昨日は、「認知症の母を介護するということ」という題で、自分の思う所を書いたのですが、アンチ界隈では、想像していた通り評判がよくなかったようです。

たとえば、「自分の心に正直でいたい。」というブログを主宰している捨離子さんはこんな記事を書いています。

ちなみに、捨離子さんという方は、創価学会2世→法華講→幽霊講員→日蓮界隈を卒業。
という経歴の方で、なかなか鋭い、まっとうな批判を、創価学会および宗門に投げかけている方です。

独り言。(2024-03-27)
人生の一番可能性ある時を、
日蓮と題目と教団に奪われて覚醒した人間は、
覚醒後の人生で、
いかに苦しく切ない事に遭遇しても、
日蓮と題目に助けを求める事は無い。
(中略)
何故に、日蓮に懲りた人間に、
何の効力もない題目を勧める者が居るのか?
私は理解できない。


捨離子さんの場合は、青春時代の貴重な日々を創価学会の組織に奪われ、脱会後に移籍した法華講に失望して、日蓮仏法を棄ててしまったのですね。

でも、それは創価学会の成果主義に毒された組織や、宗門の古臭い体質が悪いのであって、日蓮や日蓮仏法そのものには非がないのではないかと私は思います。

私も、創価学会の成果主義に毒された組織や、宗門の古臭い体質を嫌い、個人で静かに信仰していますが、信仰自体は私にとって有用なものです。


なにも、日蓮仏法のみが正しく、これ以外の宗教ではダメだと言っているわけではありません。

以前、こんな記事を書きました。


サトウサンペイさんの死を悼む(2021-08-15)

サトウサンペイさんは、時代風刺をまじえたユーモアあふれる筆致でサラリーマンら庶民の気持ちを代弁し、多くの人に人気でしたが、金光教の信者でもあり、著書もあります。
「ドタンバの神頼み」1989年

 

 

私の持っている本の表紙カバーには「不安をあずけて軽くなる」と大きな文字で書いてあります。

サトウサンペイさんはこの本の中で、素直な信仰心のすばらしさを紹介しており、信仰の対象こそ異なるものの、共感するところが少なくありませんでした。

「お母さんの代わり」というエッセイでは、こんなことを書いてあります。
小学生のころのこと探し物をしていて、見つからない。
__お母さん、色鉛筆どこ?
ところが、不思議なことに、お母さんがやってくるまでにたいてい見つかる。
あれは「お母さん」と叫んだとたん、イライラや不安や心配をお母さんの方に預けることができ、今まで立ち込めていた白い霧が晴れ、目の前がはっきり見えたからである。
もし、お母さんの代わりに絶対に信じられるものがあったとしたら……
それが神様だというのです。


私が昨日の記事で、「自分の抱える悩みを、ご本尊様に委ねることも、信仰としてはアリではないでしょうか」と書いたのも、同じ意味があります。
対象はご本尊様でも、金光教の神様でも、お母さんでも、なんでもいいのですが、絶対に信じられるものに、不安やイライラなどをいったん預けることで、心が落ち着き、道が開けることがあるのです。

私はなにも日蓮や題目を押し付けるつもりはありません。
捨離子さんには、日蓮や題目にそうとうな恨みがあるようですので、それこそ阿弥陀仏でもキリストでも八百万の神でも、なんでも好きなものを信仰すればいいでしょう。

でも、nijorengeさん場合には、お母さんが長年信じてきた信仰の対象に向かって一緒に題目をあげることが自然ではないかと思ったのです。
しかし、創価学会組織にさんざん嫌な目にあってきた人にとっては不愉快な一節だったのでしょう。

嫌な思いをさせてしまい、申し訳ありませんでした。



ところで、サトウサンペイさんの本ですが、「お守り袋にイワシの頭」というエッセイでは、「イワシの頭も信心から」ということわざの本来の意味が少し違うということを書いています。
ある信心深い女性が、お守り袋に入っていたお守りが実はイワシの頭と知らずに信じて祈ったときは大きなご利益をこうむったが、イワシの頭と知らされたあとは、何のご利益もいただけなかったという話です。
医療の場で使う偽薬(プラセボ)も、本物の薬だと信じて服用する方が効果があります。



私たちがご本尊を前に祈る時も、ご本尊を信じ切って祈る方が効き目が大きいに決まっています。
祈りの対象であるご本尊が「ただの紙切れ」ではないかとチラッとでも疑いを持ちながら祈れば、思ったような効き目はないのが当然です。

捨離子さんがいう「何の効力もない題目」というのは、心から信じていなかった人のいうセリフですね。



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獅子風蓮