みーちゃんがブログで紹介してくれた本です。
古川智映子『負けない人生』(2022年11月、潮出版社)

 

 

素敵な内容でしたので、一部かいつまんで紹介したいと思います。

(目次)
□私の生きていくテーマ
□わたしがいたらないから……
□「絶対に幸せになれます」
□「ひとりを大切に」
□「あなたはペンの道で、結果を出せる人です」
□「やはり小説が書きたい」
□広岡浅子との出会い
□見え始めた浅子像
□次第に明らかになる
□失明の危機を越えて
□母を引き取りたい
□上京した母が入会
□『小説 土佐堀川』の発刊
□「負けない、負けない、頑張れ」
■母との突然の別れ
■次々襲う病気の宿業
■思わぬ人物とのつながり
□人の意志ではどうにもならないこと
□「あさが来た」の誕生
□人との関係によってもたらされる幸福
□何十年がかりで出せた結果
□告げられた病名
□大きな戦いをした後に最も大きな宿業が
□信心を貫けば「きっと幸せの朝が来る」
□あとがき
 


■母との突然の別れ

セミナーで全国を回らせていただく一方で、執筆にも精を出した。
そんな時、埼玉県を題材にした小説をと聖教新聞埼玉支局から依頼された。昔、利根川は江戸の町中を流れていた。そのために江戸の町はたびたび大洪水に見舞われた。元和年間(1615~1624年)、関東郡代伊奈忠治は父忠次の後を継ぎ、利根川の流れを変えて、江戸の町を守ろうと考える。
大変な難事業であった。そして川一本の流れを変えるのに、実に伊奈家親子三代の歳月を費やしたのである。
池田先生はかつて、この史実を通し、ましてや広宣流布という未曾有の大偉業は、三代のみならずさらなる歳月を重ねなければならない。しかし何としても成し遂げねばならないと、埼玉の同志を励ましてくださったことがある。
私は浦和の県立図書館に通って資料を読み、調べ、現地踏査をして書き上げた。これは「炎の河」という題で聖教新聞埼玉版に連載された。また埼玉県内の主要な市を訪問し、「郷土スケッチ」も書いて連載した。
それ以前には、当時の小学生文化新聞や『灯台』にも連載をしている。書評でも、「日本の美」という写真の説明文でも、依頼された原稿は断らずに何でも書かせていただいた。
その他、青森県出身の作家葛西善蔵(石坂洋次郎の師匠)の生涯を書いた小説(『一輪咲いても花は花』)の新聞連載など、地方新聞などには多くの執筆をした。

母と一緒に住んでから6年目の3月末、母はパーマをかけて身ぎれいにし、近所のレストランで青森県から来た親戚の者をもてなした。親戚の者が帰ってから間もなく、母は突然倒れて入院した。病名は急性心不全、そして4月2日には83歳で帰らぬ人となった。病院の個室の窓外には、桜の大樹があって、はらはらと花びらを散らしていた。

母の葬儀を終えた後、62歳になった私は、整形外科の名医である大学教授の執刀により、左股関節人工骨頭置換手術を受けた。


■次々襲う病気の宿業

広岡浅子の本を出版した後、私は次の小説執筆の準備にかかった。有意義な生き方をした女性勤王家松尾多勢子のことを書きたいと思い、取材を始めた。松尾多勢子も広岡浅子と同様、あまり知られていない女性である。
(中略)
出版した本の数は少しずつ積み重なっていった。

何十年、祈ったことであろう。結果は出ず、出るものは病気の宿業ばかり、股関節手術の後には大きな胆石が見つかって、今度は胆嚢全摘の手術を受けねばならなかった。


■思わぬ人物とのつながり

数多くの病気に見舞われながらも、小説への思いは捨てなかった。一つ病気を克服しては執筆に戻り、次の病気を治してはまた仕事に戻る。その繰り返しであった。
私は執筆の合間に、時どきパソコンのインターネットで一人遊びをしたりする。外国の観光地の地名を入れて検索すると、たくさんの現地の写真や、土産物の映像などが出てくる。
まるで現地へ行ったような楽しい気分になる。
例えば、チェコと入れて検索をする。そうすると、カレル橋や、モルダウ川の流れや、さまざまな写真が出てくる。いつか行ってみよう。そして両側に聖人像の立っているカレル橋の上を歩いてみようなどと夢がふくらむ。お土産には、マリオネット、操り人形を買って帰ろうなどと少女のような気持ちになる。
もう16年も前になるけれど、私は功徳で、豪華客船「飛鳥Ⅱ」で世界一周旅行をすることができた。寄港地では下船し、地元巡りをする。しかし港から遠い陸地にある国への訪問は、スケジュールから除外される。せいぜいバスで3時間ぐらい、遠くても数時間以内で行ける国に限られる。そのために、チェコやオーストリア、ハンガリー、スロバキアなどには行けなかった。
それだけに、特にチェコとオーストリアには、いまも強いあこがれを持っている。
そんなある日、別にこれという目的もなく、パソコンで出版社のホージページなどを見ていた。ある大手出版社のページに、その出版社が出している雑誌の編集長の名前と写真が載っていた。その編集長の名前に覚えがあった。
ずい分前に、離別した夫から子供が生まれたと電話があり、聞いたときの名前と同じ名であった。そして掲載されている写真が、若い頃の夫によく似ていた。姓は、もちろん夫の姓である。同姓同名の人かもしれない。でも、もしかしたら、という思いが強くなった。
離婚してからずい分と長い年月が過ぎ、その後の前夫の消息はわからなくなっていた。私の紹介で創価学会に入会したが、信心を続けているかどうか、御本尊様をお守り申し上げているだろうかということが気になっていた。そのページには、お客様の声を書く欄が設けられていた。
「突然、メールを差し上げます。失礼ご容赦ください。
K編集長さんのお父様は、もしかしたら某大学の教授ではいらっしゃいませんか。もし間違っていましたら、お詫び申し上げます。私、青森県、弘前市出身の古川智映子(ぬい)と申します」
そう書いて、メールを送った。折り返し、返信があった。
「メール拝見しました。仰せのとおり、父は某大学の教授でした。定年退職をして、いまは家におります。父とどのようなお知り合いなのでしょうか。ぜひ、お知らせください。その際は僕の個人のメールアドレスにご返信ください」
返信用の別のアドレスが書かれていた。私は、そのアドレスに再度メールを送った。
「ご返信、ありがとうございます。私、実はお父様の前の妻でした。私の紹介で、お父様は創価学会に入会なさいました。その後、御本尊様をきちんとお守り申し上げておられるかどうか、心配しております」
またすぐに返信があった。
「ご安心ください。父は、私が物心ついた頃からよくお題目をあげていました。いまも毎日勤行唱題をしております」
私は、そのメールを読んで、よかった、本当によかったと思い、御本尊様に感謝の題目をあげた。
大手出版社に勤務する前夫の長男からは、その後も時どきメールが来るようになった。
「私がお詫びを言うのも何ですが、古川さんに父は本当に申し訳のないことをしました。父から離婚にいたった事情を聞きました。私でお役に立つことがあったら、何でもおっしゃってください」
そのメールを見たとき私は、かつてその母親が私に投げつけた言葉を思い出していた。
とてもあの女性から生まれた人とは思えなかった。文章に育ちと人柄の良さがにじみ出ていた。
「ありがとう。もう何とも思っていません。お気遣いのないように」
私は、そう返信をした。


信心が深まるにつれて、「宿命」という言葉の深い意味を知るようになった。宿命、わが命に宿るもの、不幸を人のせいにしてはならない。わが命にこそ、その原因が宿っている。それは正しい信心、つまり日蓮大聖人の仏法の実践によってしか転換できない。他人を責める前に、不幸の原因である自分の宿命に目を向け、その解決に取り組まなくてはならない。
そうした信心の目から見れば、前夫は私同様、宿業の深い人間だと思った。生家は津軽の大きな呉服商をしていた。店は反物の灼けを防ぐために、日光を遮った設計になっていて、昼でも暗く、終日電灯を点けていた。
幼くして母に死に別れ、兄も結核で夭逝、姉は見染められ、津軽でも指折りのりんご農家に嫁いだものの、婿取りの姑や小姑たちにいびられて気欝の病になって家出をし、行方知れずになっていた。
前夫が哲学を志したのも、そうした不幸な環境に起因していたのかも知れなかった。父親は再婚したので、前夫は継母に育てられた。
一方私のほうも、親戚の女たちには、結婚しても別れたり、夫に先立たれたりした人が多い。私の祖母も、母も、二度結婚をしている。そんなことを考えたとき、入会して同志となった前夫を、私はとっくに許していた。幸せになってくれればいいと、心から願える自分になっていた。
前夫は4年前に他界したが、そのこともこの長男がメールで知らせてきてくれた。晩年の様子を聞くと、「時間があるとよくお題目をあげていました」とのことだった。人生の最後まで立派に信仰を全うしてくれたことに安堵し、前夫の冥福を心から祈った。




 


解説
信心が深まるにつれて、「宿命」という言葉の
深い意味を知るようになった。
宿命、わが命に宿るもの、不幸を人のせいにしてはならない。
わが命にこそ、その原因が宿っている。
それは正しい信心、つまり日蓮大聖人の
仏法の実践によってしか転換できない。
他人を責める前に、不幸の原因である
自分の宿命に目を向け、
その解決に取り組まなくてはならない。


「宿命」に対する捉え方が、仏教とりわけ日蓮仏法では重要とされます。
歴史上の日蓮本人さえ、鎌倉幕府から弾圧を受け、流罪となった佐渡の地で、なぜ法華経の行者であるはずの自分を諸天善神は守らないのかと、悩み、深く内省したのです。
これが『開目抄』執筆の動機です。
その結論として、日蓮は自らの前世に正法誹謗(謗法)があったことを見出しました。
あれほど、謗法を批判した日蓮にとって、現実の弾圧は、過去世の謗法の罪がなお消えなかったためにもたらされたものと受け取られ、その宿業はこの弾圧を受けることで消すことができると『開目抄』で述べています。
そのあと、『開目抄』は、「詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん、身子が六十劫の菩薩の行を退せし乞眼の婆羅門の責を堪えざるゆへ、久遠大通の者の三五の塵をふる悪知識に値うゆへなり、善に付け悪につけ法華経をすつるは地獄の業なるべし、大願を立てん日本国の位をゆづらむ、法華経をすてて観経等について後生をごせよ、父母の頸を刎ん念仏申さずば、なんどの種種の大難・出来すとも智者に我義やぶられずば用いじとなり、其の外の大難・風の前の塵なるべし、我日本の柱とならむ我日本の眼目とならむ我日本の大船とならむ等とちかいし願やぶるべからず」とつづくわけです。
つまり、諸天の加護がないのはなぜかという次元を超えて、諸天の加護があろうとなかろうと、身命を捨てて法華経を弘通するとの誓い、決意が示されます。
ここが、日蓮の『開目抄』の素晴らしいところですが、それは置いておいて、日蓮ですら現実に直面した困難に対し、その原因を過去世の宿業に見出したことは重要です。

アンチの方には、こういう宿業論を嫌う人が多いと思うのですが、古川さんのように、次から次に不幸や病気に見舞われたとき、その原因を「人のせいにしてはならない」と考え、宿命、宿業と捉えて、いっそう信心を深めるという信仰のあり方は、間違っていないと思うのです。
この本は会員向けの機関紙(聖教新聞)に連載されたエッセイを集めたものですから、宿命や宿業は「日蓮大聖人の仏法の実践によってしか転換できない」と著者は書いています。
厳密に言えば、そう言い切るのはどうかと思いますが、教団の中の信仰のあり方として、強い信仰心を鼓舞するためと考えると、こういう言明も許されると思います。

ちなみに、私は別のところ(獅子風蓮のつぶやきブログ)で、友岡雅弥さんのことばを拾い集めています。

その中で、友岡さんは仏教が宿業を説くことを嫌悪していたことを紹介しました。
友岡さんとの思い出(7)(2023-06-17)
「今のお前の不幸は過去世の悪業のせいだ!自業自得だ!」として今現在苦しんでいる人を貶めるだけで救おうとしない無慈悲なものの考え方を、友岡さんは非難したかったようです。
確かに、私も、宿業論を振りかざしたこのような「指導」は、違うと思います。

しかし、自分が自分の宿命や宿業に向き合う中で、真剣に祈っていくことは、信仰のあり方としては、ありだと思います。



獅子風蓮