刹那滅とは無関係で、あくまで五道あるいは六道の世界を想定し、業の力によって、その中で転生を繰り返す。それが輪廻なのであって、それを他の概念に置き換えるなら、それはやはり仏教からの輪廻思想の除去ということになります。


いわゆる「六道輪廻」でいうところの「地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天」と、創価学会で教えられるところの「十界論」の中の「地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天」がどういう関係にあるのか、私はよく分かっていないのですが、ここで言われる「瞬間瞬間の輪廻転生」というのは、「十界論」から生まれた「一念三千」の思想に近いような気がします。
日蓮教学からは当然のことなのでしょうが、「差別的な輪廻業報思想とは切り離した形での仏教」は、すでに日蓮教学で実現されているともいえるかもしれません。

 

 

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