昨日は、法華講員の是好良薬さんから「経歴詐称のニセ法華講員」と誹謗されていることを知り、腹立たしく思ったことを記事にしました。
ゴリゴリの法華講員からは、「大乗非仏説」と「五時八教説は嘘」という常識を言っただけで、「経歴詐称のニセ法華講員」と言われてしまうのですね。

私は、創価学会を退会し、法華講に移籍しましたが、法華講の古い体質に幻滅して法華講の活動はしていません。
しかし、自分なりに信仰は保っているつもりです。
何も自分の信仰が唯一絶対に正しい、などと言うつもりはありませんが、素朴に信仰心を持ち心の支えになっていることを、これまでも記事にしてきました。
でも、そんな記事を読んで、脱会者とりわけ信仰自体も否定している人の中には、気分を害された方もいたようです。

以前、こんな記事を書きました。

 

「認知症の母を介護するということ」という題で、自分の思う所を書いたのですが、アンチ界隈では、想像していた通り評判がよくなかったようです。
たとえば、「自分の心に正直でいたい。」というブログを主宰している捨離子さんはこんな記事を書いています。
ちなみに、捨離子さんという方は、創価学会2世→法華講→幽霊講員→日蓮界隈を卒業。
という経歴の方で、なかなか鋭い、まっとうな批判を、創価学会および宗門に投げかけている方です。

(中略)

捨離子さんの場合は、青春時代の貴重な日々を創価学会の組織に奪われ、脱会後に移籍した法華講に失望して、日蓮仏法を棄ててしまったのですね。
でも、それは創価学会の成果主義に毒された組織や、宗門の古臭い体質が悪いのであって、日蓮や日蓮仏法そのものには非がないのではないかと私は思います。
私も、創価学会の成果主義に毒された組織や、宗門の古臭い体質を嫌い、個人で静かに信仰していますが、信仰自体は私にとって有用なものです。

 

 

この記事にも書きましたが、私は、捨離子さんの実体験に裏付けされた、するどい創価学会批判や宗門批判の記事を読むのが好きでした。

できれば、捨離子さんと意見を交換するような関係になりたかったのです。
しかし、捨離子さんは気楽非活さんの信奉者でしたので、気楽非活の不正確な記事を鵜呑みにしてそれを自分の記事にとりあげることも少なくありませんでした。

なので、次の日このような記事を書きました。

「変成男子」は女性差別か?(2024-03-29)
捨離子さんは、気楽非活さんの信奉者ですから、気楽非活さんの言うことは鵜呑みにします。
しかし、これはどうでしょう。
おそまつですね。
(中略)
素直に日蓮仏法を信仰しているものは、死んだ後、霊山浄土で、日蓮大聖人にお目通りでき、先に死んだ親族にも会える。そこには釈迦・多宝仏・十方の諸仏もおられる……
そう大聖人がお約束して下さったのです。
ありがたいことです。
もちろん、女性信徒は、女性のままでです。
別に「わざわざアレを生や」す必要はありません。
安心してください、捨離子さん!
法華経云々より、日蓮仏法に女性差別がないなら、それ以上いちゃもんをつける必要はなくありませんか。
気楽非活さん。


この記事を読んだのが原因かどうかは知りませんが、その後、捨離子さんはご自分のブログを非公開にして、閉じこもってしまわれました。

私は、がっかりしました。
コメント欄でもいいから、正面から意見を交わしたかったのに。

もう捨離子さんのブログを読めないものとなかば諦めていました。

ところが最近、たまたま捨離子さんのブログが復活していることを知り、うれしく思いました。

捨離子さんのブログ「自分の心に正直でいたい。」を読みすすめていくと、こんな記事が。

「盗人の正義。」(2024-04-01)

                  
>指1本で他人のブログを盗んで、
>他人のブログに解説をつけて評論家を気取る嫌な奴が居る。
>正義のつもりらしい。


間違いなく私のことを批判しているようですが、もし批判するなら、責任の所在をあいまいにせず、きちんと名指しで批判してほしいです。
そして、コメント欄を閉じることなく、反論する場も用意してください。
私のブログにコメントしてくださってもいいです。

私は、公になったブログの記事を批判することはあります。
そのために、誤解が生じないように、前後を含めて、相手の記事を引用します。
それを「指1本で他人のブログを盗んで」とか「盗人の正義」というのは、明らかに悪意をもった、事実に反した言い方です。
捨離子さんや気楽非活さんにとって不本意な記事については、正々堂々と、指摘してください。
コメント欄を開けて待っています。


>アンチのブログは、
>自分と、親の、悲しく腹立たしい記憶、
>そして自分も活動家として、加害者だったという、
>つらい記憶と向き合って、血を吐く思いで一行、一行、書いたものだ。


ここは、よく分かります。
心に刺さる、素晴らしい文章だと思います。


>活動が嫌だから創価学会をやめたくせに、
>「池田センセーの悪口は許さない!」


私は、創価学園の卒業生として創立者を敬愛するところがあります。
それはそれとして、末端会員のカネと時間を収奪する学会組織を作った池田氏のことを批判もしています。宗門とのケンカの時は、謀略的なそのやり方にウンザリして、平成3年の時に脱会して、法華講に移りました。
「池田センセーの悪口は許さない!」などとブログに書いたことは一度もありません。

どうも捨離子さんは、私の記事をきちんと読んでいないようです。
批判するからには、相手のブログを最初から最後まで、きちんと読みましょう。



>更に、活動が嫌だから法華講も非活のくせに、
>「日蓮、題目、御本尊の否定は許さない!」


私は、法華講に移籍してから、その体質の古いことに嫌気がさしました。
創価学会と同じように、折伏の数や登山の人数を競うような成果主義を感じました。
そんなことがあり、法華講の活動にも出なくなりました。
ですから、捨離子さんとは気が合うような気がしていたのです。
自分は、組織活動はしませんが、個人で信仰を保っているつもりです。
ですから、そういう信仰心を汚すような、気楽非活さんや捨離子さんの記事を批判することはあります。それは当然でしょう。
相手の信仰を尊重する態度は、誰にも必要だと思いませんか。
ちなみに、信仰の対象である「日蓮大聖人」ではなく歴史上の「日蓮」には時代的制約がありますから、誤りもあります。天台智顗の「五時八教」を信じたことなど、その代表でしょう。また、大御本尊に偽作の疑いがあることも承知しています。
それでも、私としては、信仰として、大聖人のことも大御本尊のことも捉えています。
「日蓮、題目、御本尊の否定は許さない!」というような、おおざっぱなスローガンを唱えたことはありません。

私の主張とは、だいぶニュアンスが違います。


>自語相違のずるい人間が、血を吐く思いでブログを書いている人達に、次々と、粘着して、いくつものブログ閉鎖に追い込んできた。

私が無理やり他人のブログを閉鎖に追い込んだわけではありません。
ゼロさんといい曽根さんといい、自分からブログを閉めていったのです。
これについては、後の回で詳しく説明します。


>自分は一人日蓮信者だとうそぶきながら、題目に限界を感じて、【瞑想】をやっている。
>【瞑想】は日蓮が批判していた【禅】ではないのか?


「瞑想」やマインドフルネスは、一般にも認められている臨床心理学的治療の一部です。
アメリカや日本の大企業でも取り入れられているそうですよ。
そもそも、釈尊は座禅を組んで悟りに至ったわけで、日蓮が座禅自体を批判していたとは思いません。


>創価学会や日蓮正宗で信仰に励んで、結果創価学会も日蓮正宗もインチキだと気がついて、そこを去った人に、
>「本気で祈らなかった」だの、
>「本当は信じていなかった。」だの、
>戯言を言って、傷に塩を塗り付けるブログ盗人。


ここは、捨離子さんが「何の効力もない題目」と言ったことに対して私が、サトウサンペイさんの本やらいろいろ持ちだして、素朴な信仰心の尊さを書いたことに対する、ヒステリックな反論と思い、ぐっとこらえましょう。

何度でも言うようですが、捨離子さんも私も、創価学会や法華講の組織に嫌気がさして離れているわけです。
ですから、捨離子さんのお気持ちは分かります。
ただ、そういう組織悪を離れて、純粋な信仰として実践してみれば、「何の効力もない題目」という言い方が間違っていると分かるではないかと思うのです。
そういう祈り方を、あなたはしてこなかったのではないでしょうか。
創価学会組織や自分の母親の言われるように、長時間御本尊の前に座り、高速の題目をあげることが、正しい祈り方だとは、私には思えません。
正しい祈り方で題目をあげれば、少なくともプラシーボ効果以上の効力はあると思います。

少なくとも、私は、毎日の生活の中で「功徳」を感じています。

でも、私の
__捨離子さんがいう「何の効力もない題目」というのは、心から信じていなかった人のいうセリフですね。

という表現は、必要以上に捨離子さんの気持ちを逆なでしてしまったようですね。
申し訳ありませんでした。


>自分のしていることがわからないなら、
>キリスト教の?あなたの娘に、あなたのコピペブログを読ませてみればいい。


私の娘にはキリスト教徒はいません。
三女が教会で人前結婚式をあげましたが。

人を批判する時には、相手のブログを正確に読みましょう。

誤解が解けて、捨離子さんと仲良くなれることを願っています。

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獅子風蓮