週刊文春(11月30日号)で池田氏の死去に伴う特集記事がありました。
別のところ(獅子風蓮のつぶやきブログ)で引用しました。


ネットだとこれですね。
引用します。


文春オンライン
「ナンバー2を嫌って、人を育てなかった」池田大作氏が創価学会で“究極の権力構造”を作り上げるまで その3)

(つづきです)

 


 池田が天才的なオルガナイザーぶりを発揮するのはその後である。11人いた理事を、45年には1700人にも増やし、実質的に理事たちの権限を奪ったのである。学会の元幹部は、「理事とか副会長は名誉職で会員への“ニンジン”なんです。池田さんが気に入ったらどんどん与える。励みになりますから」というが、私は究極の権力構造がここで完成されたように思う。理事が数人なら、権限が集中して池田を追い落としかねないが、1700人もいれば理事に権限がないに等しく、池田以外はその他大勢という逆T字型の権力構造ができる。現在、副会長が200名近くいるのも、これと同じ構図だろう。宗教学者の丸山照雄が、「あれだけの組織で、池田の本は腐るほど出てるのに、香峯子(かねこ)夫人の一冊以外、ナンバー2の本が出たことがない。他の宗教にくらべて非常に珍しい」と言うように、池田はナンバー2を許さなかったのだ。

 池田の追い風となったのが、学会員の急増だった。ある古参幹部は、「戸田時代にも折伏のノルマはありましたが、池田になってさらに厳しくなりました。うちの妹なんか、折伏する人がいなくなって、街頭で『いい話があるから、ちょっと付き合ってくれませんか』なんて声をかけて折伏していました」という。さらに高度経済成長の波に乗ったことも大きかった。学会は「貧者の宗教」といわれ、都市部の貧困層や未組織労働者が多かったが、経済成長で会員の生活が豊かになったことを、学会は「供養したおかげ」に替えて喧伝したことも影響した。

 そして昭和39年、膨大な会員をバックに、池田は公明党を結成させる。「国立戒壇の建立」が目的とされているが、現実には会員の利益擁護だったと前出の丸山は言う。

「公共予算にせよ、福祉関係の予算にせよ、地方自治体の庶民に対するサービスを仕切っていこうとしたんです。住宅供給などに介入して物質的利益を保障するんです。うちの近所の都営住宅なんて、半分は学会員といわれています」


「あれだけの金が集まると銀行が味方になる」
 こうした勢いをかって、池田は昭和40年、大石寺に「正本堂」を建立するために寄付を募った。日蓮正宗は、戒壇堂の建立を日蓮の遺命としているが、池田はこれを、「事実上の本門戒壇というべき画期的な正本堂」と意義づけたから、全国の会員は奮い立ったという。寄付は30億円を目標にしたが、なんと4日間で355億円も集まった。貧乏教団に、莫大な集金力があったのである。この瞬間から、池田を含め、学会幹部は大きく変貌したと、現役の学会幹部が言った。

「あれだけの金が集まると銀行が味方になる。銀行が味方につけば、いざというときは銀行に圧力かけて脅せばいい。池田さんは、社会の仕組みを心得ているから、銀行さえ抑えれば後はどうにでもなるという力関係の図式を読んだのです」

 この直後だった、と宗門の古参幹部は言う。

「正本堂を建てることが決まって建設委員会を立ち上げたのですが、第2回の委員会が始まると、池田は日達上人の前で宗門幹部を怒鳴りあげて流会にしたんです。法主上人の椅子に肘掛けがついていたのに、池田にはなかったという理由でしたが、こんな傲慢な態度をとったのは初めてでした」

 前出の現役幹部によれば、聖教新聞に『人間革命』を連載し、編集方針にも口出しするようになったのもこの頃だという。

「昭和40年頃から、何を紙面のトップにするか、池田さんが口を出すようになりました。お供を連れて編集部にやってきて、『一面の見出しはこう変えろ』と、パッパと決めるんです。あの人は、本もよく読んでいて、言葉の使い方が天才的で、そのへんの編集部員じゃかないませんでした」

 また前出の原島は、池田の“偉大さ”を周知させるためにこんなこともしていたと言う。

「私は昭和41年に東洋哲学研究所に入ったのですが、朝礼のとき、最近の会長はこういう立派なことをされたと、場内放送で流すんです。毎日でした」


(つづく)
 


解説

池田が天才的なオルガナイザーぶりを発揮するのはその後である。

 

たしかに、池田氏はオルガナイザーとしては天才だったようです。



獅子風蓮