寮美千子さんの詩集を紹介しました。
寮美千子さんと奈良少年刑務所との出会いのきっかけは、その建物の美しい姿だったそうです。


そこで、『美しい刑務所-明治の名煉瓦建築奈良少年刑務所 写真集』という本を図書館で借りてきて読んでみました。

かいつまんで紹介したいと思います。
写真は、この本の写真とほぼ同じ写真を使ったホームページから引用させていただきました。

旧奈良監獄




目次

□プロローグ

□おじいさんが造った刑務所 祖父・山下啓次郎と奈良監獄 山下洋輔

□丘の上の刑務所 明治日本の司法近代化の記念碑 寮美千子

□日本近代史と奈良少年刑務所の歩み

□奈良少年刑務所 見取図及び概要

【写真編】 刑務所建築の美

周辺地図

【寄稿編】 わたしたちの刑務所

あたたかな刑務所 歴史に育まれた更生教育

□寮美千子
□田中 睦
□大川哲次
□露の新治
□脇屋眞一
□上司永照

みんなの刑務所 地元との揺るぎない絆

□横田利孝
□小井修一
□前田久美子
□新井 忍
□谷 規佐子

なつかしい刑務所 煉瓦作りからスポーツ交流まで

□鈴木啓之
□高井啓介
□山中千恵子
□濱田恒一
□四本雅勇

たいせつな刑務所 近代建築の保存と活用

□前畑洋平
□神吉紀世子
□馬場英男
□日本赤煉瓦建築番付

わたしがいた刑務所 塀の中からの風景

■太田憲一郎
■前田 剛
□シンタロー
□高田鑛造


夢みる刑務所 未来への提言

□北夙川不可止
□川井徳子


美しい刑務所 明治の名煉瓦建築

□藤森照信

□あとがき
 


わたしがいた刑務所 

塀の中からの風景

手がかじかむほど寒かった
太田憲一郎(スポーツ指導員)


実はわたしは、若い頃、奈良少年刑務所の拘置所に2回お世話になったことがあるんです。警官がいつまでもパトカーを停めていたんで、「店の営業妨害になるやんか。どけてくれへんか」と言うたら、「おまえ、なにさまか」と言われ、警官ともみあいに。手が当たったら「公務執行妨害」で逮捕され、1年4カ月の実刑をくらいました。新聞の見出しは「暴力団員『パトカー、じゃまや、どけんか』と警官に殴りかかる」。当時は、現役組員だったので、刑もきつくなるし、社会の風当たりも強かったんです。次は、飲食店にみかじめ料を取りに行ったとき。法律で禁止されたので、恐喝罪で捕まりました。
いまはもう、組も辞め、すっかり足を洗って堅気になり、スポーツジムに通う日々です。
拘置所の思い出といえば、捕まったのが冬だったので寒くて寒くてたまらなかったこと。体を鍛えているし寒さには強い体質なんですが、手がかじかんで、ペンが握れず、手紙も思うように書けませんでした。
食べ物は刑務所にしてはよかったです。天丼も出たので驚きました。成長期の若者のための食事なので、タンパク質もしっかり採らせてくれたんですね。でも、海老は衣の半分より小さいくらいでしたが(笑)。
もう一つ、記憶にあるのが建物のこと。「ああ、これが明治五大監獄の一つなんやなあ」と感慨深く思いました。雑誌で読んで知っていたんで。「中から見られるなんていまだけだから、しっかり味わっとこ」と思いました。
ここは古い刑務所なので、部屋に入ると、自分で電気のスイッチを消すようになっているんですね。大阪刑務所では、看守が一斉に電気を消すので、自分で消せるというのは、なんだか自分の家にいるみたいで、うれしかったな。
ただ、少し前に阪神・淡路大震災があったので、心配でした。この建物、持つんやろか、なにかあったとき、誰か助けに来てくれるんやろか、と気になってたまりませんでした。
奈良少年刑務所がなくなると聞いて、「拘置所はどうなるんやろ」と思いました。なくなったら不便になるな、家族が面会に来るのが大変や、と思いましたが、考えてみたら、もうお世話になることはないので、心配要りませんね(笑)。建物の保存を検討していると聞いてほっとしました。ホテルになるそうで、楽しみですが、「観光地になって人がわんさか来るんやろか」と、半分は心配な気持ちです。

△おおた・けんいちろう 昭和43年(1968) 大阪府堺市生まれ。平成10年(1998)から奈良市に在住。


 



「若草理容室」からの再出発 
前田 剛(理容師)

 

若い頃、暴走族同士の抗争で殺人未遂事件を起こして有罪となり、20才から27才まで奈良少年刑務所で服役しました。悪いことをしたから仕方ないんですが、青春まっ盛りを、丸々刑務所で過ごすことになってしまいました。
最初の1年間は、ほんとうにつらかったです。食事から風呂、睡眠にいたるまで、すべてに細かい規則があって、窮屈でたまりませんでした。自由時間は、夕食後の6時から9時まででしたが、それもほんとうの自由ではないんです。本を読むにしても、寝っ転がったり、壁にもたれてはいけない。机の前にきちんと座って読まなければなりませんでした。横になりたいときは、布団を敷いて、布団のなかに入らなければならず、テレビを見ても、本を読んでもいけないんです。ゆったりとくつろぐような気持ちにはなれませんでした。それでも、1年を過ぎると、だんだん楽になってきましたから、人間って慣れるものですね。
刑務所生活で一番つらかったのは、やることがないことです。居室でくつろぐこともできず、ただただ時間が過ぎていくのを待つしかない。職業訓練などで体を動かしている時間の方が、ずっとましです。訓練のない週末の土曜・日曜が、ことにつらかったですね。お正月は休みが長いので、もっとつらかったです。そういうときに、どうやって時間を潰すか、有効に使うか、が大問題でした。
自分は、職業訓練の理容科にいたので、自由時間は理容師の免許を取るための学科の勉強をしました。ほかにも通信教育で簿記や危険物取扱者の勉強をして免許を取りました。勉強熱心というより、他にすることがなかったのです。
そんな日常ですから、行事が一番の楽しみ。月に1度は、映画鑑賞会がありました。 ほかにも、1月は卓球大会、4月は観桜会――刑務所の塀の中には、見事な桜が咲くんです。5月はソフトボール大会、7月は水泳大会、8月には盆踊り、10月は運動会、11月はバレーボール大会と季節の行事がありました。カラオケ大会も年に2回。1回は、出場者が決まっていて、競いあう会。もう1回は、だれでも歌いたい者が歌える気楽な会でした。行事があると、それだけ仲間との距離も近づき、仲良くなれます。
担当のオヤジ(刑務官)も、結構必死で相談に乗ってくれました。刑務所のことをこんなふうに言うのもおかしいのですが、アットホームなあたたかさがあったと思います。 奈良少年刑務所の出所者は、再犯率も低いと聞いています。実際、自分がおったころの理容科の仲間たちは、みな社会復帰していて、再犯した者はいません。やっぱり理容師が多いですが、なかには株で大儲けした人もいます。
刑務所内の理容科では、3年間学ばせてもらいました。最初の2年間で学科と基礎訓練を受け、3年目のはじめに理容師の免許取得の試験を受けて合格しました。学科は、外の試験会場で受けさせてもらい、実地は刑務所で受けます。2年目から、インターンとして「若草理容室」(一般の人も利用できる刑務所内にある理容室)で働き、合格してからは、お客さまの髪も切らせてもらいました。
「若草理容室」のヒゲ剃りは天下一品です。というのも、理容科の受講生は、受刑者全員のヒゲをあたるからです。自分がいた当時は600名ほどいましたが、全員が、週に一度、13実習場でヒゲを剃ることになっていたのです。午前中は、毎日毎日、受刑者のヒゲを剃っていましたから、嫌でも腕が上がります。それから、3週間に1度は、全員が丸刈りにすることになっていて、この作業も、理容科の仕事でした。
理容科だけは蓄髪(髪を伸ばすこと)が許されていました。互いを練習台にして腕を磨くためです。技官の先生から徹底的に基礎をたたき込まれ、実践も積むので、上達します。理容学校を卒業したての人よりも、ずっと「使える人材」になります。
わたしはいま、理容チェーン店の会社の専務をしていますが、受刑者の就労支援で理容科の修了生を採用しています。それも、単に社会貢献のためではなくて、実際に腕がよくて即戦力になるからなのです。
わたしがいまあるのも、刑務所で理容を学ばせてもらい、免許を得たおかげです。免許があり、腕もあれば、就職には困りません。ありがたいことだと思っています。
関西で理容科があるのは、奈良少年刑務所だけです。和歌山女子刑務所には美容科があるそうですが、理容は奈良だけなので、廃庁でそれがなくなってしまうのは残念です。 技官の先生は、どうなさるんでしょうか。わたしのような社会復帰への道筋も閉ざされてしまいます。
煉瓦造りの建物は、ボロかった、という印象しかありません。冬はすきま風で寒く、夏にはそのすきまから虫が入ってきて参りました。居室の扉は、ひどく厚い板でできています。一番最初に居室に入れられてバタンと閉められたときには、ショックでした。分厚い扉で、なかにはドアノブもなく、世間からすっかり隔絶されたような気がして、精神的に参りました。
しかし、建物の造りはしっかりしていたようです。阪神・淡路大震災の発生時、わたしは居室で寝ていたのですが、棚から物が落ちてくるようなことはあっても、扉が歪んだりはしませんでした。地震発生の直後は、オヤジがやってきて、片っ端から、扉の鍵を開けてくれ、扉に雑巾を挟みました。扉が閉まった状態で次の地震が来て歪んで、出られなくなる危険があったからでしょう。扉は開けっ放しになりましたが、勝手なことをする者は一人もいませんでした。後でわかったのですが、扉が歪んだりしたところは、刑務所内のどこにもなかったようです。よほどしっかりした造りなのでしょう。
奈良少年刑務所の建築物が、重要文化財に指定され、ホテルになると聞きました。あの建物が残るのは、いいことだと思います。ホテルになったら、行ってみたいような気がします。できれば、自分がいた5上(ゴージョー=第五寮の2階、1階はゴーゲー)に泊まってみたい。
あのときのことを思ったら、どんな苦労でも大したことがないように思えます。好きなときにジュースが買えるし、疲れたらごろんと横になれる。そんな当たり前のことが当たり前にできるのがしあわせなのだと、つくづく感じています。さまざまな思い出の詰まった「若草理容室」は、ホテルの理容室として、ぜひそのまま残してほしいと願っています。

△まえだつよし 昭和45年(1970)奈良市生まれ。 20代に、奈良少年刑務所に服役。


もう一つ、記憶にあるのが建物のこと。「ああ、これが明治五大監獄の一つなんやなあ」と感慨深く思いました。雑誌で読んで知っていたんで。「中から見られるなんていまだけだから、しっかり味わっとこ」と思いました。

奈良少年刑務所の建物の美しさは、受刑者の心にもいい影響を与えたようです。



担当のオヤジ(刑務官)も、結構必死で相談に乗ってくれました。刑務所のことをこんなふうに言うのもおかしいのですが、アットホームなあたたかさがあったと思います。 奈良少年刑務所の出所者は、再犯率も低いと聞いています。実際、自分がおったころの理容科の仲間たちは、みな社会復帰していて、再犯した者はいません。やっぱり理容師が多いですが、なかには株で大儲けした人もいます。

以前、TBSドラマ「不適切にもほどがある」についての感想を記事に書きました(この記事)が、
昭和の時代には、つねにイライラしてつっぱっていた純子が、未来の令和に来たら、周囲の人に優しくされて、戸惑ったような表情をします。そして、昭和の時代に戻った純子は、それまでのつっぱりをやめて、将来にむけてきちんと勉強をはじめるのです。

受刑者となった青年や少年が、美しい建物である奈良少年刑務所で、教官から愛情のこもった接遇を受けたら、すっかり表情が変わって、更生の道を歩む例が少なくないとのこと。


おんなじですね。

 


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獅子風蓮