寮美千子さんは、「奈良監獄物語」という絵本も出しています。
絵本ですから、分かりやすいことばで、「奈良監獄」を主人公にして話がすすみます。
すてきな絵本ですが、文章のみ紹介したいと思います。
目次
□坂の上の赤煉瓦
□美しい刑務所
□明治五大監獄
□黒船来航と不平等条約
□ギス監から近代的監獄へ
□囚人たちが積んだ赤煉瓦
□五翼放射状舎房
□暗い時代
■阿修羅さまたちの疎開
□若草理容室
□花火
□監獄法の改正
□やさしさを響かせる楽器
□取り壊しの危機
□町の人々の願い
□喜びと悲しみ
□別れの演奏会
□未来への船出
資料編
・奈良監獄建築配置図
・明治五大監獄
・旧奈良監獄の歴史
阿修羅さまたちの疎開
言論弾圧の末、日本は戦争への道を歩みだす。
1941年(昭和16)、太平洋戦争開戦。
勢いよく始めたが、最初から無謀な戦争だった。
1945年(昭和20)6月、戦況はますますきびしくなり、
空襲はとうとう、古都奈良にまで及んだ。
「大仏さまは運べないが、せめて運べる仏さまだけでもお守りしたい」
仏像や国宝の疎開が始まった。
7月、興福寺では八部衆と十大弟子を疎開させることにした。
阿修羅像も、布でぐるぐる巻きにされ、列車に乗せられた。
疎開先に選ばれたのは、吉野のお山。
列車に揺られて3時間、駅に着いたものの、そこから先は、急な七曲坂だ。
そのころ、男たちはみな兵隊に取られてしまっていた。
残っていたのは、奈良刑務所の受刑者たちだ。
そこで、彼らの出番となった。
受刑者たちは仏像を担架に乗せ、町長の家の蔵まで、一歩一歩大切に運んだ。
町長は、裃を着て仏さまたちをお出迎えし、こういったという。
「仏さまになにかあったら、私が腹を切ります」
このことは、村人にも秘密にされていたので、
となりの家の人さえ、仏像が来ていることに気がつかなかった。
疎開からひと月足らずの8月15日、戦争は終わった。日本は負けたのだ。
仏像たちが興福寺に戻ったのは、翌年の4月のことだった。
このときも、仏像を運んだのは受刑者たちだった。
もっとも罪深いと思われてきた人々が、もっとも神聖な仏像を守ったのだ。