反ワクチン・陰謀論の毒舌ブロガーである海さんは、地球平面説を経て、今では「ウイルスは無い」という記事を連日のように書いています。
でも、医学史を紐解けば、ウイルスの発見の事実を学ぶことはできます。
そういう基本的な学習は、本来、海さんたちがまず行うべきだと思うのですが、それはなさらない。
余計なお節介かもしれませんが、私がお手伝いしたいと思います。

岡田吉美『ウイルスってなんだろう』(岩波ジュニア新書、2005.04)

 

 

少々古いですが、よくまとまっていて、分かりやすい本です。

(目次)
第1章 どのようにして発見されたか
第2章 ウイルスとは何者か
第3章 どのようにして感染、増殖するのか
第4章 ウイルス病とのたたかい
第5章 ウイルスから学んだこと
第6章 悪玉ウイルスを善玉ウイルスに変える



引用します。

第1章 どのようにして発見されたか
□野口英世の挫折
□ウイルスの発見
□タバコモザイクウイルスが結晶化された
■動物ウイルス、細菌ウイルスの発見

 

 


動物ウイルス、細菌ウイルスの発見

 

動物ウイルスで一番最初に発見されたのは、ウシ口蹄疫の病原体ウイルスです。この病気は非常に伝染力が強く、致死率も高いので、一度流行すると畜産業が壊滅するとまでいわれているおそろしい病気です。日本では1908年以来92年ぶりに、2000年、宮崎と北海道で発症例がでましたが、幸いそれだけでくい止めることができました。
この病気の病原体がふつうの細菌ではないということを見つけたのは、ドイツの感染症研究所にいたレフレルとフロッシュです。レフレルは、炭疽菌、結核菌、コレラ菌などを発見し、1905年にノーベル賞をもらった有名なドイツの細菌学者コッホのお弟子さんです。彼自身もジフテリア菌を発見しています。
レフレルとフロッシュは、口蹄疫のワクチンをつくる目的で実験していたのですが、 そのときウシの病巣の抽出液をシャンベラン濾過器で濾過したところ、濾液の方に病原体が含まれていることを発見しました。これは数々の業績をあげてきた細菌学者にとって、意外な発見でした。濾液を光学顕微鏡で調べましたが、何も見つけることはできませんでした。いろいろ工夫して培養を試みましたが、成功しませんでした。そこで彼らは、いままでの細菌よりももうひとまわり小さい細菌が存在するに違いないと考えました。いままでに知られている細菌のうちで、一番小さいものよりさらに5分の1か10分の1しかない細菌が存在すれば、光学顕微鏡でも見えないし、シャンベラン濾過器も通り抜けるに違いないからです。当時の医学の研究者たちは、濾過性病原体 (filterable virus) という用語を使いました。このとき virus はいまのウイルスという意味ではなく、毒という意味で使われていたのです。1897年に発表した論文で、彼らは天然痘、牛痘、猩紅熱、はしか、発疹チフスなどの病原体も、濾過性病原体だろうと述べています。これは卓見でした。これから数年の間に、続々と濾過性病原体が発見されていきました。ただレフレルがあげた病気の中で、猩紅熱の病原体は溶血連鎖球菌という細菌で、発疹チフスの病原体はリケッチアという別の微生物でした。野口英世が探すことになった黄熱病の病原体も、1902年黄熱病委員会によって濾過性病原体であることが報告され、これがヒトに感染するウイルスの最初の発見といわれています。


レフレルとフロッシュの論文が発表されたのは1897年です。ベイエリンクのTMVの発見の論文は1898年です。ではウイルスの発見者は、レフレルとフロッシュではないのかと考える人もいるでしょう。しかし一般には、TMVの発見がウイルスの発見であるというのが定説のようです。
ベイエリンクによるTMVの発見も、レフレルらによる口蹄疫ウイルスの発見も、ほぼ同じ時期に行われ、ほぼ同じ結果がえられています。ただ実験結果の解釈が違っていて、ベイエリンクはまったく新しい病原体であるとして、細菌説を完全に否定したのです。それに対してレフレルらは、ひとまわり小さい細菌を仮定したのです。ですからウイルスの発見者はベイエリンクであるというのは妥当でしょう。もしこの解釈に賛成でなく、シャンベラン過器での濾過性を見つけたのが重要だとするなら、ウイルスの発見者はイワノフスキーにまで遡ることになります。ですからいずれの立場をとっても、初めて発見されたウイルスはTMVであるというのが一般的な考えです。
イワノフスキー、ベイエリンク、レフレルと、それぞれにウイルスの発見に貢献した人たちですが、ノーベル賞はだれにも授与されませんでした。


いままでお話した動物ウイルスや植物ウイルスの発見は、動物や植物の病原体を探す研究の中から生まれました。しかし細菌ウイルスはまったく別の実験の偶然から見つけられたのです。
ベイエリンクが提唱したウイルスの概念、すなわちシャンベラン濾過器を通り抜け、光学顕微鏡では見えなく、そして人工培養ができないという概念は、当時の研究者たちにすぐ受入れられたわけではありません。イワノフスキーがずっとTMVの培養実験を続けていたように、多くの研究者たちは、ウイルスは非常に小さくて培養の難しい細菌で、もし適当な栄養素さえ見つかれば人工培養できるだろうと考えていたのです。細菌ウイルスの発見者となったトウォートもその一人でした。
トウォートの考えたことは奇抜でした。彼は、培養の難しい病原性ウイルスは、培養ができる非病原性ウイルスが変化した子孫だと考えたのです。そして彼が所属していたロンドンのブラウン研究所に保存してあった天然痘のワクチン、すなわちワクチニアウイルスの中から、残っているかもしれない病原性のない先祖のウイルスを探す実験を始めたのです。彼は天然痘のワクチンを寒天の栄養培地にまいて、非病原性のワクチニアウイルスのコロニーがあらわれるのを待ちました。コロニーというのは、寒天のような固形の培地の上にできる細菌のかたまりのことです。もちろんコロニーはあらわれませんでした。ところが実験の途中で、まったく別の不思議な現象が見つかったのです。
天然痘ワクチンをまいた寒天の上に、ときどきワクチンに雑菌として混ざっていた球菌のコロニーがあらわれました。それをそのまま置いておくと、コロニーが溶けて透明になってしまったのです。この透明になったものを健全な球菌のコロニーにつけると、それも溶けてしまいました。そしてこの透明になったものをシャンベラン濾過器で濾過すると、コロニーを溶かすものは、濾液の方に通り抜けていました。これが細菌ウイルスの発見でした。彼はこの現象を「ガラス様形質転換」と名づけました。1915年、トウォートはこの現象を論文として発表しましたが、すぐ第一次世界大戦に従軍したため研究は中断し、またこの論文もほとんど注目されることはありませんでした。ヒトや動物の病気と違い、細菌の病気というとだれもそれほど興味を示さなかったのでしょう。


もう一人、細菌ウイルスの発見に貢献した人がいます。フランスのパスツール研究所のデレルです。彼はそのころ軍隊で流行っていた赤痢の研究を命じられました。彼は患者の排泄物をシャンベラン濾過器で濾過し、その濾液を赤痢菌と混ぜて寒天培地にまいたところ、赤痢菌の表層に透明なスポットがしばしばあらわれました。デレルはこの不思議な現象の解明を本格的に行い、赤痢菌を溶かす物質がウイルスであることを確かめました。そしてこのウイルスが細菌(バクテリア)を溶かす性質をもっていることから、バクテリオファージと名づけて、1917年に論文を発表しました。「ファージ」とは「食べるもの」という意味で、細菌を食べてしまうように見えたのでつけられた名前です。

 


デレルの論文には、トウォートの1915年の論文は引用されていません。デレルはトウォートの論文を読んでいなかったのです。まったく独立して同じ現象を見つけたこの二人を並べて、私たちはバクテリオファージの発見者としています。なお現在は、バクテリオファージを単にファージとよんでいます。
ファージを宿主の細菌と一緒に寒天の培地にまくと、図のようなスポットをつくります。このスポットは、宿主の細菌を溶かしたあとで、「プラーク」といいます。ウイルス一個がプラーク一個をつくります。TMVでできたニコチアナ・グルチノザの局所壊死病斑は一個のウイルスでできたものではありません。したがってTMVの場合にはウイルスの相対的な濃度しか知ることができませんが、ファージの場合は数そのものを直接数えることができるのです。そのためいろいろな実験に都合がよく、のちに大腸菌に感染するファージが、分子生物学の誕生とその発展を支えた最も重要な研究材料となったのです。
第2章で説明するように、やがていろいろなウイルスの形や大きさが明らかになりました。代表的なウイルスと、比較のために大腸菌の大きさと形を、図に模式的に示しました。

 

 

またウイルスの発見の歴史には、この章でお話したようなさまざまなドラマがありました。その過程がわかりやすいように、ウイルスが発見され、同定されるまでの歴史を表にまとめます。




 


 


解説

バクテリオファージT2の形は、月面に着陸する宇宙船のようで、面白いですね。


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獅子風蓮