反ワクチン・陰謀論の毒舌ブロガーである海さんは、地球平面説を経て、今では「ウイルスは無い」という記事を連日のように書いています。
でも、医学史を紐解けば、ウイルスの発見の事実を学ぶことはできます。
そういう基本的な学習は、本来、海さんたちがまず行うべきだと思うのですが、それはなさらない。
余計なお節介かもしれませんが、私がお手伝いしたいと思います。

次はこの本です。

岡田吉美『ウイルスってなんだろう』(岩波ジュニア新書、2005.04)

 

 

少々古いですが、よくまとまっていて、分かりやすい本です。

(目次)
第1章 どのようにして発見されたか
第2章 ウイルスとは何者か
第3章 どのようにして感染、増殖するのか
第4章 ウイルス病とのたたかい
第5章 ウイルスから学んだこと
第6章 悪玉ウイルスを善玉ウイルスに変える



引用します。

第1章 どのようにして発見されたか
■野口英世の挫折
□ウイルスの発見
□タバコモザイクウイルスが結晶化された
□動物ウイルス、細菌ウイルスの発見


野口英世の挫折

2004年からの新千円札の顔となった野口英世――日本が生んだこの世界的に有名な細菌学者の名前は、みなさんもきっとよく知っているでしょう。私たちの年代は、小学校の修身の授業で「志を立てよ」というお話として彼のことを勉強しました。
野口英世は1876(明治9)年、福島県の貧しい農家に生まれました。幼名は清作といいました。そして清作は、生まれてまだ1年半にもなっていなかったある日、母親が畑に行ったわずかの間に、熱い汁ものの鍋をかけてあった囲炉裏に落ちて、左手に大やけどを負いました。彼の手は指が癒着して、枝を刈りとられた桑の木林のようになったと伝えられています。農家の仕事を継ぐことができなくなった清作少年は、それから「志を立てて」学問の道に励むようになりました。
左手の障害という苦しみを負い、周囲の「清ボッコ」という嘲りを涙で耐えながら、清作少年は逞しく育っていきました。「ボッコ」というのは会津地方の言葉で、降り積もった雪の道を下駄で歩くと、歯と歯の間に雪が固まって歩けなくなる、そのかたまりのことをいうのだそうで、そのかたまりを清作の木瘤のような左手になぞらえてよんだのです。どこでも勉強がずばぬけてできた清作少年は、郷里の恩師や友人などの援助を受けてやがて上京し、医学を志すことになります。
1898年に英世と改名した野口は、その2年後、特別の知人や友人もないアメリカに単身渡ります。無謀とも思われていた渡米でしたが、奇跡的な幸運に恵まれた野口は、蛇毒の研究で大きな業績をあげ、1904年には新しく開所したニューヨークのロックフェラー医学研究所の助手になることができたのです。野口の細菌学者としての道がこれから始まるのです。日本とアメリカで二回の手術を受けた野口の左手は、そのころ、物をつかむことができるまで回復していました。
1911年、野口はドイツの細菌学者が発見した梅毒病原菌スピロヘータの培養に成功しました。スピロヘータというのは、糸状の形をした特殊な細菌の一種です。一方、当時のアメリカでは「進行性まひ」という病気の患者が多く、たとえばニューヨーク州立精神病院に入院していた患者の20パーセントが進行性まひで、患者は5年から7年で死亡するという状態にありました。野口は1913年、昼夜を問わない精力的な光学顕微鏡での検査で、この進行性まひ患者の脳の組織に梅毒スピロヘータを発見し、この病気が実は脳の梅毒であることを証明したのです。
この研究で野口は、ノーベル賞確実といわれるほどの名声を博しました。そしてその勢いをかって、野口はポリオ(小児まひ)と狂犬病の病原体の研究に向かいました。1913年秋のヨーロッパ講演旅行で、野口は早くも狂犬病の病原体の発見と培養に成功したと報告しています。しかし野口は、ポリオや狂犬病の病原体が、光学顕微鏡では絶対に見つけることができないウイルスであることに、まだ気づいていませんでした。
1914年、野口英世はロックフェラー医学研究所の正員(メンバー)に選ばれました。当時のロックフェラー医学研究所には、終身雇用の権利をもったメンバーはわずか7名しかいませんでした。そのひとりに選ばれたということは、彼のそれまでの細菌学の研究成果が高く評価されていた何よりの証拠です。そのとき野口はまだ37歳の働きざかりでした。そしてその翌年には、日本学士院恩賜賞を授与されるという栄誉にも浴しました。おそらくこの時期が野口英世の絶頂期だったといえるでしょう。この年、彼は日本に一時帰国し、母親をはじめ多くの恩師や友人とも再会して、その喜びをわかちあっています。しかし皮肉なことに、挫折に向かう野口の沈滞期がこれから始まるのです。
1916年から野口のポリオの病原体探しが始まります。しかし病原体は、なかなか彼の顕微鏡の下に姿をあらわしません。野口の研究の手法は、患者の組織を光学顕微鏡で根気よく徹底的に調べて、病原体を見つけるという方法でした。梅毒スピロヘータの研究で大きな成果をあげた野口は、それ以後の研究でもずっとこのお得意の方法に固執しています。
1897年にレフレルとフロッシュが、ウシ口蹄疫の病原体が細菌を通さないシャンベラン濾過器(ろかき)を通り抜けることをすでに見つけていました。そして、黄熱病(おうねつびょう)の病原体もシャンベラン濾過器を通り抜けることが、1902年のアメリカ黄熱病委員会報告に記載されていました。それはつまり、病原体が光学顕微鏡では見つけられないほど小さいことを意味しています。それなのに、なぜ野口はその事実に注意を払わなかったのでしょう。細菌よりも小さい病原体が存在すれば、それは光学顕微鏡では見つけられないだろう、それがポリオにもあてはまると、なぜ気づかなかったのでしょう。野口は次の黄熱病の研究で、とうとう取り返しのつかない悲劇を迎えることになったのです。
1918年、野口はアメリカの黄熱病撲滅計画の一員としてエクアドルに向かいました。黄熱病は18世紀から19世紀にかけて、カリブ海諸島およびその沿岸を中心に、南北アメリカからヨーロッパ、アフリカ西部まで広がっていたおそろしい伝染病で、多数の犠牲者を出しました。1900年前後に、この黄熱病を媒介するのが熱帯シマ蚊であることがわかり、その蚊の撲滅運動によって、ようやく1914年のパナマ運河の開通が成功したのです。しかし黄熱病の病原体はまだ見つかっていませんでした。
エクアドルに着いた野口は、いつもの精力的な光学顕微鏡観察で、わずか1ヵ月で黄熱病患者の血液からスピロヘータを発見し、レプトスピラ・イクテロイデスと命名しました。このスピロヘータが黄熱病の病原体であると信じた野口は、それに対する免疫血清をつくり、現地の兵士たちに接種したあと、栄光に包まれてアメリカにもどりました。そして「野口ワクチン」は十分な治療効果を確かめられないまま、1925年までつくり続けられました。ポリオのときのように、なかなか病原体が見つからなければ、その後の悲劇はおこらなかったかもしれません。しかし1922年には、野口ワクチンを接種した彼の研究生が、黄熱病に倒れました。野口の見つけたスピロヘータは、黄熱病の病原体ではないのではないかという声が、方々で高まり始めました。そしてついに1926年、ハーバートの熱帯医学研究所のタイラーによって、「野口の見つけた黄熱病の病原体レプトスピラ・イクテロイデスは、ワイル氏病の病原体として見つけられていたレプトスピラ・イクテロへモラギエと同じである」ということが証明されたのです。
ワイル氏病というのは、第一次世界大戦のとき、オランダの兵士の間で大流行した病気で、その病原体のスピロヘータは、1915年に日本の稲田龍吉によって見つけられていました。
野口の見つけたスピロヘータは黄熱病の病原体ではなく、したがってそれでつくった野口ワクチンは、黄熱病の予防には無効だったのです。
それでも野口は、自分の研究結果を信じていたのでしょう。1927年、黄熱病撲滅のためアフリカ黄金海岸(現ガーナ共和国)へ出発しました。そしてその翌年、不幸にも自らが野ロワクチンの無効を示す症例となって黄熱病に倒れ、波瀾の一生を終えたのです。野口は最後まで、ウイルスを知らずに亡くなりました。
野口の発見したスピロヘータが黄熱病の病原体でないことを証明したタイラーは、のちに黄熱病ワクチンの発明によってノーベル賞を受賞しました。野口英世が黄熱病に倒れてから23年後の1951年のことでした。タイラーの手には、電子顕微鏡がありました。



 


解説
1897年にレフレルとフロッシュが、ウシ口蹄疫の病原体が細菌を通さないシャンベラン濾過器(ろかき)を通り抜けることをすでに見つけていました。そして、黄熱病(おうねつびょう)の病原体もシャンベラン濾過器を通り抜けることが、1902年のアメリカ黄熱病委員会報告に記載されていました。それはつまり、病原体が光学顕微鏡では見つけられないほど小さいことを意味しています。それなのに、なぜ野口はその事実に注意を払わなかったのでしょう。細菌よりも小さい病原体が存在すれば、それは光学顕微鏡では見つけられないだろう、それがポリオにもあてはまると、なぜ気づかなかったのでしょう。野口は次の黄熱病の研究で、とうとう取り返しのつかない悲劇を迎えることになったのです。

野口英世は、過去の成功体験にしばられたせいで、ポリオや黄熱病の原因を発見することができなかったんですね。

日本では偉人として、千円札の顔ともなった野口英世ですが、晩年はこのようにみじめなものでした。


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獅子風蓮