岐阜県にある未来工業の創業者、山田昭男氏(故人)は私が尊敬する経営者の一人です。

 

50年以上に渡って増収増益を続けると同時に、従業員800人の会社ながら特許庁への特許&意匠登録件数は、並みいる大手企業を押しのけて全国20位以内という優良企業です。

 

超ホワイト企業としても有名で、年間休日140日プラス有休40日完全取得を義務づけており、他にも「成果主義とノルマ禁止」「残業禁止」「報連相禁止」などユニークな経営方針を採用しています。

 

山田氏ご自身はユニークと言われるのが心外だったようで「頭を使えとはうるさく言うが、成果主義やノルマは不要だ。そんな重荷を社員に課すと無理してしまい、かえって仕事の質が下がったり、不正に走ったりする。ノルマを課さず、人の管理もしていないが、そのほうが自由なので社員は喜ぶ。喜んでやる気が出るから、自分自身で目標をつくって積極的に仕事をしている。人間というのはそういうものじゃないかな。成果主義やノルマを課している企業の8割が赤字なのだから、そういうやり方はおかしいと考える方がまともだろう。うちは当たり前のことを当たり前に考えてやっているだけなんだ」と言われていました。

 

言われてみれば納得できますし、実は山田氏の手法の正しさは科学的にも裏付けられています。

 

例えば「自分自身で目標をつくること」について。

ハーバード大学やプリンストン大学で実施された、こんな実験があります。

 

高校生たちを2つのグループに無作為に分けて、一方は従来通りテストの成績順位で評価し(A)、もう一方は、本人の理解力や知識獲得量の上昇具合に応じて評価を下します(B)。

 

短期的にはAグループの成績が良いこともありますが、1年も経たないうちにBグループの方が理解力や知識量が大きく伸び、自ら新しい目標設定をして取り組む生徒がAグループの5倍以上になったのです。

 

そもそも他者との比較は自分でコントロールしようと思ってもできません。どんなに自分が頑張っても他者がそれ以上のパフォーマンスを示せば評価されないとなるとモチベーションを維持するのが難しくなります。

一方で過去の自分を上回ることは、自らの意志でどうにかできる可能性が高いうえに他者のパフォーマンスに影響されることもない。

それがモチベーションを継続的に高めることにつながるのです。

 

未来工業でも「売上や利益を上げろ」とは言わないそうですが「知恵を出せ」「以前のやり方より改善しろ(過去の自分を上回れ)」とは言い続けているそうです。

 

休みが多いのも「思い切り頭を使うには、休むことも大切だから」なのです。

 

以前の自分よりどれだけ知恵を絞れるようになったか、従来の自分のやり方にどれほど工夫をこらしてパフォーマンスを上げることができたか、で評価してあげることが本人のモチベーションアップにつながり、結果的に企業としても継続的に向上することへとつながっているのです。

 

他者と比較するのではなく、当人比で評価してあげることの重要性。

考えさせられますね。

少し前のこと、東京五輪組織委員会の会長が「女性がたくさん入っている会議は時間がかかる」「当委員会の女性はわきまえておられるが」と発言して辞任を余儀なくされました。

 

この発言、後段は確かに問題ですが、前段は必ずしも間違っていません。

 

男女の脳には明らかな違いがあります。

脳の中央には左脳と右脳をつなぐ神経線維の束である脳梁という器官があり、感じる領域と考える領域をつなぐ働きをしています。

一般的に女性の脳梁は男性よりも20%ほど太く、「感覚」と「情報」をセットで処理する能力が男性よりも圧倒的に高いのです。

 

他の動物に比べて多産ではない上に赤ちゃんが一人歩きできるまでの期間が長く、人類史の大半において乳幼児死亡率が高かった人間は、目の前の事象をつぶさに観察して、気温のかすかな違いや食べ物が腐り始めたわずかな色の変化も見逃さない、子育てに必要なそういう感性を母親として磨いてきたからだとされています。

 

男は、情報を知識で「論理的に」記憶しようとしますが、女性はその時の感覚がよみがえれば情報を呼び覚ますことができるのです。

 

奥さんに何かしでかして「あなたって、あの時もこうだったよね」と20年以上昔の話を持ち出されて驚いた、という男性が少なからずいるのも、当時と同じような状況になったことで過去の記憶をまざまざと呼び覚ました女性脳の餌食になったという訳です。

 

女性は勘が鋭い、と言われるのも、理屈を超えたところで「何となく」感じられる微細な変化を、女性は敏感に感じ取ることができるからです。

 

「うまく説明できないけれど、何となくこのプロジェクトはダメな気がします」と発言する女性がいたら、男性は「きちんと説明できないのなら言うな」とNGを出してしまいがちですが、それはちょっと待った方がいい。

実は以前に失敗したプロジェクトを、当の女性が横で見ていた時の感覚を思い出した可能性があるからです。

 

新商品開発をする際などに、その商品を使う未来のユーザーの気持ちをありありと思い浮かべることができるのも、感覚の鋭い女性の得意とするところです。

 

女性は「そう言えばあの時はああだったよねえ」「そうそう、あの時はそうで、しかもその後こうなったじゃない」などと言い合うことが多く、男にとっては「本題と関係ない無駄話」に思えるかも知れませんが、実は「ああでもない。こうでもない」と話すことで過去さまざまな感覚記憶を呼び戻している可能性が高く(もちろん単なるおしゃべりということも全くない訳ではありませんので、その時はあきらめましょう)、そこから出てくるのは、男が知識やデータを基に論理的にひねり出したものよりも、はるかに本質を突いた貴重なひらめきやアイデアだったりするのです。

 

女性が多い会議は、感覚を呼び戻すための助走時間が必要なので、確かに話が長くなる可能性があるのですが、だからこそ男には思いもつかないアイデアや気づきが出てくる可能性があると言っていいでしょう。

 

冒頭で挙げた五輪組織委員会の事例で「女性の話が長いのはその通り」と書いたのはそれゆえで、女性から素晴らしい意見やアイデアを引き出すためにはむしろ必要なことなのです。

 

だからこそ「当委員会の女性たちはわきまえておられるが」と言う発言は「女性をわきまえさせる」ような雰囲気を男性達が作っていたという証拠であって、貴重な意見やアイデアを封じ込めていた可能性が高く、女性の力を活かそうとしない組織だったという訳です。

 

男女の脳構造は明らかに違っており、違っているがゆえに別の視点から物事を見られる訳ですから、両方の特性をうまく生かすことが本当の意味でのダイバーシティにつながるのではないでしょうか。

 

ビジネスシーンにおける男性諸氏は、女性のおしゃべりをもっと大切に扱うべきだと思いますよ。

 

 

冬山で遭難しながらも無事に帰還する人たちには、共通の法則があると聞いたことがあります。

 

帰還できた登山者の多くが、仲間をかばって誰よりも過酷な状況に身を置いていたケースが少なくないと言うのです。

 

自分の防寒服を仲間に着せて、自らは風に身をさらしていたのに、防寒服を着た人が亡くなり、風をまともに受けていた当人が生還する、といった状況が決して不思議ではないそうです。

 

NASA(アメリカ航空宇宙局)は、何かあれば周囲からの支援を受けることのできない宇宙空間でのトラブルを想定して、極限状態での訓練を実施しています。

NASAの訓練担当者は「人は、他人の心配をしている時が一番強い。何か問題が起きた時こそお互いに相手を思いやるチームが優れた組織である」と言っているそうです。

 

トラブルが起きた時、当の担当者が「私はちゃんとやりました。(相手が悪いんです)」と主張することがあります。

指示した案件に部下がうまく対応できなかった時、「何でこんなことができないんだ」と怒鳴る上司もよく見かけます。

 

確かに正しく対処したのでしょう。 的確な指示を出したのでしょう。

でも相手が自分の思う通りに受け取ってくれるかどうかは全くの別物です。

 

新人の頃、顧客に送ったマニュアルで先方がミスをしたことがあります。

私は「何でちゃんとやってくれないんだ」と思ったのですが、上司から「君の作ったマニュアルは、業務を知らない中学生が読んでも絶対に間違えないような文章になっていたか?」と聞かれたことがあります。(ハイ、なっていませんでした)

 

トラブルが起きた時、本当に仕事のできる人はこう言います。

「私も、もう一度確認すれば良かった」「俺も、もう少し丁寧な説明をしてあげれば良かった」と。

 

「自分は間違っていない」「俺の指示は正しいのに、理解できないお前が悪い」と言われるのと「私も〇〇すべきだった」と言われるのとでは、言われた側の受け取り方は大きく異なります。後者では、言われた側の脳で共感を感じる部位が反応し「自分こそきちんとすべきだった」と深く反省する気持ちが生まれやすいことが分かっています。

 

相手が誰であれ、トラブルが起きた時こそ相手を思いやって「自分も〇〇すれば良かった」と言葉に出せる、そんな心の余裕を持つことが、結果的に組織を良い方向に導くことを知っておきたいですね。

 

 

セロトニントランスポーターS型と呼ばれる遺伝子があります。

 

不安遺伝子とも呼ばれ、この遺伝子を持つ人は不安感を抱きやすく、安定状態にあることを求めることから協調性を重んじ、場の空気を大切にする傾向があります。

日本人は、同遺伝子を持つ割合が世界で最も多いことが明らかになっています。

 

狭い国土にあって共同作業が必要な米作中心の農耕生活を長く続けてきた日本人にとって、周囲の人々とうまくやっていける能力は生きていく上で必要不可欠だった。 脳科学者の多くはそう考えています。

 

同遺伝子は安定状態を求めるので協調性が高い反面、正論であっても(場の雰囲気を考えて)主張することを躊躇したり、新しいことにチャレンジしづらいという側面も持っています。

 

「空気を読む」性質は、時に破滅的な事態を引き起こすことがあります。

 

第二次大戦末期の1945年6月8日、日本政府は御前会議を開きました。

同年5月のドイツ降伏や米軍沖縄上陸・激化する本土空襲など日本を取り巻く状況が日増しに悪化するのを受けて、現実的対応を決める時期にきていたからです。

 

会議には、国力の現状や世界情勢を率直に示すデータが提出され、これ以上戦争を継続しても犠牲者が増え国力を消耗するだけで日本の敗北が不可避であることは誰の目にも明らかでした。

しかし新たにまとまった戦争指導大綱には、そのかけらさえも反映されることはなく「七生尽忠の信念を源力とし、地の利・人の和をもってあくまで戦争を完遂し・・・」といった言葉が並ぶこととなり、会議から2か月後には原爆投下やソ連参戦を招きます。

 

現実的対応を検討するための会議であり、リアルなデータが目の前にありながらも「国民をこれ以上犠牲にしないために、戦争を終わらせるべきだ」と最初に発言して臆病者と言われたくない、という空気が場を支配し、データに基づく真っ当な判断ができなかったのです。

 

誰もが会議の席でKYになることを嫌ったことで、死ななくて済んだ数多の同胞の命が奪われました。

 

我々日本人が多く持つ遺伝子は、国民の生死がかかる場面においてさえ周囲の空気を読んでしまうとも言え、企業の不祥事が何十年にも渡って引き継がれてしまうのもこれが大きな原因の一つでしょう。

 

「時代の空気」というのもあって、規模の大小を問わず企業がよくトラップに陥ります。

 

少し前には「サブスク」がブームになりました。

 

スーツのサブスクや自動車のサブスク、はてはコーヒーのサブスクなんていうのもありましたが、どれもそれほどうまくいっているとは言えません。

 

サブスクがブームになったのは、デザイナー向けのPhotoshopやIllustratorを販売していたアドビ社が、従来のソフト売り切りからサブスク方式に切り替えて大成功した事例がメディアで大きく取り上げられたのがきっかけです。

 

アドビ社が成功した本質は、デザインをする人にとって必要不可欠で長く使い続けるソフトであったことに加えて、ソフトの価格が約30万円と高かったので、月間コストを下げることで、それまで簡易版の代替ソフトや海賊版で我慢していた層を一気に取り込むことに成功したことです。

「依存性が高い」のに「コストが高い」ことから購入ハードルが高かったのが、サブスクによって敷居が低くなったのです。

 

自社の本質を見ることなく「これからはサブスクだ」とばかりに採り入れただけの企業が失敗するのは当然でした。

 

一橋大の楠木建教授が、「1950年代のオートメーションブーム」や「80年代の組織改革ブーム」「「90年代の統合業務ソフトブーム」などを挙げて、当時の新聞や雑誌が激しく煽って時代の空気を創り、サプライヤーが積極的に営業をしかけ、それに応じた大手企業が見事にトラップに陥って惨敗してきた姿を「逆・タイムマシン経営論」で明らかにしており、「同じような事が何度も繰り返されてきた」と述べています。

 

当時の新聞や経済雑誌を見ると、いつの時代も「今が激動の時・変革の時」であり、「このブームに乗り遅れたら企業の明日はない」といった論調が繰り返されていますが、その後の経緯を見れば、勢い込んで採用した企業の多くがドツボにはまり、実際に成功した企業は、事業の本質がオートメーションや組織改革を受け入れることにたまたま合致していたから、という、考えてみればしごく当たり前の結論なのです。

 

現在のAIやDX・IoTブームが、かつてのブームと同じでない保証はありません。

 

経済雑誌やテレビ・新聞の類がどれだけ騒ごうとも、サプライヤーからガンガン営業されようとも、自社事業の本質やめざす戦略を正しく把握する目があれば、導入すべきかどうかを冷静に見極められるはずです。

 

ただでさえ「空気に流されやすい」遺伝子を持っている我々日本人は、周囲が熱い時ほど冷静になる必要があると言えるでしょう。

ハンナ・アーレントをご存じでしょうか。

 

1906年生まれのドイツ系ユダヤ人哲学者で、一時はナチスに逮捕・拘留されるなどを経てアメリカに亡命した後、プリンストン大学やコロンビア大学で哲学教授となります。

 

大学教授として静かに暮らしていたアーレントが渦中の人物となるのは1963年、ユダヤ人虐殺の中心人物であったアドルフ・アイヒマンが逃亡先のアルゼンチンでモサドに捕えられてイスラエルで裁判にかけられた際に、雑誌「ニューヨーカー」に裁判傍聴記事を書いたことによってです。

 

血も涙もない極悪非道な人物だと思われていたアイヒマン。

アーレントが裁判を通して見たのは「ごく普通の人物で、自分で考えることをせずに命令だけを完遂する小役人」であり、「誰もが極悪人になり得る」として「悪の凡庸さ」と表現します。

この記事を書いたことで、ユダヤ人社会から「ホロコーストを起こした人物を、どこでも起き得る悪と同列に置いた」として激しいバッシングを受け、やがて大学の職をも辞することとなり、数年後に死去します。

 

一連の経緯は2012年の映画「ハンナ・アーレント」で紹介されています。

 

身内とも言えるユダヤ社会から激しい非難を浴びたアーレントでしたが、その後の行動経済学や脳科学の知見は「彼女は正しかった」ことを証明しています。

 

エール大学で実施された有名な実験があります。

一般から無作為に募った実験参加者80名の半分を教師役、残りを生徒役に振り分けます。

教師役は生徒役に問題を出して、間違えたら電気ショックを与えるボタンを押すよう指示されます。

答えを間違えるたびに電圧を上げるようにとも言われます。

 

実際には生徒役に電気ショックが伝わることはなく、教師役によって押される(フェイク)電圧ごとに苦しむ演技をするように指示されているのですが、もちろん教師役にそのことは伝えられていません。

 

実験が開始され、教師役は生徒役が間違えるたびに電圧を上げていきます。

 

生徒がうめき声を上げ始めたあたりで、教師役の中には躊躇を示す者もいましたが責任者(である大学教授)から「続けるように」と指示されるとほぼ全員が従い、どんどん電圧を上げていきます。

 

生徒役が「頼むから止めてくれ」と絶叫しても電圧は上げられ、40名中25名は生徒役が失神しているのも構わず、死の危険があると言われていた最大電圧までスイッチを押し続けたのです。

 

ごく普通の人たちが、いかにあっさりと残酷なことをやってのけるか、を見事に示した実験でした。

 

その後、同様の実験が何度も行われていますが、いずれも結果は同じようなものとなっています。

 

怖ろしいのは、その後の追加実験などで、協調性が高い人ほど、こうした実験で徹底的に残酷になることが分かったことです。

 

協調性の高さは、その場を支配する空気に、たとえそれが倫理に反していても抗えない性質でもあるということです。

 

現在の脳科学では、協調性が高い人の脳はセロトニントランスポーターというタンパク質密度が低いことが分かっています。

セロトニンは不安を感じにくくする物質で、セロトニントランスポーター密度の高い人は(不安をあまり感じないので)楽観的な判断を下す傾向があり、チャレンジングである一方で好き勝手に行動する傾向もあります。

 

密度の低い人は物事をいいかげんには考えられず、勤勉で真面目、そしてもちろん協調性が高い傾向を示すのです。

 

日本人は世界的にも突出してセロトニントランスポーター密度が低いことが明らかになっています。そしてドイツ人も結構低いのです。

 

協調性を必要とする製造業型が全盛だった時代に、日本は高度成長を遂げましたが、創造力・創出力が必要とされる時代に入ると、長い停滞期となった理由が何となく分るような気がします。

 

今もなお多くの企業が採用場面で「協調性のある人」を求める傾向にありますが、協調性のある人が大半を占める組織は、トップの優れた判断の下では一致団結して力強く前進するかも知れませんが、ひとたびトップが間違えると、組織全体が底なし沼にはまりこんでしまう危険性が高いのです。 しかも協調性の高い人たちからは、なかなか突破力のようなものが出てこない。

 

周囲からバッシングされようとも「本質を見抜く」ことのできる、ハンナ・アーレントのような人材こそが求められる時代になっているのではないか、日本人には少ないかも知れませんが、そういう人材を掘り起こして活かすことが、今まさに日本企業に求められているように思います。

 

子供の頃に「トム・ソーヤの冒険」を読んだ方は少なくないと思います。

 

同書にトムが壁のペンキ塗りをするエピソードがあったのを覚えておられるでしょうか。

 

トムがいたずらをした罰として、おばさんから壁のペンキ塗りを言いつけられます。

大きな壁なので、とても短時間に終わりそうにありません。

最初は嫌々やっていたトムは「何とか早く終わらせよう」と通りかかった友だちに手伝いを頼みますが承諾してくれません。

 

一計を案じたトムは、口笛を吹きながら実に楽しそうな表情で壁を塗り始めます。

すると、それを見た友だちが寄ってきて「面白そうじゃないか、俺にもやらせてくれ」と頼みますが、トムは一旦断ります。

 

友だちが「このリンゴをあげるからやらせてよ」と頼み直すと「仕方がない、それならやらせてあげよう」と交代します。

トムは壁塗りの仕事を友だちにやらせることに成功し、その友だちも楽しそうに壁塗りをしたところ、次々に「やらせてくれ」という友だちがやってきた、というお話です。

 

実は行動経済学でも「本人が楽しそうに作業をすると周囲も同調し、追随した人たちも楽しく作業する可能性が高まる」という実験結果があり、トムの行動が功を奏することは科学的にも証明されているのです。

 

合気道の師範をされている方が「弟子たちは師匠の息遣いや所作をまねるところから始めて、師匠の技芸を『写して』いきます。その場合、師匠の所作の中でも『師匠が気持ちよさそうに、楽しそうにやっていること』は感染力が強い。模倣を促す力が強い」と言っておられました。

 

トム・ソーヤの話や合気道師範のお話は示唆に富んでいます。

 

自分の思い通りに人に動いてもらおうと願うなら、「人にしてほしいこと」を先ずは自分が楽しそうにやるべきなのです。

 

オフィスを綺麗にしたいと思うなら、まず自分でゴミを拾う。その時に「誰だ、こんなところにゴミを落とす奴は」などと言いながら拾うのではなく、楽しそうに拾うことです。「オフィスが綺麗になっていくのは気持ちがいいなあ」と本気で思いながらゴミ拾いをする。そうすれば周囲も知らず知らず真似してくれるはずです。

 

「これをやってほしい」と思うことは、まず本人がそれを気分よくやればいいんです。本人が不愉快に耐えてやっている「いやなこと」を押し付けようとしても誰も真似してくれません。

 

ビジネスでも同じです。

経営者が仕事を心から楽しんでいるならば、周囲にもそれは波及するはずです。

 

 

 

リクルートを創業した江副浩正氏は戦後を代表する起業家の一人としてその名が知られています。

 

その江副さんと草創期より行動を共にし、財務面からリクルートの発展を支えた奥住邦夫さんという方(故人)がおられます。

 

私が起業して少し経った頃に奥住さんからお話を伺う機会があったのですが、氏は身近で見続けてきた江副さんを「良い意味でも悪い意味でも『目的のために手段を選ばない』人だった」とおっしゃっていました。

「悪い方向に出てしまったのがリクルート事件だったが、基本的には『リクルートという会社を発展させる』という強烈な目的意識を持ち、自らの思想や好悪・感情は脇に置いてでも必要なことを直線的に実行してきたことがリクルートの発展につながった」と。

 

何よりも力を注いだのは「人」でした。

リクルートの発展には「優れた人材を採用すること」「彼らがイキイキと働ける風土を作ること」が最重要と考えて、そのためには文字通り「手段を選ばずに」何でもやったのです。

 

GE中興の祖と言われるジャック・ウェルチ氏も「自分のマネジメントの7割以上は人に関することだった」と述べていますが、優れた人材を採用し、その人たちを活かすことが企業経営の基本であることは世界中どこでも同じです。

 

江副さん自身は男女平等論者でも学歴無用論者でもなかったのですが、創業間もない小さなリクルートが優秀な人材を採用するためには、他社が目をつけない層から優秀な人材を見つけるしかないと考えて、女性や高卒・在日の人たちから優秀な人材を積極的に採用し、彼らを活かすために、大卒男子と全く区別することなく能力優先で課長や部長・役員に登用していきました。

 

江副さんは自らの親類縁者を入社させることはしませんでしたし、(役員クラスはともかく)若手社員に対してカリスマ性を見せつけることもなく、むしろ若手の意見であればあるほど(多少粗い提案でも)積極的に取り上げました。

そうすることが若手のモチベーションを高めることを本能的に悟っていたのです。

 

ストア派の哲学者は「政治家や経営者は職業ではない。共同体のために何かをやろうとする生き方である」と言います。

 

かつては「確かにその通りだけれど、経営者だって生身の人間なんだからそんな聖人君子のような行動ができるのかな?」と疑問に思っていましたが、奥住さんから江副さんの話を聞いて以来「倫理の問題ではなく、『この会社を良くしたい』といった強烈なまでの目的意識を持てるかどうかの問題なのだ」と考えるようになりました。

 

目的意識が明確であることは、「知的誠実さ」を持つことにもつながります。

 

「知的誠実さ」というのは、嘘をつかない、論理的であるなどいろいろと挙げることができますが、最も大切なことは「論拠をしめして説得されれば、素直に自説を撤回して正しいと思った方向に進める」ことです。

 

「正しいと思ったら素直に自らの考えを変え、身の処し方を変える」のは当然だろうと言われるかも知れませんが、人間にとって実際にはそう簡単にできることではありません。

そういう行動を取ることができるのは、当人が謙虚であるとか度量が大きいといった個人的属性もあるかも知れませんが、それ以上に強烈な目的意識があってそのために直線的に進もうとする姿勢があるかどうかなのです。

 

強烈な目的意識があればこそ、目的を達成するために必要であれば自らの好悪や感情を抑えることができ、必然的に「論理的・科学的であろうとする」態度につながります。

 

強烈に「良い会社を創りたい」という目的意識を持つことこそが、結果的に会社のメンバーや社会に対しても誠実に対応することにつながっていくのです。

 

「良い会社にしたい」とか「社会に貢献したい」と発言する経営者は少なくありませんが、本当にそれが自らの強烈な目的意識として根付いているのか疑問に感じさせる方もまた少なくないようです。

 

「会社を良くしたい」「社会に役立つ仕事を創りたい」

それが強烈な目的意識として自らに根づいているのか。改めて見つめ直します。

 

最近は「叱るより褒めよ」と言われることが多くなりましたが、「どう褒めるか」は、実はかなり難しく、かつ極めて重要な問題です。

 

コロンビア大学で実施された有名な実験があります。

 

人種や経済的背景の異なる10~12歳の子供たちに知能テストを受けてもらい、成績に関わらず全員に「80点というハイスコアだったよ」と伝えます。

 

子供たちは3つのグループに分けられ、1)「頭がいいね」と能力をほめる。 2)「努力したね」とプロセスをほめる。3)何も言わない。 という異なる対応をします。

 

その後、2回目の課題を与えるのですが、子供たちには2つの課題から1つを選ばせます。

一方は「1回目よりはるかに難しくチャレンジしがいのある課題」、もう一方は「1回目と同程度の課題」です。

 

難しくチャレンジしがいのある課題に挑戦した割合は1)2)3)のグループで大きな差が出ました。

 

2)「努力」をほめられたグループは90%が難しい課題に挑戦したのに対して、3)何も言われなかったグループは55%、そして1)「頭がいいね」とほめられたグループは35%しか難題に挑戦しなかったのです。

 

さらに別の難しい課題を与えて、今度は成績を自己申告させると、1)「頭がいいね」と言われたグループは実際よりも良い虚偽申告をする子供が続出したのです。

 

1)「頭がいいね」と言われたグループは、専門用語で「認知的不協和」と呼ばれる「自身の認知や評価とは別の、矛盾する認知を抱えたときに不快感が出る」状態が出現し、「頭がいい」と言われた評価から外れることを恐れる気持ちが芽生えたのです。

 

この実験は、その後さまざまな学者がフォローしていますが、いずれもほぼ同様の結果が得られています。

 

この実験について書かれた本を初めて読んだ時、日本で「頭がいいね」と言われ続けて超難関大学を卒業した人々が、どのようなポジションについているのかを、思わず考えてしまいました。

中央官庁の官僚が新しいことにチャレンジするよりも前例踏襲主義に陥りがちなことや、書類破棄などの不正隠蔽が目立つ事情が何となく分るような気がします。

大企業で出世の階段を駆け上がってきた人が、業績悪化を隠蔽するために不正に手を染めてしまうのも同じ文脈かも知れません。

 

本人の元々の能力や性質など自分で変えられないものを褒めたりしてはいけない、その人の努力や工夫など、自分次第で変えられるものに着目して褒めることが挑戦から逃げない心を育てる、というのが上記実験の知見ですが、これは組織でリーダーシップを執る立場にある人にとっても理解しておくべきですね。

 

「君は能力がある」とか「君はすごい」という褒め方ではなく、「君は本当に努力しているね」「いろいろと工夫するところが素晴らしい」など、(その気になれば自分で変えられる)姿勢を褒めることが、結果的に相手が成長しようとする姿勢を促すことにつながる可能性が高いという訳です。

 

2020年に亡くなった野村克也さんは、南海ホークス監督時代に選手に記述式ペーパーテストをやらせることがあったそうです。

野村さんの評価基準は、正解かどうかは二の次で「少々間違っていても、一生懸命考えてたくさん書いてくる奴がワシは好きや」と言っていたそうで、当時、野村監督の下でピッチャーだった江本孟紀氏は「要するに、物事に向き合う姿勢をテストされていたことになる。努力や工夫をする奴を褒めていた」と述べています。

 

野村さんの選手指導方法は、まさに行動科学的だったと言えます。

 

学業であれスポーツであれ、もちろんビジネスの世界でも、コロンビア大学の実験は褒め方について重要な示唆を与えてくれます。

言葉には人を説得したり惹きつけたりする力があります。

 

その一方で、そこには危うさもあります。

 

例えば昨年からよく聞かれる言葉に「ステイホーム」があります。

でも世の中には、家にいることが地獄だという家族関係だってある訳で、実際海外でも日本でも新型コロナ禍でDVの報告件数が増えています。

でも「ステイホーム」と言う言葉からそういう負の側面を感じることは難しい。

 

「三密」という言葉にしても、昨年の春頃は飲食店よりもパチンコ店がその代表のように言われていました。

でも科学的に見て本当にそうだったのか。実はそこに妙な道徳的感情が入り込んでいたのではなかったでしょうか。

 

危機的状況になると、道徳的な言葉・情緒的な言辞が有無を言わさぬ威力を持つことがあります。

 

第二次大戦当時、「ぜいたくは敵だ」「ほしがりません、勝つまでは」と言った標語が量産されて人口に膾炙しました。

そうした標語が定着すると、むしろ一般市民の方が熱くなって「『欲しがりません、勝つまでは』では生ぬるい。『欲しがりません。どこまでも』と改めるべきだ」などと息巻く声が新聞社などに押し寄せたと言います。

 

自粛警察を思い起こさせますね。

 

危機の中では「美談」もよく出てきます。

 

戦争中には戦場での美談や銃後の美談が数限りなく報道されたと言います。

 

コロナ禍でもまた、命がけで闘う医療従事者などへのエールが美談へとつながっていきます。

もちろん、そこには自然な共感が生まれますが、個人の超人的頑張りを「美談」とすることで普通にやっている人が「努力が足りない」と責められるようになったり、そもそもなぜ「美談でなければ乗り切れない」過酷な状況が放置されているのかという冷静で分析的な問いを奪う危険がはらむのです。

 

近現代史研究家の辻田真佐憲氏は「戦時中の社会を研究していると、こんなことを本気でやっていたのかと驚くことが少なくない。でも、そのときは誰もが本気だったんです。新型コロナ禍の今の状況になると、改めて分かる」と語っています。

 

危機的な状況にある時こそ「自分は情ではなく理で判断できているだろうか」と自らに問いかける冷静さが必要なのだろうと思います。

以前アルバイトに来ていた中国人留学生が「日本に来て驚いたことは、政治家がバラエティ番組に出て芸能人からイジられているのを見たことです。中国では、政治家がバラエティ番組に出ることなんか絶対に考えられません。日本の懐の深さを感じました」と言っていました。

 

この話を聞いた時、大学時代の先生が講義の合間に語ってくれた話を思い出しました。

 

今では想像すらできないのですが、かつて若者を中心に反米意識が大きな高まりを見せた時期がありました。

 

1960年代には反米デモが過激化して、当時のアイゼンハワー大統領の来日が中止になりましたし、その後もベトナム反戦活動などを通した反米意識は大きなうねりとなっていました。

 

ところが1970年頃からそうした意識が下火になり、いつの間にやら若者がレイバンのサングラスにコンバースのスニーカー・アイビーリーグのファッションに憧れるようになりました。

 

件の先生は「反米を唱えていた連中が内ゲバで周囲から見放されたこともあるが、1969年のウッドストックでマリファナを吸いながらロックに興じるアメリカの若者を見たことや、アメリカ原住民への虐殺を題材にした『ソルジャーブルー』やベトナム戦争を否定的に取り上げた『プラトゥーン』『地獄の黙示録』と言ったカウンターカルチャーを見聞きしたことも大きかった」と言っていました。

 

アメリカの権力を握っているWASPに対する、アメリカ人自身による強烈なカウンターカルチャーの発信が許される国であることを知ることで「知らず知らずアメリカという国の懐の深さを感じるようになり、アメリカに憧れる気持ちが芽生えた気がする」と話しておられ、「アメリカから発信される『反米文化』が、実はアメリカの対外威信を高める上で大きな働きをしていたのだと思う」という話に「なるほど」と納得したものです。

 

アメリカでは、国旗である星条旗を燃やしたり踏みにじったりすることが権利として認められています。

 

これにはアメリカ国内でも喧々諤々の議論があり、2006年には星条旗損壊禁止法が上程されたこともありますが、「思想信条・言論の自由はそれを上回る」として否決されたのです。

そして、星条旗損壊禁止法が正式に否決されて以降、集会などで星条旗が燃やされることが実は極端に少なくなったのだそうです。

 

アメリカという国にはいろいろと言いたいことも多々ありますが、こういう事実を知るとちょっとうらやましくなります。

 

あいちトリエンナーレの「表現の不自由展」で慰安婦の彫像や昭和天皇陛下を揶揄するような展示があり、それに対して公金が拠出されていたことから愛知県知事のリコール運動にまで発展しました。

 

正直に言って、私自身はこれらの展示に対して「悪趣味だ」と感じますし、仮に近くで展示されていたとしても見に行こうとも思いません。

 

それでも美容整形外科の院長や名古屋市長によるリコール運動にまで発展するのは、別の怖さを感じるのです。

 

それは結果的に愛国主義という名の下の言論統制であって、結果的に右の北朝鮮になってしまうのと大差ないではないか、と感じるからです。

 

県が後援するイベントで反日本的な展示であってもお咎めがないことは、隣国から見たら驚天動地のことであり、それこそが日本という国の懐の深さを示す、すなわち日本の威信を示すことになり得ているのではないかと思うのです。

 

昨今は少し過激な発言をするとSNSなどで炎上してしまいますし、愛国的な言動を強要するような言論も少なくありません。

 

でも、右も左も含めて、それが多少過激であったとしても多様な発言・表現が許される国家は実はそれほど多くないのであって、そうではない国の人々にとっては日本の懐の深さを感じる大きな要素となっていることを忘れてはいけないと思います。