私は別のところ(獅子風蓮のつぶやきブログ)で、ながらく「藤圭子へのインタビュー」を連載していました。

これは、沢木耕太郎さんの『流星ひとつ』(新潮社、2013年)を何回かに分けて引用したものです。
ある意味、著作権侵害ですから、沢木耕太郎さんや新潮社から抗議がきたら謝罪して記事を消そうと考えていますが、この連載を通して、沢木耕太郎さんのインタビュアーとしてのすごさを皆さんに知っていただきたかったのです。
すぐれたインタビューには、力があると感じました。


私が医師になって間もないころに読んだ本を紹介したいと思います。

一つ目は、スタジオ・アヌー編『子供! 10歳から15歳を中心に174人の子供たちが語る』(晶文社、1985.07)という、851頁もある厚い本です。
全部、子どもたち自身が語る形でインタビューがまとめられている本です。
小児科医として、いろいろな子どもたちの本音が聞けて、興味深い本でした。

もう一つは、同じくスタジオ・アヌー編『家族? 100人の普通の人々による普通の人のための人生相談』(晶文社、1986.09)という、537頁もある厚い本です。

この本の中に、子どもを髄膜炎菌感染症で亡くした母親のインタビューがあるのです。
題名は「子供の死 もっと抱いてやればよかった……」ですが、私はかってに「みいみのかあかあ」と名付けています。

何回かにわけて紹介したいと思います。
 


子供の死
もっと抱いてやればよかった……
(みいみのかあかあ)


古宿敦子(41歳)

明美(17歳)、智史(14歳)、和亮(6歳)の3人の子供の母親。智史と和亮のあいだに美穂という女の子がいたが9年前、2歳で亡くしている。
「明(あけ)は、もう大人ね。しっかりしているし、私なんかよりもクールだわ。あの子のことは、あんまり心配ないの。智(とも)はねえ、私、あの子のこと考えると、一日中隣で見ていてやりたいような気になる時があるの。うるさがられてるけどねえ。和(かず)は、あのとおり。腕白で“大将”で、ひどく甘ったれ。和にはね、“人をなぐったら、なぐられた人も痛いし、なぐった自分の手も痛いんだ”ということをね、よくわかる人になってほしいと思っているんだけど……」
そして、死んだ美穂のことを、語ってもらった。


美穂のことをね、残しておきたい……なにかの形で残しておいてあげたい。美穂という、そういう子供がいたってことを。それは前から思っていたわ。
今はね、もう亡くなってしまったけど、私の母は短歌を詠む人だったのよ。母の歌の中には、美穂を歌った歌がたくさんあるの。こんなのがあるのよ、“ねむの花”ってい うんだけど、

  ねむの花 今朝は咲きそむ もうなにも
  言わなくなりし子の夢の花


母は、自分の家の小さな庭に、いろんな花や木を育てていたの。朝早く、“美穂が亡くなった”という知らせを電話で聞いた日に……その日初めて、かわいがっていた小さいねむの木に、ひとつだけピンク色の優しい花が咲いてたんですって。
おばあちゃんの歌の中には、たくさん美穂が残っているのよ。
私も、なにか残してあげたいと思うの。でも、思うだけで……。もう、毎日の生活に追われて、忙しくて忙しくて。いざ“美穂のこと、なにか書いておこう”なんて思っても、書くとなると、飾るというのかしら、てらうというのかしら、なかなか自分の気持ちをうまく素直に書けないのよ……こんなこと、誰にも話さなかったけど、そういう気持 ちはあったのよ。
だって、あの子、たった2歳で亡くなってしまったのよ。2年と2ヵ月と2日。いちばん可愛い盛りにね……パァーっと、駆け抜けていっちゃったみたいな子……。
今、生きていれば11歳よ。裏の直人君と同じだから、今度、5年生になるのね。どんな5年生になっていたかしらねえ……。
今でも毎年、美穂の誕生日になると、小さなショートケーキ買ってきてね、お仏壇にあげるの。そのくせ、命日っていうのはいっつも忘れちゃう……しょうがない親ね。まあ、生活が忙しいせいもあるんだけれど。生まれた日のことは、ものすごくよく覚えているのにね、親って、子供には、生きることしか考えないんじゃない。だから生まれた日は覚えていても、死んだ日のことは人間って、辛かった日のことは忘れてっちゃうのよ。そうじゃないと、やっていけない。今でも、美穂のアルバムは隠して、しまっちゃったまんま。

上のふたりの子は、望んで、それこそ計画立ててつくっ子供たちよ。だけど、美穂は“できちゃった”子供だったのよ。「困ったなー」と思ったわ。でも、私もお父さんも「まあ、3人でもいいか、大変は大変だけど」という気持ちの方が強かった。私は「ああ、経済的にも大変だし、これで、専業主婦は無理だわ。これからも、ずっと働かなくちゃなんないなあ」って思ったけど、結局、「できた以上は、じゃあ産もう」ということになったの。
美穂の場合は、妊娠からしてそんなふうだった。だから、それまでにないくらいつわりがひどくって、水を飲んでも吐いてしまうような時期とか、流産しかかって1ヵ月入院 したんだけど、そんな時なんかに「ああ、無理にもたないでもいいのに」って気持ちが半分あったの……正直言って。でも、私も不安だったのよ。いろんな意味で。ちょうど 美穂が生まれるころっていうのは、私にとっても家族にとっても、一番大変な時期だったの。私とお姑さんの関係も、今程うまくいってなかった。お父さんは、子煩悩な人ではあるけれど、とにかく忙しすぎたし。私は、“仕事をやってふたりの子供を育てて、家事をやって! とにかく、がんばらなくっちゃ!”って、もう無我夢中でやっていた 時期なの。私自身、まだ若かったし、精神的なゆとりなんて、ぜんぜん持てなかった。 上のふたりの子供たちには、きつい母親だったわねえ。そりゃあきつい叱りかたもしたわ。お姑さんの手前もあったしね、“障子ひとつ破かせない”っていうかんじだったわ。
そして、美穂が生まれた時っていうのが、ちょうど、家を買って引っ越す時と重なってしまったの。出産と引っ越と、なぜかそういう大きいことが重なってしまった。生まれた子が悪いわけでもなんでもないのに、そうなると“もう、この忙しい時に!”っていうかんじではあったの。そして、私は、家のすぐ近くに職場を見つけて、また働き始めた。事務の仕事よ。
でも、家のローンもあるし、子供たちはだんだん大きくなって、保育料だ学校だと、教育費もかかるようになる。ところが、赤ん坊の美穂をかかえているじゃない。美穂だって、保育園にあずけているとはいえ、やれ熱出したっちゃあ休むし、自家中毒おこしたっていえば入院さわぎ。その度に私、しょっちゅう会社は休むし、早退はするし、結局、正社員にはなれなかった。パートと同じあつかい。だから、休めば給料も引かれるし、あのころが生活も一番大変だったわ。
で、昼間はその会社で事務員やって、夜は夜で、その会社から別の仕事持ち帰ってきて、家で内職してたの。カメラの部品を作っている会社で、顕微鏡を見ながらやる手作業なんだけど。
だから、あの子のめんどう、ほんとうに見てやれなかった……ほんとうに、かわいそうなことしたの。それでも、まだしゃべれないような赤ん坊のうちはよかったのよ。それが、1歳になり、1歳半になるとやっぱり、甘えたいわけよ。ね、1歳や2歳って、甘えたい盛りじゃないの。
まだ“お母さん”って言えなくってね「かあかあ」って言ってたの。自分のことも“美穂”って言えないの。「みいみのかあかあ」「みいみのかあかあ」って言うのね。で“ここにいて”って言うの……。
「だけど、お母さん、お仕事に行かなくちゃあ」「だけど、お母さん、これから内職しなくちゃならないから、ひとりでネンネしてね」……いっつも、そう。あの子には、ガマンにガマンをさせてしまった。夜だって、早くからひとりで寝かせる習慣をつけてた。そりゃ、お姉ちゃんやお兄ちゃんたちとは一緒よ、でも、まだ1歳ぐらいの子供にしてみれば……いくら、きょうだいたちがいたって、やっぱり母親が欲しかったのよ。 一番、お母さんが欲しい年ごろだったのよねえ……。
そんなふうだったから、私のひざがちょっとでも空いた時は、私を独占していたわ。 とても利発な、気性の激しい子だったの。他のきょうだい達とはぜんぜん違ってたわ。 勝気で、自己主張のはっきりした、保育園の中でも活発で目立つような子だったの。
美穂が亡くなる日の朝もね、お兄ちゃんのほうが、たまたま、ふっと私のひざの上に来たの。そうしたら、美穂が目覚まし時計持ってきて「みいみのかあかあ!」って、お兄ちゃんの頭をガーン!……そういう子だったわ。お兄ちゃん、今でも言うわよ。「あれが、朝、僕を叩いたのが、美穂の置きみやげだったんだなあ」って。

(つづく)

 


解説
「みいみのかあかあ」「みいみのかあかあ」って母親を求めて甘えてくる2歳のこどもが髄膜炎菌感染症で亡くなる話が続きます。

辛い話が苦手な方は、読まない方がいいかも。

 

私は、この話を読んでから、小児科医として子どもの重篤な感染症とくに髄膜炎だけは見逃さないようにと、診断に細心の注意を払うようになりました。


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獅子風蓮