今回のコロナ禍では、中国の対応に驚いた方も多いのではないでしょうか。

 

大都市の完全封鎖から始まって、秀吉の「一夜城」ばりに10日間で建設されたコロナ専用病院や監視カメラ・ドローンによる外出禁止違反者の徹底チェック等、一党独裁の中国ならではの対応です。

 

今回のような危機的状況になると、政府関係者の中には「中国のように、有無を言わさず果断に物事を進められること」に密かな憧れを頂く人もいるのではないでしょうか。(国民の中にも)

 

実際、タイのプラユット首相やハンガリーのオルバン首相など強権ぶりが指摘されている為政者は、コロナ対策を理由に非常事態を宣言し、メディア統制を含む権限集中を図りました。(それも、オルバン首相などは「無期限」に)

 

思想の左右に関わらず「危機的状況においては、為政者に強権を与えるべき」と考える人は、「人命かプライバシーか」といった二項対立の図式で迫ります。

 

そうされると、普通は誰もが「人命」を選ぶからです。

 

でもこのように二項対立でどちらかを選べと迫ること自体に、この問題の本質があります。

 

そもそも、こんな選択を迫ること自体が間違っているのであって「人命もプライバシーも大切だし、両方ともに守らなければならない」のです。

 

「バカヤロー、何を甘いことを言っているんだ」と言われるかも知れませんね。

でも、本当に両方を追い求めるのは「甘い」のでしょうか。

 

君主論を書いたマキャベリは「抽象的に説明された時に民衆は間違える。具体的に説明したときの民衆の判断は正確である」と言いました。

 

もし、日頃から政府や首長など行政当局が市民から信頼されており、透明性を担保された情報を基に誠実かつ丁寧な説明がなされれば、強制せずとも大半の市民は協力するでしょうし、市民の側からもさまざまな知恵や工夫が生まれるのではないでしょうか。

 

中央集権的な監視や厳しい処罰を伴なう強制が市民に有益な行動を取らせる唯一の手段ではありません。

政府などの行政当局を市民が日頃から信頼していて、現段階で把握できている事実や専門家の見解を丁寧に伝えた上で「だからこうしよう」と伝えれば、徹底した監視体制など築かずとも市民は正しい行動をとるはずですし、さらなる知恵を生む力だって生まれるでしょう。

 

ただし、何度も書いているように、そこには行政当局に対して市民が信頼を寄せているという条件が不可欠です。

こういう危機的状況において、政府が市民の協力を速やかに得るためにも(得るためにこそ)、文書改竄などの行為を見逃すことや木で鼻をくくったような国会答弁を絶対にしてはいけないのです。

 

危機で試されるもの、それは「政府が日頃どのくらい市民から信頼されているのか」でもあると思います。

 

 

今、各国は国境検査を厳格にし、海外からの入国拒否などの対応を取っています。

 

そうした対応も必要だとは思いますが、今なすべきことは国と国の間に境界を設けること以上に、人間とウィルスの間に境界を築くことです。

 

各国が情報を共有し、協力してワクチンや薬を開発し、余裕のある国々から逼迫している国に医療機器を提供することなどが喫緊の課題なのですが、、ワクチン開発を進めているドイツのメーカーに「10億ドル出すから、ワクチンができたら我が国で独占的に販売しろ」と言ったとかでドイツから非難されるような人が為政者だったり、新型ウィルスの可能性を最初に示唆した医師を警察で口止めするような国があったのでは、人類対ウィルスの戦いは厳しくなります。

 

サピエンス全史の著書・ユヴァル・ノア・ハラリ氏は今回のコロナ禍についてこう述べています。

 

「今回の危機の現段階では、決定的な戦いは人類そのものの中で起こる。もしこの感染症の大流行が人間の間の不和と不信を募らせるなら、それはこのウイルスにとって最大の勝利となるだろう。人間どうしが争えば、ウイルスは倍増する。対照的に、もしこの大流行からより緊密な国際協力が生じれば、それは新型コロナウイルスに対する勝利だけではなく、将来現れるあらゆる病原体に対しての勝利ともなることだろう」

 

私もまったく同感です。

 

 

ご存じの方が多いかと思いますが、ドイツのメルケル首相のテレビメッセージが話題になっています。

 

以下はメッセージの一部です。

 

**********

 

医師や看護士をはじめとした医療施設で働いているみなさん全員にお伝えしたいことがあります。

 

みなさんは、私たちのために、この戦いの最前線に立ってくれています。また、病人や症状がどれほど深刻であるかを、真っ先に目の当たりにしています。

 

そして毎日仕事へ向かい、私たちのために尽力してくれています。

 

みなさんの仕事は尊敬に値するものであり、私は心から感謝しています。

 

 

また、普段感謝の言葉をかけられることがないかも知れない人にも感謝の言葉を送らせてください。

 

スーパーマーケットのレジ係や商品棚を補充してくれる方々、彼らは現在、もっとも困難な仕事の一つをになってくれている方々です。

 

仲間である市民のために、日々働いてくれてありがとうございます。そして、私たちの生活を維持してくれてありがとうございます。

 

************

 

このメッセージを聞いて、幼い頃 祖母に言われた言葉を思い出しました。

 

幼い頃、祖母の家に遊びに行って食事をした際に、我々孫たちが茶碗のごはんを数粒残して「ごちそうさま」をすると「お百姓さんが一生懸命作ったお米なのだから、きれいに頂きなさい」と言われました。

 

「『いただきます』をするのは、お米や野菜・お肉を作ってくれる人、それを運んでくれる人、販売してくれる人がいて、こうしてごはんが頂ける、そのことへの感謝なんだよ」とも言っていました。

 

祖父母や両親から似たようなことを言われた記憶をお持ちの方もおられるのではないでしょうか。

 

あたりまえのことですが、私たちの日々の暮らしは、数多くの市井の人々の働きによって支えられています。

 

朝起きて顔を洗うことができるのも、水道から飲み水が出てくるのも、電車やバスで(当たり前のように)目的地に着けるのも・・・誰かが「当たり前」を支えてくれているからこそです。

 

私自身、あたりまえに慣れてしまって、あたりまえを支えてくれている人々への感謝の念を持つことが少なくなっていました。

 

新型コロナは決して良い話題ではありませんが、こういう状況の中でも懸命に仕事をこなしている人々に想いをはせ、感謝をする良い機会にしたいですし、こういう時こそ自分自身も役割を誠実に全うすることに全力を尽くさねばならない、メルケルさんのメッセージを聞いてそんな事を考えました。

 

昨夜のスーパーのレジには長蛇の列ができていましたが、自分の番が終わった時に、レジ係の方に「ありがとう」と言わせて頂きました。

先日出されたコロナ対策専門家会議の提言は、オーバーシュート(爆発的患者急増)の可能性を示しつつも「社会・経済機能への影響を最小限としながら」という表現を織り込んだ内容でした。

これを受けた安倍首相の発言も「大型イベントは主催者が慎重に対処してほしい」と歯切れの悪いものとなりました。

専門家会議に出席していた医師の一人は、厳しい対策を講じることについては経済的観点から反対意見も多かったことを認めた上で「今はかろうじて持ちこたえているが、一つ間違えば取返しのつかない事態を招く可能性がありますから(本当は厳しい措置を取るべき)」と発言していました。

経済専門ニュースサイトなどを見ていると 「ワクチンや薬が存在するインフルエンザと比べても死者が少ない」 とか 「経済破綻で自殺する人が出る可能性も考えないと」 などの意見が少しずつ増えているように見受けられます。

世の中が、そういう空気になりつつあるということかも知れませんね。

山本七平さんの著書「空気の研究」で人口に膾炙したように、日本では「空気」が意思決定に大きな影響を与えます。「あの場の空気ではYESと言わざるを得なかった・・・」などというやつですね。

専門家会議の提言や安倍首相の歯切れの悪い発言も、世の中の「空気」を反映してのことでしょうし、埼玉スーパーアリーナでK1が強行開催されて9000人もの人々が集まったのも「経済活動も大事」という世間の空気を(多少は)追い風に感じていたのではないでしょうか。


経済ニュースサイトでの発言が示すように、リスクを過大評価することで失うものは間違いなくあります。

コロナで亡くなる方が増える可能性がある一方で、経済破綻で立ち行かなくなる人が出ることもある訳で、誰もが納得する正解はないと言ってもいいでしょう。

ただ、歴史が教えるのは、リスクを過大評価したことで失うものと、リスクを過小評価したことで失うものとでは「ケタが違う」ということです。

後者によって被る損害は、時に壊滅的になる・・・

今から9年前、私たちは、福島第一原発の事故でそれを思い知ったのではなかったでしょうか。

サッカー・イングランドプレミアリーグの名門・リバプールのユルゲン・クロップ監督が、試合後の記者会見で新型コロナウィルスへの見解を聞かれてこう答えています。

「深刻な事態であることは間違いないが、それに対する見解をサッカー監督に聞くのは間違っているし全く理解できない。君も私もウィルスの専門家ではないし、この件に関しては等しく素人であり同じ立場だ。著名人のコメントだからと言って尊重する必要はない。君の仕事は正しい情報を伝えることであり、こんな質問をするよりもっと良い仕事ができるだろう」

 

見事ですね。

 

この発言を取り上げて、コラムニストの小田島隆さんは「クロップの発言は本当に見事。日本では、タレントに政治経済外交防衛をいじらせてテレビ番組を進行させる手法がはびこっている。実際、新型コロナウィルス関連でもお笑いタレントの意見が最も大きな影響力を持っていたりする。 笑いごとではない」とコメントしています。

得意になってコメントしているタレントたちには、クロップ監督の爪の垢でも煎じて飲んでほしい、といったところでしょうか。

 

私たちは、特定分野で成功した人を過剰評価してしまいがちです。

 

「一代で大きな企業を育てあげた人」に対しては特にそういう傾向があって、他の分野でも抜群の能力を発揮できる人のように扱ってしまう、そんな傾向があります。

 

かつて、一代で大きな居酒屋チェーンを築き上げた経営者が学校経営に進出したところ、政府の教育再生会議委員や大阪府・神奈川県の顧問を歴任した後、自民党の参議院議員になったことがありました。

政府や自治体から「事業を成功させたのだから教育でも政治でも成果を挙げ得る人だ」として迎え入れられたわけですが、この人は、経営していた会社の社員向け理念集に「24時間365日死ぬまで働け」と明記し、同じく経営していた学校では、教師の髪型が気に入らないと言ってハサミで自ら切り落とすなどの行為を起こしていました。

 

 

資本主義社会において極めて危険なことの一つは、「儲ける能力」が他の能力に比べて圧倒的に高く評価されてしまうことです。

 

お金を稼ぐ能力に秀でた人が優れた人物であるとされ、他の分野にも秀でているかのようにメディア等で扱われる。

メディアだけならまだしも、公的機関などからもちやほやされてしまい、さらには人格まで高潔であるかのように言われて神格化されることさえあります。

 

「企業は経営者の器以上には大きくならない」という言葉があります。

 

それはその通りなのですが、器という言葉が「全人格」を表すようになってしまっているのではないでしょうか。 

あくまでも企業という「組織を創る能力」や「お金を稼ぐ能力」に長けているのであって、イコール全人格的に優れているわけではないのです。

 

それなのに、周囲は成功した企業経営者をもてはやし、当の経営者自身も「自分は偉い」と勘違いして、社員や周囲に対して人生訓まで垂れる・・・

「なんだかなあ」と思うのは私だけでしょうか。

 

子供の頃に呼んだ伝記では、野口英雄やアインシュタインは、その業績だけでなく人格も素晴らしかったかのように書かれていましたが、実際の野口は金銭感覚にだらしなく、周囲の人に迷惑をかけまくったことが知られていますし、アインシュタインは二度の結婚でいずれも妻に暴力(今で言うDV)をふるっていたと伝えられています。

 

もちろん、だからと言って彼らの業績そのものが否定される訳ではありませんし、そもそも特定分野に秀でているからと言って全人格的に優れているかのように扱う周囲が間違っているのです。

 

「偉人」と言われる人々の「業績以外の部分」は、実は意外とひどいことが多いのですが、人間の能力の総和には一定の限界があり、他を犠牲にするからこそ、特定分野に突き抜けることができるという面もあるのではないでしょうか。

 

特定分野に突き抜けられたことが凄いし評価されるべき、なのです。

 

お金を稼ぐ能力に秀でている人に対しても、そこだけを評価すればいいのであって、他の分野にも優れているかどうかは全く関係ありませんし、人格云々も別物です。

 

この国では、日常会話の中で第三者を取り上げる際に「あの人は大きな家に住んでいる」とか「高級車に乗っている」「年に何度も海外旅行に行く」「凄い報酬をもらっている」等々、しばしばその人の経済状況にばかり注目する人がいます。(それもかなり高い確率で)

 

人を表現するに際して「お金の多寡で評価する」ことが主流になったのはいつからなのでしょうか。

 

こうした風潮の延長が、事業に成功した人を過剰評価することにつながり、ひいてはメディアや公的機関までもが過度に持ち上げる、そんな状況へつながっていくのではないでしょうか。

 

「お金を稼ぐ能力」も人間が持つ多様な能力の一つ(ワンオブゼム)ですし、「サッカーチームを指揮する能力」も「人々を笑わせる能力」も然りです。

 

サッカー監督がウィルスの専門家ではないように、優れた企業家が同時に優れた教育家たり得るか・優れた人格者であるかは全く別次元の話です。

 

特定分野での成功者を過剰に評価することには、もっと慎重であらねばならないと思います。

 

人が持つ素晴らしい能力は 「そこだけを評価すればいい」 のです。

 

そして、組織を創ること・お金を稼ぐことに成功した当の人物も、だからと言って自分が決して 「偉い訳ではない」 ことについても、もっと自覚的かつ謙虚であるべきですね。

 

明治大正時代の政治家・後藤新平の言葉と言われる「金を残すは下、事業を残すは中、人を残すは上」

 

2月に亡くなった野村克也さんがよく口にされていたことで有名になりましたね。

 

現役時代の野村さんは「王や長嶋がヒマワリだとすれば、俺はひっそりと咲く月見草」と言っていたそうですが、野村さんの薫陶を受けた野球人の多さを考えれば、野村さんが野球界に残した足跡は「上」だったと言えるのではないでしょうか。

 

3月に亡くなったジャック・ウェルチ氏も「人を残す」ことを重視する発言をしていました。

 

GEの経営者として、在任中に同社の株価を30倍にするなど20世紀を代表する名経営者と言われ、ソニーのトップだった出井伸之氏や東芝トップから東京証券取引所を経て日本郵政のトップにもなった西室泰三氏などは事あるごとにウェルチ氏を引き合いに出していました。

 

そのウェルチ氏は、在任中から「後継者を育てることが最大で最重要の仕事」と公言しており、退任後も「みんなは自分を名経営者だったと言ってくれるが、真の評価は10年以上経たないと分からない」と言って、後継に指名したイメルト氏が素晴らしい業績を挙げるかどうかが(後継者選びが大切と言ってきた)自分の真価を問うことになるとの考えを披歴していました。

 

そのイメルト氏・・・就任後数年間は素晴らしい業績を挙げましたが、その後は落ち目になったと言ってもよく、就任直後の2001年から退任する2017年までにGEの株価は(アメリカの平均株価が軒並み上昇する中で)40%近く下がっています。

 

イメルト氏を指名したウェルチ氏自身も、自身の離婚騒動の中で、超高級コンドミニアムの維持費や自家用ジェット機などの支払いをGEが生涯に渡って面倒を見る契約だったことが露見するなど、晩年は光と影の「影」に注目されることが多かったのは残念でした。

 

ウェルチ氏は「後継者を育てることが最も大切な仕事」だと言っていましたが、いかなる名経営者と言えども後継者を育てることは簡単ではありません。

 

日本を代表する経営者と言われるユニクロの柳井さんや日本電産の永守さんも、後継者の育成には苦労されていますし、ソフトバンクの孫さんもそのように見受けられます。

 

そもそも、ご本人が凄いカリスマであればあるほど、「自分の後継者となり得る人物」がおいそれとは見つかるはずがありませんし、仮にそれほどの人物がいたとしたら、とっくに一国一城の主としてバリバリやっているようにも思います。

 

かつてお世話になった会社の創業経営者は「社長と副社長の差は、副社長と新入社員の差よりも大きいんだよ」と言われていました。

 

アメリカでも最近の日本でも、経営トップが内部昇格ではなく、他社でトップ経験のある人をスカウトすることが多いのは、こうした事情があるのかも知れません。

 

ただ、外部から後継者や後継者候補を引っ張ってくることは「人を残した」ことになるのでしょうか。

 

私は「人を残す」ことを「後継者を育成して残す」と捉えない方がいいのではないかと考えています。

 

私が存じ上げる中で「人を残した経営者」だと確信を持って言えるのは、リクルートの創業者・江副浩正氏です。

 

ベンチャーなどという言葉すらなかった1960年頃、東大在学中に起業し、一代で5000億円の企業に育て上げましたが、リクルート事件の勃発によって、保有していた株を全て売却して経営の一線から完全に退きました。

 

江副さん自身は「自分が完全にいなくなるとリクルートはダメになるのではないか」と思っていたようですが、実際にはそんな事態にはならず、リクルートはその後も国内外で大いなる発展を続けて、今や時価総額6兆円を超える企業となり、今なお成長を続けています。

 

江副さんの後に社長となったのは4人ですが、いずれの方も世間的にはそれほど有名ではありません。

 

世間的には無名の経営者に率いられたリクルートが、圧倒的に知名度のある経営者を戴く会社と十分以上に伍して成長してきたのは、トップだけでなくの社員一人一人が自立的に力を発揮する風土があったからです。

 

この風土はリクルート創業以来、脈々と築かれ、会社のDNAとして引き継がれています。

 

リクルートからは数多くの起業家が誕生しましたし、何よりもリクルート自身が(江副さんが去った後も)抜群と言ってもよいほどの成長を続けてきました。

 

江副さんの最大の功績は、ゼロから大企業を創り育てたこと以上に「創業トップが突然いなくなっても、社員一人一人が自立的な力を発揮して成長し続けられる組織風土を創りあげていたこと」だと思うのです。

 

野村克也さんは自らの後継者をつくったというよりも、多くの優れた野球人を育てました。

 

江副さんもまた、江副浩正の後継者をつくったのではなく、自由闊達で自らの能力を最大限に発揮できるビジネスパーソンの集団を創りあげていたのです。

 

本当に「人を残す」というのは、こういうことではないでしょうか。

先日、居酒屋で隣のテーブルにいたビジネスマン達が「〇〇さんは本当にたくさんのことを知っている。すごく教養があるってことだよね」という会話をしていたので「うーん、それはちょっと違うのでは・・・」と思ってしまいました。

 

教養が、情報量や知識量の多さのことだとするならば、ものすごい情報量を持つコンピュータが「教養がある」と言われてもいいはずですが、誰もそんなことは言いません。

 

コンピュータやITの歴史に詳しい方ならば、アラン・ケイの名前をご存じかと思います。

 

数学や分子生物学を修めた後にM I TやU C L Aで教鞭を取り、京都大学で客員教授として教えたこともあります。

 

彼は、コンピュータが全く一般的ではなかった1960年代に「パーソナルコンピュータ」の概念を提唱したことで知られ、本のようなデバイス・Dynabook(1980年代に東芝が販売していたパソコン=Dynabookはここから名前を借りています)を構想する一方、ワークステーションという定義を創って開発を主導するなど、ジョブスやゲイツが世に出る以前からIT分野で先進的な活動をしてきた人物で、「パソコンの父」とも呼ばれています。

 

そのアラン・ケイが以前こんな事を述べていました。

 

「アメリカの学校では、ネットで検索した情報を集めれば、それで勉強をしたと思っている生徒や学生が多くなっている。『 学ぶ 』ということは情報を増やすことではない。知識や情報を得た後に、それについて自分の意見を論理的に発信することができるまで思考を体系化できなければ本当に学んだことにはならないのだ」

 

日本に限らず世界中の大学で、専門課程に進む前に教養課程を設けているのはなぜか。

それは、リベラルアーツの分厚い知識がいわば培養土となって、専門的な勉強をする際に「活かされる」という思想があるからです。

 

単に数多くの知識を詰め込むだけでは意味がない。

豊富な知識や情報が、思索というプロセスを通して専門的学問や新たな分野への導きとなって初めて、獲得してきた知識や情報は「教養」と呼ばれる資格ができるのです。

 

コンピュータに何かを調べさせようとすれば、必ず入力が必要となりますが、人間は特定のものを調べようとしていないにも関わらず、何かを見たり聞いたりした時に、突如として「はっ」と思わぬアイデアに気づくことがあります。

 

リンゴが落下するのを見て万有引力に気づいたとされるニュートンや、風呂の水があふれた時に浮力に関する物理法則を発見したアルキメデス。

これらは後世の作り話とも言われますが、実際そのような瞬間に出会うことはありますし、人は「ほとんどの人にとっては意味のない入力条件からでも素晴らしい結果を出力することができる」のであり、それこそが人間の知性の特徴なのだと思います。

 

知性の真髄は、既知の情報とたった今獲得した情報に橋をかけて全く新しい物語を創り出すことができる点にあるのです。

それを「未知へフライングできる能力」と言った哲学者がいますが、納得できる言葉ですね。

 

リベラルアーツは培養土のようなものと述べましたが、未知へフライングできるためには、単に情報や知識という肥料を入れて培養土を作ればいいのではなく、肥料を入れた後に草を取り除き、水をやって自ら土地を耕作することによって豊潤な作物が生まれるように「知識や情報を得た後に、それについて自分の意見を論理的に発信することができるまで思考を体系化する(アラン・ケイ)」ことで真の学びへとつながり、教養化されるのです。

 

ドイツ語で教養や陶冶を指す言葉に"Bildung"があります。

これは英語の"building"に近い言葉で「造り上げる」というニュアンスですが、教養とはまさに「自分を造り上げる」ことによって形成されるのです。

 

経営もまた然り。

同じ物事を見ていても、そこから何かに気づける人とそうでない人がいます。

 

「はっ」と何かに気づく瞬間に出会うためには、知識や経験をしっかりと取り入れながら常に思索を重ね、「自分自身を陶冶し、造りあげていく」作業が必要であり、それでこそ「未知へのフライング」ができるのだろうと思います。

 

2019年3月に引退したイチロー選手は、26年に及ぶプロ生活で数々の偉大な記録を打ち立ててきましたが、記録について周囲から騒がれることを、それほど歓迎しているように見えないことが多かったですよね。

 

それを「ポーズだ」とした記事もありましたが、私は、決してポーズなどではなく、イチローという人は「自分のパフォーマンスは、数字『だけ』で全て語り尽くせるものではない」と考えていたのだろうと思っています。

 

野球選手は査定されるわけですし、野手なら3割打つこと・投手なら15勝以上することが高く評価されることは当然でしょう。

ただ、本当に優れたプレーヤーというのは、評価されるべき数字は達成した上で、記録を超えたところ・数字では表せないところにある「何か」を追求する姿勢を持っているもので、プロとしての真の素晴らしさはそこにこそあるのではないでしょうか。

 

選手生活最後の数年間で、イチロー選手は修行僧のような顔つきになりました。

おそらく彼は、自分の潜在能力を最大限に引き出し、より優れたパフォーマンスを発揮するにはどうすればいいのか、プレーの一つ一つを徹底的に考え抜きながら練習し、プレーしていたのではないかと思います。

 

他者による数字の評価を「超えて」、自らの能力を最大限に発揮することに日々腐心してきた結果が修行僧のような顔を作り上げたのではないか。 私にはそう見えました。

 

ドラッカーは「社会的な事象のなかで真に意味のあるものは定量化・数字化になじまない」と語っています。

 

インターネットやスマホの普及率を数字で表すことはできますが、インターネットの登場によって生じた社会現象の大きな変化を全て数字で表すことは不可能です。

 

もちろん、スポーツもビジネスも数字で語ることを避けて通る訳にはいきませんし、仮にイチロー選手の打率が2割そこそこだったとしたらレギュラーになれない訳ですが、そもそも彼があれほどの(数字の上でも凄い)成績を挙げ続けられたのは、数字を追う以上に「昨日の自分を超える」ことを目標とし続けてきたからではないかと思うのです。

 

アメリカで行われた行動経済学の実験にこういう事例があります。

 

高校生にテストを実施する際に、Aグループに対しては「(従来通り)偏差値で評価する」と伝え、Bグループには「あなた自身の成績の上昇度合いで評価する」と伝えたのです。

 

AB両グループはランダムに構成されており、成績分布も同程度でした。

 

テストを何度か繰り返すうちに、当初は両グループの平均成績に顕著な差はありませんでしたが、半年を過ぎたあたりから明らかにBチームの方が大きく成績が伸び、その後は差が開く一方となったのです。

 

「他者との比較」は自分でコントロールしようと思ってもできません。

いくら自分が頑張っても、周囲にもっと頑張られてしまえば、偏差値で評価されている場合は自らの努力が結果に表れないこともあり得るのです。

 

しかし、昨日の自分との比較は他者に影響されないので、自らの成長を実感することで結果として自分自身のモチベーションを高く保つことができ、長期になればなるほど継続的に成績を伸ばしていく結果につながるのです。

 

ドラッカーはこうも言っています。

「企業は、より大きくなる必要はないが、常により良くならなければならない」

 

業界シェアや売上高を競うことも企業として避けては通れないかも知れませんが、他者・他社との比較や数字への執着が時に不毛な競争となって不正につながった事例が、ビジネスの世界では少なからずありました。

 

しかし、常により良くなる=昨日の自分・自社との比較は、もっと本質的で内在的なものとして存在し得ます。

ドラッカーが行動経済学の知見を知っていたかどうかは分かりませんが、豊富な経験を持つ経営学の泰斗は、昨日の自分との比較こそが高いモチベーションを維持し、優れた仕事につながることを経験的に知っていたのでしょう。

 

もちろん、企業である以上は文句のない利益を出した上で「社会に対して、さらに優れたブレークスルーを提供するにはどうすればいいか」等、数字を超えた課題を設定し、常に昨日の自分・昨日の自社よりも「より良くなる」にはどうすればいいかを徹底的に考え試行錯誤する・・・企業経営の本当の醍醐味はそこにこそあるのではないかと思います。

 

売上や利益は目標ではなく、それを測る指標の一つなのです。

ダチョウは英語で「ostrich」と言いますが、ostrichには「現実逃避者・事なかれ主義者」という意味もあります。

 

「ダチョウは、危険な目に遭遇すると頭だけを地面に突っ込んで隠れたつもりになる」という説が由来ですが、動物行動学ではそのような習性があることは観察されておらず、実際は都市伝説の類のようですが、アメリカ映画には「ダチョウのように現実逃避するな」といったセリフが時々出てきます。

 

事実はともかく「リスクに正面から向き合わず見ないフリをする」という意味で使用されるostrichという言葉は、今の日本にぴたりとあてはまるような気がします。

 

世界最速で少子高齢化が進んでいる事実が明らかなのに抜本的な対策が講じられているようには思えませんし、報道で見る限りでは、赤字国債の増大や社会保障改革などにおける対策でも「経済成長率が**%であり続ければ大丈夫」といった「本当に大丈夫?」と心配になるほどの楽観論に基づいた政策が取り続けられています。

 

日本が誇る(誇っていた)科学技術の世界も同様です。

その国の学術レベルを測る指標の一つである科学技術論文数で、10年ほど前までの日本はアメリカに次いで世界第2位でしたが、昨年は6位に後退しています。

しかも順位以上に深刻なのは、上位20か国のうちで論文の絶対数が減少しているのは日本だけという深刻な事実で、国立大学の理学部で教授をしている知人によると「研究環境は年々厳しくなる一方で、優秀な若手が基礎研究の道に入ろうとしない」のだそうです。

 

10mを超える津波が到来したことが古文書にも残っていたのに、その事実を無視して「大きな津波は想定外」としたことで壊滅的なダメージを被った福島第一原発でも露呈したように「リスクを過小評価し、最悪の事態に備えることをしない」のは、今や日本社会の大きな欠点の一つではないでしょうか。

 

第二次大戦前の日本もそうでしたね。

 

当時、自国より圧倒的に強大なアメリカの国力や軍事力を正確に把握している軍人や政治家は数多くいましたが、帝国陸海軍の指導者達は「立案しているすべての作戦が成功した場合には皇軍大勝利」という作戦にこだわり、「自軍の作戦にミスが出た場合や敵が自軍を上回る優れた作戦で対抗してきた場合にはどうやって被害を最小限にするか」といったシミュレーションを忌み嫌いました。

 

「もし敗けたら」という仮定での対策を出そうものなら敗北主義のレッテルを貼られて「敗けると思うから敗ける」と罵られ、「最悪の事態にも備えておくべきでは」という提案には「最悪のことを考えるから最悪の事態が来るのだ」と一蹴されました。

 

その結果、我が国は300万人もの死者を出す大敗を喫し、多くの領土を失い、今なお近隣諸国から戦争責任を追及されるような状況になってしまいました。

 

「ハイリスク」を想定したが未来予測が外れたせいで失うものと、「ローリスク」を想定した未来予測が外れたせいで失うものは「桁が違う」のです。

 

そもそも日本がostrich状態になるのは、下り坂になった時ではないかと思われます。

 

明治期の日本や戦後の日本は、世界と比べた我が身を比較的冷静に分析して、その結果として謙虚でもあったようです。

 

日清・日露に至る「坂の上の雲」をめざしていた当時の指導者や戦後の復興期に諸外国から積極的に学ぼうとした経営者は実に謙虚で彼我を冷静に見きわめていました。

 

しかし、中国との戦争が泥沼化した上にABCD包囲網を敷かれて身動きが取れなくなってからは、軍部や政治家などがostrich化していったように思われますし、世界2位の経済大国の座を明け渡し、人口が想定以上に減り続けている現在の日本もまた、政治家を筆頭に私たち日本人の多くがostrich状態になっているのではないでしょうか。

 

歴史が教えるのは、下り坂の時こそ、それまで以上に冷静かつ謙虚に状況を見きわめることであって、決して楽観的な予想を立てることではないはずです。

 

私が敬愛する先輩経営者から「大地震が来ても自分の責任だと思わなければいけない」と諭されたことがあります。

 

例え、数十年に一度の災厄であっても、可能性がゼロではない以上、それがいつ起きても最低限の被害で済むような備えをしておくことが、社員や取引先を預かる経営者の責任だと言っておられるのです。

 

ましてや、人口動態や経済指標のように「厳しくなることが明確な数字」があるのであれば、なおさらのこと「もっと厳しくなっても何とかなる」態勢を作っておく必要があります。

 

世の中の多くの経営者は、好業績の時は自らの力量を誇りますが、業績が悪くなると不況や災害など外部環境を理由にし「予測不能だった」という人が圧倒的に多い。

 

しかしながら、件の経営者は「例え0.001パーセントであっても可能性がある以上、もしもそれが到来した時に備えていなかったとすれば経営者としての自らの失態である」という思想を持っておられる訳で、まさにその通りだと思います。

 

少子高齢化に伴う人口減少はイコール経済規模の縮小につながる可能性が大ですし、日本の財政状況の逼迫も身近に迫った問題です。

かなりの高確率で起きると言われる南海大地震など災害への備えもありますし、今回のコロナウィルスではグローバル化もまたリスク要因となり得ることを教えられました。

 

想定すべきリスク要因は多種多少で複雑でもありますが、それでも考え得るリスクについては冷静かつ謙虚に分析して対応策を考えておくことが経営者に求められる訳ですし、そういう責任を負っているからこその経営者であり、決してostrichになどなっていてはいけないのです。

 

「明日、大地震などの大災害や大不況が来ても社員や取引先を守れるか」という問いに「備えはあります」と確信を持って答えられるように、私もしっかりと研究し、準備していきます。

誰もが「やりがいのある仕事をしたい」と言います。

 

やりがいを求めて転職を繰り返す人もいます。


そもそも「やりがいのある仕事」とはどういう仕事なのでしょうか。

 

「やりがいのある仕事」について、実は誰もが同じ意味で語っている訳ではないのに、その違いに注意が払われることなく、あたかも共通理解がなされているかのようにメディアや会話で安易に使われている、私にはそう思われます。

 

ある人にとって「やりがいのある仕事」というのは「どこかで誰かの役に立っている仕事」のことを意味しています。 

自分の仕事に対して「価値を認めてくれる人」がいて、その笑顔や感謝を想像することが仕事をするモチベーションにつながる。それが「やりがい」という言葉の意味だと考える人です。


一方で、自分の努力が高い利得をもたらし「自分自身」が大きく享受できる仕事のことを「やりがいのある仕事」と捉える人もいます。


「最大の受益者が自分自身」であるような仕事を「やりがいのある仕事」と呼ぶ仕事観が生まれたことについて「それは『受験勉強』の経験が涵養したものではないか」と述べた方がいました。


受験勉強は基本的に個人戦です。そこでは努力と成果の間に「正の相関」があり、個人的努力の成果は基本的に本人が100%占有します。

自分が一生懸命勉強をして入試で合格ラインをはるかに超える高得点を取ったので、あまり勉強していなかった隣席のタナカくんも「余沢」に浴していっしょに合格できた、というようなことは受験勉強の場面では絶対に起こり得ません。


けれども、仕事の場面においては、そうではありません。

 

むしろ、仕事をする集団においては、自分の努力の帰結を全て自分が享受することができないことの方が多いのです。

 

百歩譲って、(受験のように)個人の成果が100%当人に還元されるような報酬体系を持つ会社があったとすれば、その会社は早晩潰れてしまうでしょう。

個人の成果を100%当人に戻すとういうことは、例えばまだ何の成果もあげていない若いメンバーを「将来の発展を見越して」抱えることができませんし、原理的には将来に向けた投資やリスクに備えることができないからです。

 

受験勉強的「個人成果主義」になじんだ人は、自分の努力が全て自分のものとしてカウントされず、集団で(それも大した働きをしていない人間も含めて)分配しなければならないという「不条理」が理解できない。

 

個人的な努力の帰結が全て自分に返ってくるような「やりがい」を求める人たちの多くは個人的努力の成果を誰ともシェアせず独占したいと考えます。

 

けれども、人間はいい時ばかりではありません。

 

どれほど賢くて仕事のできる人間も失敗することがありますし、天災や政変・疫病のようなリスクの全てを個人で回避することはできません。

 

仕事のほとんどは、集団で行われることでリスクや将来に備えることができ、結果としてより高みをめざすことができる、それが会社という仕組みが生まれた所以です。

多くの仕事は集団の営為であり、利益は仲間の間で分配され、損失もヘッジされる。

仕事は集団で行われることで効率を高め、リスクを分散することができる、そういうメカニズムなのです。

 

他者の幸福に自らの「やりがい」を感じることのできる人こそが、他者からも暖かく受け入れられ、長期的にはより高みに到達できるし、幸福な仕事人生を送ることができるのではないでしょうか。

 

アフリカにこんなことわざがあります。

「急ぎたければ一人で行くがいい。 より遠くまで行きたければ皆で行きなさい」

テレワークという言葉を耳にする機会が増えました。

 

勤務先の会社で在宅ワークを許されているという知人から「在宅ワーク用の勤怠管理クラウドを使うように指示されている」という話を伺いました。

 

その人の場合は、1時間おきにパソコンから「ちゃんと仕事してますよ」というチェックを入れるだけでいい仕組みなので「仮にさぼっていても、定期的にチェック入れさえすればいいのだから意味ないよね」と笑っておられましたが、パソコンで実際に何をやっているかを上司が随時モニタリングできる在宅管理クラウドもあるそうです。

 

そんなクラウドサービスが存在するからには利用している会社が存在するのでしょうが、そこまで心配なら、通勤ストレスを緩和するためにフレックス制にして会社に来てもらった方がいいのでは?と考えてしまいますね。

 

哲学者ベンサムが考案したパノプティコンという刑務所監視システムがあります。

円形に配置された全ての収容房が、中心にある看守塔から見えるけれど、収容房からは看守塔にいる看守が見えない仕掛けになっており、囚人は絶えず監視され続けているという意識を持ち続けることになります。 

随時モニタリングできる在宅管理クラウドの話を聞いて、パノプティコンを思い出しました。

 

人の悩みの99%は人間関係だと言います。

在宅勤務のメリットは、通勤ストレスの緩和などと同時に、人間関係に煩わされることなく自分のペースで集中して仕事をしてもらうことにもあると思いますが、勤怠管理クラウドの導入は「あなたを全面的に信頼する訳ではない」と言っているのと同じで、ITを通して職場ヒエラルキーが生々しく持ち込まれているような気がします。

 

そもそも在宅勤務を許可することは、その前提として相手に「任せたよ」と信頼を与えることが必要なのではないでしょうか。

 

もちろん人間には100%善人もいなければ、100%悪人もいませんから、任せ方についてはしっかりと検討する必要があることは認めます。

 

「任せて任さず、がマネジメントの要諦だ」と述べたのは松下幸之助で、京セラ創業者の稲森和夫氏は「任せきりは良くない。社員が不正を働けない(物理的な)仕組みを作ってあげることも大切」と言っておられ、いずれももっともな意見だと思います。

 

在宅勤務クラウドでの「管理」も、おそらくは「任せて任さず」の一環なのだろうと思いますが、在宅勤務を認めていながら勤務状況を逐一チェックするような仕組みは、勤務している当人のモチベーション向上につながるようには思えず、「任せて任さず」の前段すら「任せない」になっているような気がします。

 

そもそも人間には「任せるから好きにやっていいよ」と言われると「意気に感じてガンガンやる」オーバーアチーブタイプと「果てしなく手を抜いてしまう」アンダーアチーブタイプに二分されます。

 

そして、前者だけを選択的に創り出すことはまず不可能です。

 

本当に優れた組織というのは「任せるから好きにやっていいよ」と言われたのでガンガン働いた人たちのもたらす利益が「手を抜いた」人たちのもたらす損失を大きく超える組織のことだと思います。

 

冒頭で挙げたような管理システムを導入することは、「放っておくと手を抜くことが多いだろう」という仮説に基づいている訳で、確かにアンダーアチーブタイプの人への牽制にはなると思いますが、それは同時にーバーアチーブする人の気持ちをも後退させてしまいます。

 

手を抜く人間の摘発と処罰に熱心な組織は、必然的に規則や罰則が増えることになり、結果的にオーバーアチーブする人間をも排除してしまうのではないでしょうか

 

企業ならば経済合理性に基づいて対応策の是非を考える態度が必要です。

 

どうすればオーバーアチーブタイプの人たちがもたらす利益が、そうでない人たちの利益を大きく上回る組織にできるのか。

それを考えるのがトップの大きな役割の一つだろうと思います。

 

企業理念が共有されていることは何よりも大切だと思いますし、人材採用においても目利きが求められます。

利権に絡むセクションは不定期に異動する仕組みにする制度等々、企業によって方法はさまざまだと思いますが、そこを徹底的に考えて実行し、修正を加えながら整備していく・・・

 

「任せ方」にこそトップの見識と覚悟が如実に表れるのだろうと思うのです。