インタビューには、力があると感じます。


私が医師になって間もないころに読んだ本を紹介したいと思います。

スタジオ・アヌー編『家族?-100人の普通の人々による普通の人のための人生相談』(晶文社、1986.09)という、537頁もある厚い本です。

この本の中に、子どもを髄膜炎菌感染症で亡くした母親のインタビューがあるのです。
題名は「子供の死 もっと抱いてやればよかった……」ですが、私はかってに「みいみのかあかあ」と名付けています。

何回かにわけて紹介したいと思います。

(明らかな誤字は訂正しました)


子供の死
もっと抱いてやればよかった……

(みいみのかあかあ)


古宿敦子(41歳)

(つづきです)

救急車の中で亡くなったでしょう。医者の立ち会いがないから“変死”になるのよ。検死医と刑事がふたり来て、監察医務院に移されて、解剖されたのよ、あの子。
女子医大で、美穂の遺体を見た先生のひとりが言ったわ。「これは“ウォーターハウス・フリードリュクセント症候群”という病名だと、僕は思う」って。「これは、日本にはまずない病気なんですよ、お母さん。これは、こういう小さい子がかかったら、まず、手のほどこしようがない……」しようがない病気なんだって――解剖もなにもする前にね、ぱっと見てそう言ったの。その先生は――あの先生は、たいしたものね。私が「もっと早く気がついて、ちゃんと手当てをしていたら、この子、死なないですんだかもしれないのに」って言ったら、その先生は「いや、これは、誰が見ても、最初は扁桃腺の熱とまちがえるんです。どんな医者が見たって」と言ったわ。
それでも私、納得できなかった。“医者同士、かばい合ってる”と思ったわ。“医者の見立て違いだ。もっと早く、適切な処置をしていれば、美穂は助かったに違いない”っ て、ずうっと思ってた。ほんとうに、最初に美穂を見た病院を訴えてやるつもりだったわ。あの子を解剖した検死医にも、そう言った。そうしたら、「まず、だめだなあ。 これは誰が見ても、おそらく僕が見ても、最初は“扁桃腺の熱”としかわからなかっただろう」って。
そういう病気だったみたいね、ほんとうに珍しい。もう、交通事故みたいなものよ。どうしようもなかったって言えば、そうなのかもしれない。あれが、あの子の運命だった って言えば……そうなのかもしれない。
“流行性髄膜炎”っていうのは、伝染病だったの。だから、遺体を家にも連れて帰れなかった。監察医務院からすぐ火葬場よ。急いで、美穂が寝る時も離さず持ち歩いてた洗い熊のぬいぐるみと、お姉ちゃんが一歳の時に着た赤い鶴の模様の着物を、監察医務院に送ったわ。そのまま、もう、お別れもせずに火葬場。お父さんも、私も、ジーパンのまんまだったわ。
家族とのお別れは、結局、伝染病だとわかる前の、女子医大の霊安室でしただけだった。お姑さんが夜中に、上の子たちを連れてきてくれたの。美穂は、紫色ではあったけど、おじぞう様みたいな顔をしていたわ。苦しんで死んだわりには、ほんとうに安らかないい顔をしていた――ちょうど、ほら、石のおじぞう様があるじゃない、みちばたにたってる――あんな顔だったのよ。

ほんとうに、死なれてみるとねえ……あの子、なんのために生まれて来たんだろう……と思ったわよ。
悔やまれた。ほんとうに、悔やまれたわ。流産しそうな時にね「もたなくっても、いいのに」とかね……なんて、ひどいことを言ったんだろう……。
もっと、もっと注意深くあの子を見ていてやれば、こんなことにならなかったかもしれないのに……もっと抱いてやればよかった……。
「みいみのかあかあ」って、いつだって甘えたいのを、がまんがまんをさせて……着るものだって、お姉ちゃんのお古や、人にもらったお古ばっかり……おもちゃだって、ロクすっぽ買ってやらなかった……あの子、ほんとうに、なんのために生まれてきたんだろう……それ考えると、たまらなかった……かわいそうなことしたわ、一番、かわいそうな……。
みんな、泣いたわ。保育園の先生も、私の母も、近所の人達も。お姑さんは、泣いて私に言ったの「せめて、私が、もっと抱いてやればよかった。私が、美穂と命をかわって やれればよかったのに」って。
死なれてみて、心の中にポカーっとね、穴があいたようになったわ。“他の子供たちのためにも、泣いてばかりいちゃいけない”という気持ちはあるの。それでも、私、しばらく変だったわね。一種のウツ病っていうか、夜も眠れないし、たぶん、おかしくなりかけてたのよ。
結局、子供たちがいたし、仕事があったから、もちこたえられたんだと思うわ。相変わらず、てんてこまいの忙しい毎日ではあったしね。だけどね、忘れられないのよ、美穂の感触だけは――ほら、2歳ぐらいの子供特有の、フワフワしたマシュマロみたいなほっぺたとか、あったかいポチャポチャしたちっちゃい手の感触とか――ああいうのだけは、どうしても忘れられないの。お兄ちゃんを保育園に迎えに行くたびにね、美穂ぐらいの子供を見ると、たまらなくなったわ。
美穂が亡くなって、1年ぐらいたったころかしら、近所のパーマ屋さんに行ったのね。そうしたら、そこの美容師の人が「奥さん、パーマはかけないほうがいいな。円型脱毛症になってるよ。それも、2ヵ所あるよ」って言うの。私、びっくりしちゃたわよ! 「どうしたの?」って聞かれるままに、実は、子供が亡くなって、こうでこうでって話をしたのね。
「ああ、そういうことあるんだよ。そういう精神的なことは、医者行っても治らないからねえ。時期を待つしかないんだよねえ」って、その美容師の人は言ったわ。30すぎぐらいの男の人だったかな、それで、「子供でもできれば、治るのにね」って、その人言ったの。
あのころからね、私、どうしてももうひとり、子供が欲しくなったの。36の時だったわ。「もうひとり、子供が欲しいの」って言ったら、そりゃあ、みんなに反対されたわよ。
11歳になってた上のお姉ちゃんのクラスのお母さんたちになんか、「えーっ! 今から、産むの!」って、信じられないような顔されたわよ。私が「やっぱり、ひとり亡しちゃうとね、心の中にポッカリ穴があいてるみたいで、淋しくて、淋しくて……」って言うと、「あなた、死んだ子のこと考えて淋しがってばかりいては、今生きている子供たちに、申しわけないと思わない?」って言った人もいたわ。でも私、「別に申しわけないとは、思わないわ」って、言ったの。生きてる子は生きてる子よ、私は、自分自身のためにも生きている子供たちのためにも、どうしても、もうひとり子供を産もうって決心したの。
末っ子の和(かず)は、そうやって生まれた子なの。結局“産んだが勝ち”だったわねえ。私も、うちの家族も、みんなが待ってた赤ん坊だったのよ、和は。もうみんなで、和、和、和、和……ハハハ、それでああいう腕白大将の甘ちゃんになっちゃった。
でも、和はほんとうに“幸せをしょってきた子”だったわねえ。私にも、家族にも。和は、ある意味で、家中のペットみたいよ……幸せな子ねえ……。
私、子供を4人育てたわけだけど、私はほかの3人の子達と接しかたが違ったわね。もう、美穂が亡くなって淋しくて、欲しくて欲しくて産んだ子でしょう。生まれた時から“わあ、私の宝もの!”っていうかんじだったわ。「お母さんの宝ものの和くん!」「大事な大事な和くん!」、そういう呼びかけを、和にはいつもしてきたの。
それに“チュウ(チュウっとキスする)”とか、“ギュウ(ギュウっと抱きしめる)”とか……ああいうことは、他の3人の子供たちには、しなかったのよねえ。ほかの子供たちだって、そりゃあ、もちろん大事よ。それは、おんなじよ。ただね、“あんたのこと、大事なのよ”“ほんとに、かわいいのよ”って、それを直接本人に、口や体で伝えるということをね、上の子たちにはしなかったのよね。
だからかしらねえ、和って、他の子たちにない“甘さ”があるでしょう。ほんわりした、甘さが。
これはねえ、和を通して、結局、美穂が私に教えてくれたことだって、思ってるわ。 美穂があのまま育っていたら、やっぱり私は“親だから”とか、“きちんと育てなくちゃ”っていう姿勢のまんま、わき目もふらずにがんばっていたと思うの。
美穂が亡くなって、家の中の空気が変わったせいもあるわ。私が、年をとってきたせいもあるでしょうね。でも、今の、私の和に対する思いね……もう“親だから”とか以前に、素直に“わあ、大事な子”っていう気持ち……なんて言ったらいいのかしら、もう“親とか子とかの枠をとった気持ち”って言ったらいいのかしら……。私自身は、前よりもずっと素直になれたような気がしてるわ。
それでね、そういう気持ちで、上のふたりの子供たちのことも見れるかというと……ハハハ、これが、そうじゃあないのね。上のふたりに対しては、相変わらず、前と同じ調子なのよ。あの子たちっていうのは、私にとっては、“仲間”というかんじが強いのね。和だけ、別なのよねえ。
だからね、時々、上のほうから「お母さん、和にだけ!」って、文句が出てくることもあるのよ! 17歳と14歳よ。うるさがるくせに、「和にだけ!」とか言って……おもしろいね、あのくらいの子供って、実に矛盾してるのよ。でも、とにかくね、うるさすぎるそうですよ、私は。
それは、わかるの。でも、ひとり亡くしているでしょう。私の心の中には“もう、これ以上、ひとりだって亡くすもんですか”っていうのがあるの。“たとえ一日でも二日でも、死ぬのは親の私が先よ。さかさは絶対にごめんだからね”っていう気持ちがね。
今の世の中って、子供の命に危険なのは、病気だけじゃないじゃない。交通事故とか、大きくなればいじめだとか自殺だとか、考え出したらきりがないわ……。
だから、中学生にも高校生にもなっているのに、言ってた時間に帰ってこないと、ウロウロウロウロ出たり入ったり、あげくの果てに駅まで見に行ったり……まっ、それが“うるさすぎる”ということらしいんですけどね。それは、お父さんにしても、同じなの。私が、心配でウロウロしはじめると、「俺、ちょっと見てこよう」って、自転車に乗 って探しに行ったりね。あの子たちは「中学生や高校生だよ、小さい子供じゃないんだからね! よその親は、そんなことしないよ!」って、あきれてるわよ。じゃあ、心配させなきゃいいのにねえ! もう、しっかりしているようで、そうでもないんだから! まったく、はがゆくなってきちゃうわよ。……ねえ、親って勝手ねえ。
生きてる子供にはね、アラばっかり見てしまうの。アラが見えるってことは、親の欲なのよね。“ああなって欲しい”“こうなって欲しい”って、どうしたって親の欲は、生きている子供のほうへ行くのね。死んでしまった子は、どんなに思おうと、死んでしまったそのまんま……いいところばっかり、残っていくのよ……。
そういう意味では、美穂だって、死んでしまったけれど……大事な私の子供よ。和は和だし美穂は美穂よ。人格の違う、別の子供たちなのよ。私が、たとえ、あと何人子供を産んだって、どんな子にも、美穂のかわりはできないわ。だから、今でも私にとって美穂は、かけがえのない大事な子供。私が死ぬまで、それだけは変わらないわ。

 


解説
美穂の遺体を見た先生のひとりが言ったわ。「これは“ウォーターハウス・フリードリュクセント症候群”という病名だと、僕は思う」って。

ウォーターハウス・フリードリヒセン症候群、日本で診ることはまれですが、恐ろしい病気ですね。

 

調べてみました。

ウォーターハウス・フリードリヒセン症候群
ウォーターハウス・フリードリヒセン症候群(Waterhouse-Friderichsen syndrome)は、WaterhouseとFriderichsenによって定義された副腎皮質不全の一病型重症のことである。多くが髄膜炎菌により引き起こされる。細菌感染は、片側もしくは両側の副腎の大規模な出血を起こす。髄膜炎菌の菌血症により臓器不全、昏睡、低血圧やショック、播種性血管内凝固症候群(DIC)が進展して紫斑、急速に進展して副腎皮質不全や死にいたる。
さまざまな細菌がウォーターハウス・フリードリヒセン症候群の原因となるが急性のものは主に髄膜炎菌である。
アメリカ疾病予防管理センターは11歳から18歳までのすべての人、脾臓機能が低下している人(脾摘している人など)や免疫機能の低下している一定の人に対し髄膜炎菌に対する予防接種を推奨している。
髄膜炎菌は容易に血液や脳脊髄液から培養することができ、時に皮膚病変の塗抹標本で見ることができる。
できるだけ早く適切な抗生物質で治療する必要がある。ベンジルペニシリンはかつて第一選択薬であったクロラムフェニコールの有力な代替薬である。低副腎性のショックを回復させるためにコルチゾールが用いられることがある。

(Wikipediaより)

私はこれまで、この病気を診たことがありません。
しかし、記憶の隅にとどめておきたいと思います。


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獅子風蓮