ちなみに、『人間革命』第8巻「学徒」の章ですが、改定された最近の版では、最後の方に、次のような記載があります。

東大法華経研究会の、戸田の最後の講義には、山本伸一も同席していた。
講義が終わった時、戸田は、学生たちに遺言を託すように言った。
「もし、これから先、わからないことがあったら、この伸一に聞きなさい。わかったね」


私の持っている改定前の版では、このような記載はありません。
明らかな改竄ですね。


ところで、「生死一大事血脈抄」には偽作の疑いがあるそうです。

気楽非活さんは、次の記事でそう書いています。

『生死一大事血脈抄』は後世の偽作である。(2023-02-25)

一部引用します。

『生死一大事血脈抄』は、創価学会信者および日蓮正宗信者さんがよく読まれる遺文の一つです。しかしながらこれは後世の偽書の可能性が非常に高い遺文なのです。
創価学会はとりわけ大石寺から破門されて後、この『生死一大事血脈抄』を多用しました。つまり会員信徒が「自他彼此の心なく水魚の思を成して異体同心にして南無妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり」の部分を用いて(創価学会旧版御書全集1337ページ)、自分たち創価学会信徒が団結することが「血脈」であると強調するようになります。
まあ、教団がどんな教義をどのように解釈しても自由なのかもしれませんが、実はこの『生死一大事血脈抄』はほぼ偽書で間違いありません。理由は主に3つあります。
1、真蹟、古写本が全く存在しない。
2、『生死一大事血脈抄』の初出は録外御書からで、室町時代の15世紀以降のこと。
3、「血脈」の語は日蓮真蹟には用いられない用語である。
創価学会や日蓮正宗の信者さんは、いい加減に目を覚まして現実を見るべきかと思います。当たり前のことですが、「血脈」は日蓮の教義ではないのです。そしてその血脈という語が多用される時点で『生死一大事血脈抄』は日蓮の述作とは呼べないのです。


__真蹟、古写本が全く存在しない。

__録外御書である。
などは、「生死一大事血脈抄」が偽書であることの決定的な証拠とはなりません。
また、台密の僧侶であった最蓮房の疑問に対してこの「ご返事」が書かれたわけです。
おそらく、最蓮房は天台流の「血脈」について大聖人はどう考えるのを問われたのでしょう。
ですから、「生死一大事血脈抄」の中で「血脈」という言葉が使われていたとしても、なんら不思議ではありません。
むしろ当然でしょう。
「生死一大事血脈抄」が偽書であることの証拠にはなりません。

 

 



ところで、なんと創価学会内にも、「生死一大事血脈抄」を偽作とする議論があるそうです。
元創価大学教授の宮田幸一氏が、そのようなことを主張されているので、いずれはそれが創価学会の公式見解になるかもしれません。

これに対しては、創価学会元副教学部長の須田晴夫氏が反論を書いています。

宮田論文への疑問 ――日蓮本仏論についての一考察


一部引用します。

もっとも宮田氏は、真筆ないしは直弟子などの古写本のない御書は日蓮の思想を判断する根拠にはなり得ないという立場をとっているので、真筆が現存しない「生死一大事血脈抄」も偽書として扱い、一切用いないとするのであろうか。真筆や古写本のない御書を全面的に排除する傾向が一部の研究者の間に見られるが、後に触れるように、そのような態度は真偽が確定できない御書を全て偽書として切り捨てるもので、行き過ぎであり、妥当ではない。
創価学会は、これまで血脈観として、正しい信心こそが血脈であるという「信心の血脈」論の立場に立ち、その根拠を「生死一大事血脈抄」に置いてきた。2015年に発刊された『教学入門』(創価学会教学部編)は次のように述べている。
「日蓮大聖人は、成仏の血脈は特定の人間のみが所持するものではなく、万人に開かれたものであることを明確に示されています。『生死一大事血脈抄』に「日本国の一切衆生に法華経を信ぜしめて、仏に成る血脈を継がしめんとする」(1337 ㌻)と仰せです。日蓮大聖人の仏法においては、『血脈』といっても、結論は『信心の血脈』(1338 ㌻)という表現にあるように『信心』のことです」(同書 318 ㌻)
仮に「生死一大事血脈抄」を偽書として排除した場合には、学会が主張している「信心の血脈」論も日蓮自身の思想ではなく後世に形成されたものとなり、根底から崩壊することになる。そのような事態は、学会員としては受け入れ難いものであろう。



私は、須田氏の主張に賛成です。
たとえ、真蹟、古写本が存在しなくとも、「生死一大事血脈抄」の内容が日蓮仏法の信心を支えるものである以上、排除するべきではないと考えます。

「教学」と学問は、別物です。


獅子風蓮