私は別のところ(獅子風蓮のつぶやきブログ)で、友岡雅弥さんのことばを拾い集めています。

その中で、友岡さんは、大聖人は「血脈」否定論者だったと主張しています。

友岡雅弥さんの講演:大聖人は「血脈」否定論者だった(1)

池田氏は「生死一大事血脈抄」を講義することで、宗門の「血脈唯授一人」を否定されたと言っています。

友岡さんの主張は、日蓮正宗の信徒である私にもすんなりと耳に入ります。
くわしくは、獅子風蓮のつぶやきブログを読んでください。

 

さて、教学力のない私ですが、『生死一大事血脈抄』を読んでみることにしました。
 


生死一大事血脈抄 文永9年2月11日 51歳 最蓮房

    日蓮これを記す。
 御状委細披見せしめ候い畢わんぬ。
 夫れ、生死一大事の血脈とは、いわゆる妙法蓮華経これなり。その故は、釈迦・多宝の二仏、宝塔の中にして上行菩薩に譲り給いて、この妙法蓮華経の五字、過去遠々劫より已来(このかた)、寸時も離れざる血脈なり。
 妙は死、法は生なり。この生死の二法が十界の当体なり。またこれを当体蓮華とも云うなり。天台云わく「当に知るべし、依正の因果はことごとくこれ蓮華の法なり」云々。この釈に依正と云うは、生死なり。生死これ有れば、因果また蓮華の法なること明らけし。伝教大師云わく「生死の二法は一心の妙用、有無の二道は本覚の真徳」文。天地・陰陽、日月・五星、地獄乃至仏果、生死の二法にあらずということなし。かくのごとく、生死もただ妙法蓮華経の生死なり。天台、止観に云わく「起はこれ法性の起、滅はこれ法性の滅なり」云々。釈迦・多宝の二仏も生死の二法なり。
 しかれば、久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経と我ら衆生との三つ全く差別無しと解って妙法蓮華経と唱え奉るところを、生死一大事の血脈とはいうなり。このこと、ただ日蓮が弟子檀那等の肝要なり。法華経を持つとは、これなり。
 詮ずるところ、臨終只今にありと解って信心を致して南無妙法蓮華経と唱うる人を、「この人は命終して、千仏の手を授け、恐怖せず、悪趣に堕ちざらしめたもうことを為」と説かれて候。悦ばしいかな、一仏二仏にあらず、百仏二百仏にあらず、千仏まで来迎し、手を取り給わんこと、歓喜の感涙押さえ難し。法華不信の者は「その人は命終して、阿鼻獄に入らん」と説かれたれば、定めて獄卒迎えに来って手をや取り候わんずらん。浅まし、浅まし。十王は裁断し、倶生神は呵責せんか。今、日蓮が弟子檀那等、南無妙法蓮華経と唱えんほどの者は、千仏の手を授け給わんこと、譬えば瓜・夕顔の手を出だすがごとくと思しめせ。
 過去に法華経の結縁強盛なる故に、現在にこの経を受持す。未来に仏果を成就せんこと疑いあるべからず。過去の生死、現在の生死、未来の生死、三世の生死に法華経を離れ切れざるを、法華の血脈相承とは云うなり。謗法不信の者は、「即ち一切世間の仏種を断ぜん」とて、仏に成るべき種子を断絶するが故に、生死一大事の血脈これ無きなり。
 総じて、日蓮が弟子檀那等、自他・彼此の心なく、水魚の思いを成して、異体同心にして南無妙法蓮華経と唱え奉るところを、生死一大事の血脈とは云うなり。しかも、今、日蓮が弘通するところの所詮これなり。もししからば、広宣流布の大願も叶うべきものか。あまつさえ、日蓮が弟子の中に異体異心の者これ有らば、例せば、城者として城を破るがごとし。
 日本国の一切衆生に法華経を信ぜしめて、仏に成る血脈を継がしめんとするに、還って日蓮を種々の難に合わせ、結句この島まで流罪す。
 しかるに、貴辺、日蓮に随順し、また難に値い給うこと、心中思い遣られて痛ましく候ぞ。金は大火にも焼けず、大水にも漂わず、朽ちず。鉄は水火共に堪えず。賢人は金のごとく、愚人は鉄のごとし。貴辺あに真金にあらずや。法華経の金を持つ故か。経に云わく「衆山の中に須弥山はこれ第一なり。この法華経もまたかくのごとし」。また云わく「火も焼くこと能わず、水も漂わすこと能わず」云々。
 過去の宿縁追い来って、今度日蓮が弟子と成り給うか。釈迦・多宝こそ御存知候らめ。「在々諸仏土、常与師倶生(いたるところの諸仏の土に、常に師とともに生ず)」、よも虚事候わじ。
 殊に生死一大事の血脈相承の御尋ね、先代未聞のことなり。貴し、貴し。この文に委悉なり。能く能く心得させ給え。ただ南無妙法蓮華経釈迦多宝上行菩薩血脈相承と修行し給え。
 火は焼き照らすをもって行となし、水は垢穢を浄むるをもって行となし、風は塵埃を払うをもって行となし、また人畜・草木のために魂となるをもって行となし、大地は草木を生ずるをもって行となし、天は潤すをもって行となす。
 妙法蓮華経の五字もまたかくのごとし。本化地涌の利益これなり。上行菩薩、末法今の時、この法門を弘めんがために御出現これ有るべき由、経文には見え候えども、いかんが候やらん、上行菩薩出現すとやせん、出現せずとやせん、日蓮まずほぼ弘め候なり。
 相構えて相構えて、強盛の大信力を致して、南無妙法蓮華経臨終正念と祈念し給え。生死一大事の血脈、これより外に全く求むることなかれ。煩悩即菩提・生死即涅槃とは、これなり。信心の血脈なくんば、法華経を持つとも無益なり。委細の旨、またまた申すべく候。恐々謹言。
  文永九年壬申二月十一日    桑門日蓮 花押
 最蓮房上人御返事
SOKAnet より)


文永9年(1272年)2月、日蓮大聖人が佐渡国(新潟県佐渡島)塚原でしたためられ、同じく佐渡に流罪中の最蓮房[さいれんぼう]に与えられた書とされる(1336㌻)。もとは天台宗の学僧で、佐渡で大聖人の門下となった最蓮房が、生死一大事血脈という成仏の要諦に関する法門について質問したのに対して、回答している。
聖教新聞より)


(現代語訳)
お手紙を詳しく拝見した。
お尋ねの、生死一大事の血脈とは、いわゆる妙法蓮華経のことである。
そのわけは、
この妙法蓮華経の五字は釈迦・多宝の二仏が宝塔の中で上行菩薩にお譲りになったのであり、
過去遠々弘(おんのんごう)以来、寸時も離れることのなかった血脈の法であるからである。
妙とは死、法とは生のことで、この生死の二法が即、十界の当体である。
また、これを当体蓮華ともいうのである。
天台大師は
「まさに知るべきであある。十界の依正の因果がことごとく蓮華の法門である」
といわれている。
この釈に依正というのは十界の生死の意である。
生死があれば、その因果もまた蓮華の法門であることは明らかである。
伝教大師は
「生死の二法は一心の妙用であり、有と無との二道は本覚の真徳である」
と述べている。
天地・陰陽・日月・五星・地獄・ないし仏果に至るまで、生死の二法でないものはない。
このように、生死もただ妙法蓮華経の生死なのである。
天台大師の摩訶止観に
「起(生)はこれ法性の起であり、滅(死)をまたこれ法性の滅である」とある。
釈迦・多宝の二仏も生死の二法をあらわしているのである。
このように、十界の当体が妙法蓮華経であるから、仏界の象徴である久遠実成の釈尊と、
持戒仏道の法華経すなわち妙法蓮華経と
我ら九界の衆生の三つは全く差別がないと信解して、
妙法蓮華経と唱えたてまつるところを生死一大事の血脈というのである。
このことが日蓮が弟子檀那等の肝要である。
法華経を持(たも)つとは、このことをいうのである。
所詮、臨終只今にありと覚悟して信心に励み、
南無妙法蓮華経と唱える人を普賢菩薩観発品には
「是の人命終(みょうじゅう)せば、千仏の手を授けて恐怖せず、悪趣に堕ちざらしめたもうことを為」
と説かれている。
喜ばしいことに、一仏二仏ではなく、
また百仏二百仏ではなく千仏までも来迎し手を取ってくださるとは
歓喜の涙、押えがたいことである。
これに対し法華経不信の者は、譬喩品に
「其の人は命終わって、阿鼻獄に入るであろう」と説かれているから、
定めて獄卒が迎えにきて、その手を取ることであろう。
あさましいことである、あさましいことである。
このような人は十王にその罪を裁断され、
倶生神(くしょうじん)に呵責(かしゃく)されるにちがいない。
今、日蓮が弟子檀那等、南無妙法蓮華経と唱える者に、千仏が御手を授けて迎えてくださるさまは、
例えば爪や夕顔の蔓(つる)が幾重にもからんで伸びるようなものであると思われるがよい。
過去世において、
強盛に法華経に結縁していたので今生においてこの経に値(あ)うことができたのである。
未来世において仏果を成就することは疑いない。
過去、現在、未来と三世の生死において、法華経から離れないことを
法華経の血脈相承というのである。
謗法不信の者は、
譬喩品に「即ち一切、世間の仏種を断ぜん」と説かれて、
成仏すべき仏種を断絶するがゆえに、生死一大事の血脈はないのである。
総じて日蓮が弟子檀那等が、自分と他人、彼とこれとの隔てなく水魚の思いをなして、
異体同心に南無妙法蓮華経と唱えたてまつるところを生死一大事の血脈というのである。
しかも今、日蓮が弘通する法の肝要はこれである。
もし、弟子檀那等がこの意を体していくならば、広宣流布の大願も成就するであろう。
これに反して、日蓮の弟子のなかに異体異心の者があれば、
それは例えば、城者にして城を破るようなものである。
日蓮は日本国の一切衆生を信じさせ、仏に成るべき血脈を継がせようとしているのに、
かえって日蓮を種々の難に値(あ)わせ、揚げ句のはてにはこの佐渡にまで流した。
そうしたなかで、あなたは日蓮に随順され、
また法華経のゆえに難にあわれており、その心中が思いやられて心を痛めている。
金は大火にも焼けず、大水にも流さず、また朽ちることもない。
鉄は水にも火にも、ともに耐えることができない。
賢人は金のようであり、愚人は鉄のようなものである。
あなたは法華経の金を持(たも)つゆえに、まさに真金である。
薬王菩薩本事品に
「諸山の中で須弥山が第一であるように、この法華経もまた諸経中最第一である」とあり、
また
「火も焼くことできず、水も漂わすことができない」と説かれている。
過去の宿縁から今世で日蓮の弟子となられたのであろうか、釈迦多宝の二仏こそ御存知と思われる。
化城喩品の
「在在諸仏の土に、常に師と倶に生ぜん」の経文は、よもや虚事(そらごと)とは思われない。
ことに、生死一大事血脈についてのお尋ねは、先代未聞のことであり、まことに尊いことである。
この文に詳しく記したとおりであり、よく心得て南無妙法蓮華経、
釈迦多宝上行菩薩血脈相承と唱え、修行されるがよい。
火は物を焼き、かつ照らすことをもってその働きとなし、
水は垢や穢を清めることをもってその働きとなし、
風は塵や埃を払うことをもってその働きとなし、
また人畜や草木のために魂となることをもってその働きとなし、
大地は草木を生ずることをもってその働きとなし、
天は万物を潤すことをもってその働きとする。
妙法蓮華経の五字もまた、この地、水、火、風、空の五大の働きをことごとく具えているのである。
本化地涌の菩薩の利益がこれである。
さて、上行菩薩が末法の今時、この法華経を弘めるため御出現されることが経文に見えているが、
どうであろうか。
上行菩薩が出現されているにせよ、されていないにせよ、日蓮はその先駆けとして、
上行菩薩所弘の法門をほぼ弘めているのである。
心して強盛の大信力を出し、難妙法蓮華経、臨終正念と祈念なさるがよい。
生死一大事の血脈をこのことのほかに求めてはならない。
煩悩即菩提、生死即涅槃とはこのことである。
信心の血脈がなければ法華経を持(たも)っても無益である。
詳しくはまた申し上げよう。恐々謹言。

御書 現代語訳wiki 生死一大事血脈抄 より)



 


解説

「日蓮が弟子檀那等、自他・彼此(ひし)の心なく、水魚の思いを成して、異体同心にして南無妙法蓮華経と唱え奉るところを、生死一大事の血脈とは云うなり」


なるほど、友岡さんが言われていたように、「生死一大事の血脈」とは、釈迦、多宝、上行菩薩と受け継がれた法華経を一人ひとりが保ち、異体同心で南無妙法蓮華経と唱えることなのですね。
でも、それは「唯受一人」ではない。
たしかに「血脈」ということは、

「書いてあるけど書いてない」。

次回は、宗門側の主張を調べてみます。



獅子風蓮