NHKの朝ドラ「らんまん」いいですね。
いよいよドラマも終盤で、毎日楽しみにしています。
主演の神木隆之介もいいですが、妻・寿恵子(すえこ)を演じる浜辺美波が最高に「いい女」を演じていますね。

らんまん
『らんまん』は、2023年度前期放送のNHK「連続テレビ小説」第108作目である。2023年4月3日から放送中。日本の植物学者・牧野富太郎をモデルとし、長田育恵作、神木隆之介の主演でフィクションのドラマオリジナル作品として制作される。
(Wikipediaより)



さて、朝井まかて『ボタニカ』という本があります。

 

日本植物学の父・牧野富太郎愛すべき天才の情熱と波乱の生涯。明治初期の土佐・佐川の山中に、草花に話しかける少年がいた。名は牧野富太郎。小学校中退ながらも独学で植物研究に没頭した富太郎は、「日本人の手で、日本の植物相を明らかにする」ことを志し、上京。東京大学理学部植物学教室に出入りを許されて、新種の発見、研究雑誌の刊行など目覚ましい成果を上げるも、突如として大学を出入り禁止に。私財を惜しみなく注ぎ込んで研究を継続するが、気がつけば莫大な借金に身動きが取れなくなっていた…。貧苦にめげず、恋女房を支えに、不屈の魂で知の種を究め続けた稀代の植物学者を描く、感動の長編小説。

私の敬愛する牧野富太郎先生をモデルにした小説です。

NHKの朝ドラ「らんまん」の原作本かと思って読んだのですが、違うようですね。
「らんまん」の方は、「フィクションのドラマオリジナル作品として制作され」たというので、『ボタニカ』の方が事実に近いのでしょう。

この本によると、実際の牧野富太郎は、祖母に溺愛され、何でも欲しい物は与えられ、ずいぶん自分勝手な人物だったようです。
驚いたことに、いとこの猶(ゆう)さんと佐川で祝言をあげているのです。
そのくせ、猶さんのことはほったらかしで、東京に出てきて、そこで知り合った若い女性に手を付けて妊娠させてしまう。
それが「すえ」さんです。
すえさんは、いわばお妾さんですね。
富太郎は、東京大学に出入りして植物学を極めるため、石版印刷機や高価な書籍をどしどし買い込み、佐川の猶さんにお金を送らせたんです。
富太郎は東京にいても、岸屋(ドラマでは峰屋)の当主でありますから、岸屋を預かる猶さんと番頭は、せっせとお金を送るのです。
送る金がなくなると、借金をしてまで、東京に送金します。
本では、そのせいで岸屋は没落し、廃業にいたると書かれています。
ひどい話ですよね。
で、廃業の整理のために佐川に戻っていた富太郎は、正妻である猶さんを離縁し、猶さんと番頭(名前は失念しました。けっしてドラマの竹雄ほど登場場面は多くありません。キャラも立っていません。でも、猶さんのことは憎からず思っていたようです)をくっつけたのです。
富太郎は、最初から猶さんのことはそれほど好きではなかったようです。

猶さんは、あまり魅力的なキャラに描かれていません。
もっと早く手放してあげればよかったと思うのですが、手放すには惜しいという気持ちが、富太郎にはあったようです。
見方によると、岸屋の当主であり続けたことで、東京での研究生活が成り立っていたのですね。
でも、岸屋がなくなると、資金の援助がなくなるわけで、東京の生活はまた不安定になります。
スエの内職と質屋通いが始まります。
ドラマでは十徳長屋に長く住み着いたことになっていますが、実際は家賃を滞納したあげくの夜逃げを何度も繰り返していたようです。

ドラマでは最初の子ども、園子が亡くなる場面で、寿恵ちゃんをいたわる万太郎が描かれていますが、本の方では、
「おまんがしっかり見ていないから園子が死んでしまったんだろうが」(うろ覚え)といって、富太郎はスエをひっぱたいたりします。

そんなこんなで、『ボタニカ』の内容をそのままドラマにしたら、お茶の間の奥様たちの多くは目をそむけたかもしれません。
実際、私がとくとくと本の内容を、妻に話して聞かせると、
「聞くんじゃなかった。恨む」と言われました。

さて、実際の富太郎が、このような男性であったとしても、当時の時代背景を考えると、それほど倫理に反するとはいえないでしょう。
郷里の正妻とは別に、赴任先でお妾さんを囲っていた幕末の志士や明治の有力者はざらにいます。
ちょっと思いつくだけでも、西郷隆盛の愛加那さんとか。

吉田松陰の妹を娶った久坂玄瑞の場合は京都の芸妓お辰とか。

渋沢栄一にもお妾さんはいたし。

時には、スエの気持ちを考えずに行動する富太郎でしたが、スエと子どもたちに対する愛情は深いものでした。
でも、草花の採集のため、家を空けることが、半端なく多かった。

こんな富太郎ですが、周囲の人から愛されていたのは、ドラマの万太郎と同じです。


思うのですが、ドラマを制作するにあたり、当時の時代背景を詳しく伝えながら正確に人物を描けばいいというものではないでしょう。
そういう意味で、牧野富太郎の本質を失わずに、周囲に好かれるキャラクターという共通点を持った万太郎を描き出した脚本家の腕は素晴らしいと思いました。


鎌倉時代を生きた日蓮を、現代人の目から批判的に評価することはいくらでもできるでしょう。
「四箇格言なんてナンセンス」
「法華経至上主義なんて誤り」……


しかし、鎌倉時代を生きた日蓮の本質を抽出し、それを現代人にも受け入れられるように再構築してみせることは無意味ではないと思います。

私は、対話ブログでの質問をきっかけに、レヴィストロースの「構造主義」を持ちだしました。構造主義的に言えば、鎌倉時代の日蓮の本質を〈構造〉として取り出すのです。


その時々で、もっとも正しいことは何か、徹底的に調べること。
「智者」にその義が破られれば、あっさりそれを認めること。
正しいことを広めるためには、権力者がいかに弾圧をかけても屈しないこと。
 

それらを〈構造〉として抽出し、現代に活かしていきたい。


私はそう考えます。






獅子風蓮