「五木の子守唄」といえば「竹田の子守唄」というのもありましたね。
たしか、赤い鳥が歌っていました。


●竹田の子守唄 - 紙ふうせん(kamifusen)


京都の民謡とのこと。
竹田というのは、竹田城のある兵庫県あるいは大分県竹田市の方かと思っていました。
ちがうのですね。
京都府の民謡だったのですね。

調べてみました。

竹田の子守唄
竹田の子守唄は、京都府の民謡、およびそれを元にしたポピュラー音楽の歌曲。
1970年代にフォークグループ「赤い鳥」が歌ってヒットし、日本のフォーク歌手たちなどによって数多く演奏されている。

1960年代の後半、うたごえ運動の展開を背景として京都の伏見区で採譜・編曲され、初めは合唱曲として歌われた。その後関西フォークの歌手たちのレパートリーとして取り上げられ、「赤い鳥」の歌唱によってその叙情的なメロディーと歌詞とが評判になる。しかし、歌詞と被差別部落との関係が取り沙汰されるようになると、放送自粛の動きが広まり、「放送で流されることのない歌としてはもっとも有名なヒット曲の一つ」となった。

経緯:
『竹田の子守唄』を採譜したのは、作曲家の尾上和彦である。1960年代半ば、うたごえ運動が広まる中で大学や労働団体には合唱団や合唱サークルが立ち上げられており、尾上は「多泉和人」のペンネームで作曲活動や民謡採譜のかたわら、これらのサークルに講師として招かれていた。尾上は1962年12月から京都伏見区の竹田地区を訪れており、1964年2月からは部落解放同盟竹田深草支部(当時)の文化サークルとして組織された「はだしの子グループ」へのレッスンを開始していた。
この年、東京芸術座による公演『橋のない川』の舞台音楽を担当することになった尾上は、12月になっても楽曲を完成できずにいた。翌1965年1月の公演が近づく中、尾上は創作のヒントを得るために、彼の下宿に居候していた「はだしの子」のメンバーである野口貢の実母、岡本ふくを竹田地区に訪ねた。岡本ふくは三味線を弾きながら尾上のために「長持ち歌」など約20曲を歌い、これを尾上が録音した。ふくが歌った「守りもいやがる、盆からさきにゃあ、雪もちらつくし、子もなくし、コイコイ」という「コイコイ節」に強烈な印象を受けた尾上は、この歌の旋律をほぼ一晩で作り直し、1月5日に関西テレビでスタジオ録音、12日からの東京芸術座の公演にこぎつけた。
(中略)
大塚と高田のデュエットによる「竹田の子守唄」を聴いて、感銘を受けたのが後藤悦治郎である。後藤は関西フォークの定例コンサートで二人の歌を聴き、後に結婚する平山泰代と二人で歌い始めた。1969年3月、後藤悦治郎は5人グループ「赤い鳥」を結成する。 同年11月に開催された第3回ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテストに出場した「赤い鳥」は、「竹田の子守唄」と「COME AND GO WITH ME」を歌い、小田和正が在籍するジ・オフ・コース(後のオフコース)や財津和夫が率いるザ・フォーシンガーズ(後のチューリップ)らを抑えてグランプリを獲得する。
(中略)

歌の出所と歌詞をめぐって:
「竹田の子守唄」が合唱曲として歌われていた時点では、この歌が被差別部落から生まれたことが伝えられていたが、フォーク歌手たちの間で歌われ、広がっていくにつれて、「竹田」がどこなのかはわからなくなっていた。京都ではなく大分県竹田市だと考えられていたこともある。

シングル盤が大ヒットした1971年4月、伝承歌はその文化背景を学んだ上で歌うべきと考えていた後藤は、「赤い鳥」の原点ともいえる「竹田の子守唄」の出所が不明なことに後ろめたさを感じ、友人で作家志望の橋本正樹と共同してこの歌について調べ始めた。橋本は、ある女性から歌詞にある「在所」が京都では被差別部落を意味すると教えられ、1970年に出版された『京都の民謡』(音楽之友社)に「竹田の子守唄」が紹介されており、京都市伏見区竹田で採譜されたものだと知った。後藤は、『京都の民謡』に掲載されていた「久世の大根めし、吉祥の菜めし、またも竹田のもんばめし」という歌詞に注目し、シングル盤の2番の歌詞「盆がきたとて なにうれしかろ……」の代わりに差し替えてライヴで歌い、ステージでこの歌の出所について詳しく語るようになった。なお、この歌詞で「竹田の子守唄」を歌って最初に録音したのは、加藤登紀子である。
(中略)

放送自粛:
1970年代に入り、「竹田の子守唄」が有名になるにつれて、ちまたではこの曲と被差別部落の関係が囁かれるようになった。例えば、竹田地区出身の作家土方鐵は、1971年に「竹田の子守唄」の竹田が京都伏見であることを『朝日ジャーナル』誌に投稿している。放送メディアは、歌に部落が出てくる(らしい)から、歌が部落を歌っている(らしい)から、というだけの理由でこの歌を忌避するようになった。
「赤い鳥」の後藤悦治郎によれば、ラジオやテレビで「竹田の子守唄」を演奏してはいけないとは言われないが、はっきりした根拠を示すことなく、できれば外してもらいたい、ほかにいい曲があるからそっちをやってくださいという断られ方が多かった。「赤い鳥」のデビュー・アルバム『FLY WITH THE RED BIRD』は、1975年に日本コロムビアから再発売されたが、この時点では収録曲に変わりはない。ところが、1998年にアルファミュージック/東芝EMIからCD発売されたときには、それまで収録されていた全12曲から「JINSEI」が除かれて11曲となっている。
全国地域人権運動総連合(人権連)竹田深草支部の川部昇は、この歌が十数年もの間メディアから消えていったことにより、「うたごえ運動」や多くの歌手・グループによって歌われ築かれた人の輪が壊されたと述べている。
(中略)

元唄の伝承:
「赤い鳥」解散後、後藤悦治郎と平山泰代は「紙ふうせん」を結成した。1981年12月10日に朝日放送で放送された報道特別番組「そして明日は」は、歌と被差別部落の関係を正面から扱ったドキュメントであり、これに出演した「紙ふうせん」の二人は「竹田の子守唄」を「久世の大根めし」の歌詞を含めて歌っている[29]。
「そして明日は」の放送は竹田地区でも話題となった。これをきっかけとして、武村やすが歌う録音された「元唄」が記録され、「こいこい節」などとともに伝承する取り組みが始まった。部落解放同盟改進支部女性部では、元唄と「竹田こいこい節」をレパートリーとした活動を始め、2001年2月の「第6回ふしみ人権の集い」において元唄を披露している。この集いには「紙ふうせん」の二人も参加して彼らの「竹田の子守唄」を歌った。その後、メンバーの高齢化により活動を休止していたが、2022年に部落解放同盟府連合会女性部によって再開している。
(中略)

守り子唄について:
藤田によれば、子守唄には大きく三つの流れがある。「寝かせ唄」、「遊ばせ唄」、「守り子唄」である。「竹田の子守唄」はこのうち「守り子唄」に相当する。「守り子唄」の成立はさして古いものではなく、森によれば明治の中ごろと推察され、民謡や童謡の多くがこのころに成立している。これには、江戸末期から明治にかけて、封建社会から近代資本主義社会へと急速に変化していく過程で、裕福な商家や農家が安い労働力を求めたことに背景がある。貧しい家庭に生まれた少年少女が、期間を定めて丁稚や小僧などの下働きや茶つみなどの季節労働、野良仕事、家事などの仕事をこなす「奉公」と呼ばれる労働形態が生まれた。守り子もそのひとつである。したがって、守り子唄には労働歌としての性格がある。
守り子の奉公がなくなれば、守り子唄は歌われなくなるため、第二次世界大戦後には各地の子守唄はほとんどなくなっていた。しかし、被差別部落では就職の困難性から歌の消滅に20年程度の時間差があった。「竹田の子守唄」が発見された1960年代半ばは、日本の子守唄にとって節目だったとも考えられる。

歌詞:

日本音楽研究会『京都の民謡』(1970年)
音楽之友社から出版された『京都の民謡』(1970年)には、日本音楽研究会採譜として「竹田の子守唄」が掲載されている。タイトルの下には「―京都市・伏見区・竹田―」とあり、「原曲編」では次のような歌詞となっている。

一、もりもいやがる 盆から先にゃ
雪もちらつくし 子も泣くし

二、早(はよ)も行きたい この在所こえて
向こうに見えるは 親のうち

三、来いよ来いよと こまものうりに
来たら見もする(し) 買いもする

四、久世の大根めし 吉祥の菜めし
またも竹田の もんばめし

五、この子よう泣く もりをばいじる
もりも一日 やせるやら


赤い鳥による歌唱(1971年)

一、守りも嫌がる 盆から先にゃ
雪もちらつくし 子も泣くし

二、盆が来たとて 何うれしかろ
帷子(かたびら)はなし 帯はなし

三、この子よう泣く 守りをばいじる
守りも一日 やせるやら

四、早もゆきたや この在所越えて
向こうに見えるは 親の家

2番「盆が来たとて」の歌詞は、森、藤田らによれば高石ともやが『日本の子守唄』(松永伍一著、紀伊國屋書店)で見つけた愛知県の子守唄から組み入れたものである。「赤い鳥」の後藤悦治郎は、当初歌っていたこの歌詞を外し、『京都の民謡』に掲載されていた「久世の大根めし」の歌詞と入れ替えて歌うようになった。
(中略)

歌詞の意味:

明治40年ごろの高瀬川。かつて竹田地区には高瀬舟に従事する人々が遠くは四国から出稼ぎに来ており、「高瀬の船頭」という古謡も採譜されている[56][57]。
森によれば、被差別部落の少女たちは家計を助けるために10歳前後から遠く離れた家に奉公に出され、学校に通う余裕もない中で友達と遊ぶこともかなわず、奉公先で子供を背負いながら労働をこなした。守り子歌には、そうした少女たちがおかれた境遇への悲憤と恨みが綴られているとする[48]。

京都教育大学の武島良成は、歌詞の中で「この在所こえて」と「竹田のもんば飯」の二つの節をこの歌の核心部分としており、その解釈について以下に触れる。

この在所こえて

早(はよ)も行きたい この在所こえて
向こうに見えるは 親のうち

「この在所こえて」の「在所」が被差別部落を指し、メディアがこれに気づいたことにより「竹田の子守唄」は放送されなくなったと考えられていたが、歌い手と「在所」の関係はあいまいである。歌詞を素直に読めば、「在所」を越えたところに親の家があるとすれば、歌い手は部落に住んでいるとは限らない。では歌い手はどこで歌っているのかについても、はっきりしない。森達也は整合性のある解釈を求めて、部落の守り子がたまたま地域の外に出たところで歌っているという状況もあると聞かされている。
(中略)


竹田のもんば飯

久世の大根めし 吉祥の菜めし
またも竹田の もんばめし

この節は「赤い鳥」のシングルでは歌われておらず、後に後藤悦治郎によって「盆が来たとて」の歌詞と入れ替えられた。この歌を歌って採譜された岡本ふくは「ムラの恥をさらした」と後悔し、後藤にこの節を歌ってくれるなと申し入れた経緯がある。久世や吉祥院は、竹田の周辺に所在する被差別部落であり、京都の子守唄には、伏見周辺の地名をふんだんに盛り込んだ歌詞が他にも伝わっていることから、藤田はこのような言葉の掛け合いの形式がこの節の元になったのではないかと推測している。
当時の被差別部落において、大根や菜っ葉は日常的な食材であり、それらを炊き込んだかて飯が主食だった。「もんば飯」の「もんば」とは、おからのことであり、おからを炊き込んだかて飯がもんば飯である。「もんば飯」の解釈については、「竹田の子守唄CD制作委員会」では、久世や吉祥院のような大根飯や菜飯ならまだしもという意味だと説明されている。橋本は「もんば飯」をもっとも劣悪なものと捉えており、それをなぜわざわざ歌うのかといえば、守り子たちの「どん底の楽天性」からだとしていた。藤田も同様であり、もっとひどいことをさらりと流したものとした。
(中略)また、「はだしの子」のメンバーたちは、竹田の結婚式に山盛りのおからが出される風習があり、おからは手間をかけて絞ったもので優越の意味が込められていると解していた者もあれば、残飯のように劣悪だと考えていた者など多様であった。

「赤い鳥」のその後
後藤悦治郎への取材
1974年の「赤い鳥」解散後、メンバーだった後藤悦治郎と平山泰代は「紙ふうせん」を結成した。1981年12月10日に朝日放送で放送された報道特別番組「そして明日は」に出演した紙ふうせんの二人は、「久世の大根めし」の歌詞を2番として「竹田の子守唄」を歌っている。 歌い終えた後藤は、「この唄が生まれた地域を、長く大分県の竹田市と勘違いしながら歌っていました」、「自分はこの唄の本質を長く理解していなかった」と語った。
それから20年ほど経ち、森からの電話インタビューに応えた後藤は「もんば飯」の歌詞について、レコーディングの時点ではこの歌詞があることを知らず、その後ライヴで歌い始めたという。原曲を採譜された竹田の老女がこの歌詞を歌ったことを後悔していると聞き、後藤は彼女に直接会って歌わせてほしいと説得したが、最後まで応じてくれなかった。しかし後藤はこの歌詞が絶対に必要と考え、コンサートでは歌詞の背景や歴史を説明した上で歌っている。また、この歌が放送されなくなった経緯については知っていたが、後藤や「赤い鳥」に対して圧力は一切なかったという。なぜ圧力がなかったのかという問いに対して、後藤は「自信を持って歌っていたからだと思う」と述べ、次のように締めくくっている。
「部落にはいい歌がたくさんあります。抑圧されればされるほど、その土地や人びとの間で、僕らの心を打つ本当に素晴らしい歌が生まれるんです。歌とはそういうものです。僕はそう確信しています。でもそんな歌のほとんどに、今では誰も手をつけようとしない。誰もが見て見ないふりをしている。だからせめて僕くらいは、これからもそんな歌を発掘して、しっかりと歴史や背景も見つめながら、ライフワークとして歌いつづけてゆきたい」


(Wikipediaより)


元唄も調べてみました。

●竹田の子守唄(元唄)

 


実は、「竹田の子守唄」が放送禁止扱いになっていたことも、私は知りませんでした。
美輪明宏の「ヨイトマケの唄」もそうですが、せっかくのいい歌が、メディアの自主規制で放送禁止になるという暗い時代がかつてありました。
「竹田の子守唄」も、時代と地域の背景をよく知ったうえで歌い続けたい名曲ですね。


獅子風蓮