前回、寮美千子さんの詩集を紹介しました。
寮美千子さんと奈良少年刑務所との出会いのきっかけは、その建物の美しい姿だったそうです。


そこで、『美しい刑務所-明治の名煉瓦建築奈良少年刑務所 写真集』という本を図書館で借りてきて読んでみました。

 

 

かいつまんで紹介したいと思います。



目次

□プロローグ

□おじいさんが造った刑務所 祖父・山下啓次郎と奈良監獄 山下洋輔

■丘の上の刑務所 明治日本の司法近代化の記念碑 寮美千子

□日本近代史と奈良少年刑務所の歩み

□奈良少年刑務所 見取図及び概要

【写真編】 刑務所建築の美

周辺地図

【寄稿編】 わたしたちの刑務所

あたたかな刑務所 歴史に育まれた更生教育

□寮美千子
□田中 睦
□大川哲次
□露の新治
□脇屋眞一
□上司永照

みんなの刑務所 地元との揺るぎない絆

□横田利孝
□小井修一
□前田久美子
□新井 忍
□谷 規佐子

なつかしい刑務所 煉瓦作りからスポーツ交流まで

□鈴木啓之
□高井啓介
□山中千恵子
□濱田恒一
□四本雅勇

たいせつな刑務所 近代建築の保存と活用

□前畑洋平
□神吉紀世子
□馬場英男
□日本赤煉瓦建築番付

わたしがいた刑務所 塀の中からの風景

□太田憲一郎
□前田 剛
□シンタロー
□高田鑛造


夢みる刑務所 未来への提言

□北夙川不可止
□川井徳子


美しい刑務所 明治の名煉瓦建築

□藤森照信

□あとがき
 


丘の上の刑務所 

明治日本の司法近代化の記念碑 

寮美千子

奈良少年刑務所の表門は、明らかに西洋風な意匠でありながらも、古都奈良の古風な町並みに違和感なく溶けこんでいる。ここに存在し続けた百年を超える年月のなせる業だろうか。アラベスク模様の扉の向こうには、西洋式の庭園と城かと見まごうばかりのりっぱな庁舎。刑務所であるのに、どことなくおとぎ話めいて見えるのがふしぎだ。
建物に美しい装飾が施されているのは、表から見える部分ばかりではない。一般人が見ることのない奥の部分に至るまで、すべて美しいのがこの刑務所の特徴だ。
庁舎の奥には、5本の廊下が放射状に広がる2階建ての舎房(五翼放射状舎房)が控えている。放射状の要の部分には中央監視台があり、ここに立てば、すべての舎房を見渡せる仕組みだ。木製の監視台は、優美なカーブを描くアール・ヌーヴォー様式。ただの四角い机でも構わないはずなのに、あえてそんな意匠が凝らされている。見あげれば天窓から光が射し、教会の聖堂のような神聖さを感じずにはいられない。
舎房の各廊下の入り口には「第一寮」から「第五寮」まで、各舎房の名前が記されているが、その周囲も漆喰の鏝絵(こてえ)で美しく縁取られている。昔風に右から左へと書かれている文字が、時代を感じさせる。舎房の外側の屋根の下にも、蛇腹風の軒飾りロンバルディア帯が隈なく施されている。部外者がほとんど訪れることのない受刑者の居住空間であるにもかかわらず、この刑務所は、細部にまで気が配られ、すべてが美し く造られている。明治政府は、なぜこれほどまでに美しい刑務所を造ったのだろうか。
明治維新の時代、日本は西欧諸国に追いつこうと必死だった。なんとか西欧と肩を並べる一等国になりたいと願っていたのだ。そのために、自国の文化であったチョンマゲも切り、正装には洋装を採りいれた。涙ぐましいと言っていいほどの努力だった。
政府を悩ませていたのは、明治になる直前に諸外国と結ばれた不平等条約だった。安政5年(1858)、幕府は西欧諸国からの圧力に抗しきれず、日米修好通商条約をはじめとする「安政五カ国条約」を締結した。これが、関税自主権もなく、相手国に領事裁判権を認める不平等条約だったのだ。その10年後に幕府は倒され、明治の世となったのだが、明治政府は、なんとかしてこの不平等条約を解消したいと願っていた。領事裁判権とは、治外法権の一つ。在留外国人が事件を起こしたとき、日本人が日本の司法では裁けず、本国の領事が本国の法律にのっとって裁判するというものだ。もちろん、外国政府が自国の民に甘くなるのが常だ。政府は、不平等条約の解消を申し入れたが、断られてしまった。その理由は、「日本にはろくな牢獄もなければ、近代的な司法制度も整っていない。これでは受刑者の人権を確保することができない」ということだった。 実際、当時の日本にあったのは、時代劇に出てくるような木造の粗末な牢屋。奈良奉行所時代から使用されていたものが、いまも奈良少年刑務所の一角に保存されている。 格子の上に屋根を載せただけの形が、キリギリスを入れる虫籠に似ているので、「ギス監」と呼ばれていた。
政府は一念発起。司法体制を整えるとともに、人権の守れる設備の整った刑務所を建設するために、西欧諸国の刑務所建築の視察を行うことにした。このときに派遣されたのが、司法省の若き建築技官・山下啓次郎だった。
慶応3年(1868)、鹿児島に生まれた山下啓次郎は、東京帝国大学工科大学に進み、後に東京駅を設計した日本の大建築家・辰野金吾に建築を学んだ。
明治34年(1901)、山下啓次郎は33歳で渡欧、8カ国で30カ所以上の刑務所を視察したとされる。帰国後、明治五大監獄を設計。山下の設計した千葉、金沢、奈良、長崎、鹿児島の五大監獄は、すべて明治40年(1907)から翌年にかけて竣工している。鹿児島を除いて煉瓦造り。鹿児島だけは、現地で採れる小野石を採用した石造 りであった。そして、すべてが、放射状の舎房と西洋中世の城門風の表門を持つものだった。つまり、この過剰なまでに美しくりっぱな5つの刑務所は、不平等条約解消の悲願を達成するために、明治政府が国の威信を賭けて建築したものだったのだ。明治時代の日本人が必死で近代化を成し遂げようとした、輝かしくも涙ぐましい記念碑である。
不平等条約は、幸い五大監獄の竣工を待たずして、政治家たちの粘り強い交渉によって改正された。
奈良監獄が造られたころの奈良には、大きな変化があった。奈良監獄の竣工が明治41年(1908)。翌年には、奈良女子高等師範学校(現・奈良女子大学)と奈良ホテルが竣工している。前者は、奈良奉行所跡に造られたもの。奉行所跡地付近にあった奈良監獄が奈良坂の丘の上に移転した後に建てられたものだ。奈良ホテルは、鉄道院によって造られた国営のホテルで、「西の迎賓館」と呼ばれ、国賓や皇族が宿泊するためのものでもあった。明治40年代初頭、国の近代化を象徴する監獄と学校とホテルとが一気に奈良に造られたのは、西欧化を急いで自国の文化を置き去りにしてきた日本が、改めて自国の歴史を振り返り、そのアイデンティティを、大和朝廷の始まりの地・奈良に求めたからだろうか。
古代国家発祥の地に、いくつもの西洋風な建築物を造ったところに、当時の日本の複雑な心境が見てとれる。
五大監獄は、時の流れのなかで建て替えや移築がなされていった。鹿児島と長崎は、移転して表門のみ現存。千葉は表門と庁舎のみ現存。金沢の刑務所も移転し、旧建物の一部を明治村に移築している。鹿児島刑務所の解体の折には、保存を求める市民の運動が起きた。山下啓次郎の孫であるジャズピアニストの山下洋輔氏も、その運動に参加したが、実らず、表門のみを残して解体となってしまった。その経緯は、山下洋輔氏著の『ドバラダ門』に詳しい。
全貌を残し、しかも元の場所で当初の目的のまま使われているものは、奈良少年刑務所のみであった。百年を超えて残されてきたことは、まさに奇跡と言ってもいい。平成26年(2014)には建物の保存を求める市民の会「奈良少年刑務所を宝に思う会」を結成し、山下洋輔氏に会長になっていただいた。
平成28年(2016)7月、法務省から、奈良少年刑務所を翌年3月末で廃庁するとの発表があった。幸い表門や庁舎、舎房などの明治の名煉瓦建築は国の重要文化財に指定され、民間の力でホテルなどとして活用される予定だという。それも、この建物が日本の近代化の記念碑であるということと同時に、比類なく美しき建物だからだろう。山下啓次郎が、欧米の刑務所視察から得たのは、力による刑罰での受刑者への抑圧の思想ではなく、やさしさによる受刑者たちの更生への切なる願いだったに違いないと、この 美しい刑務所を見ていると思えてくる。
本書掲載の写真は、故・上條道夫氏により平成22年(2010)2月に撮影。本来の目的である刑務所として使われていた時代の、そのままの姿をとどめる貴重な写真をごらんいただきたい。(寮美千子)



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