「言いたいことがあるなら、はっきりと言え」「もっと分かりやすく明確に述べろ」

 

学校や職場で、教師や上司からこんな叱責を受けた経験はないでしょうか。

自分自身はなくても、誰かが怒られているのを見聞きした経験ならば、おそらく大半の人が思いあたるでしょう。

 

教師や上司のこうした発言に疑問を呈する人はあまりいないかと思いますが、私は、人にモノを言う時は「明確な論旨ではっきりと言うべきである」という、一見まともに思える考え方の過剰なまでの跋扈が、学校や企業から創造力を奪っている可能性があるのではないかと考えています。

 

私自身は人より声が大きいとよく言われますし、人前でもあまり臆せずに話ができる方だろうとも思います。

それでも何かまったく新しいアイデア、それもアイデアの卵のようなものが浮かんできた時などは、それが本当に自分自身の内から湧き出てきた斬新なものであればあるほど、誰かに説明しようとしても、まだ輪郭の定まらない思考がぐるぐると頭の中を巡っているので、なかなかズバリと明確な表現にすることができません。

 

自分も含めて誰も口にしたことがないような斬新なアイデアが生まれそうな時は、それを言葉にしようとしても、一つのセンテンスができあがるまでだってかなりの時間がかかることがあるし、時間をかけてもセンテンスが終わらないこともある。

 

本当に創造的なアイデアが浮かびそうな時ほど、なかなか「大きな声ではっきりと論理的に」は話せないものなのです。

 

それは、誰かの請け売りではなく、本当に自分自身の心の底・脳の奥底で生まれつつあるものを引っ張り出そうとするから起きる現象であり、それを「大きな声で、はっきりと話せ」と言われても難しい。

 

そんなことができるのは、たいていの場合、出来あいの意見を引っ張ってくるからです。

 

誰かが言ったことを記憶していて再生するだけなら、誰でも大きな声で、はっきりと言えます。

経験上、人が過剰に断定的になるのは、その意見が請け売りである証拠だと言い切ってもいいと思います。

 

誰かが小さな声でモゴモゴと語りだす時、実はそこにはとんでもなく素晴らしいアイデアが隠されているかも知れないのです。

もちろんそうではない可能性だってあるし、おそらくそうではない可能性の方が圧倒的に高いのかも知れませんが、千に一つでも素晴らしいアイデアが潜んでいるのだとすれば凄いじゃないですか。

 

そんな事は最後までじっくり聞いてみなければ分からないし、聞いてみても分からないかも知れない。

古今東西、科学でもビジネスでも「ものすごいアイデア・発想」の多くは、当初は周囲の人たちから馬鹿にされていたのですから。

 

でも、小さな声でもごもごと話し始めた人を頭ごなしに否定していては、千に一つの可能性さえも潰してしまうことになる。

だからこそ、学校でも企業でも、小さな声でもごもごと話し始めた人を叱責してはいけない。

そこには、素晴らしく創造的な何かが隠されている可能性があるのです。

 

小さな声を(こそ)しっかりとすくい取る。

 

教育やビジネスの場において、誰かが小さな声で自信なげに語りだした瞬間を、教師や上司は見逃してはいけない。

それはその人が「真に自分自身の言葉」で語り始めた兆候であることが多いからですし、そこには千に一つかも知れないけれど、素晴らしく創造的な何かが潜んでいる可能性があるのです。

 

小さな声でもごもごとでもいいから、何かを語り出したら、それを見逃さずに聞き取ろうと耳を傾けてくれる人がいる。

そういう環境を創ることもまた、教師や上司の役目なのではないでしょうか。