文筆家の山崎雅弘さんが、こんなことを言っておられました。

 

「私はフリーの文筆家ですが、もし私が誰かに雇われる身分で、本や原稿を書くたびに『どんな意図で、どのような進捗で書いたのか』『使った参考文献の費用は』などを毎日書類にして雇い主に提出することを義務づけられたら、執筆の成果本数が減るだけでなく、執筆意欲も大きく削られるだろうと思います。日本の組織が一人一人の人間に要求しているのはそういうことです。あらゆる国際ランキングで日本の地位が下がるのも当然でしょう。役人や「役人的な人間」を満足させるための「ブルシットジョブ」で、一体どれだけの活力や創造力が削がれているのか」と。

 

「今の時代、創造力が極めて重要だ」と考えない経営者はほとんどいないでしょう。

 

大手企業トップの新入社員への訓示でも「古い組織を打破する意気込みを持て」「創造性を発揮してほしい」などの言葉が並びます。

 

経営トップの誰もが「創造性を発揮できる組織にしよう」と言っているにも関わらず、日本企業の生産性は20年以上に渡ってG7(先進7か国)中の最下位であり、日本の特許出願件数も2001年の43万9100件から2021年は28万9200件と、この20年で34%も減っています。

 

いくつか理由はあるでしょうが「創造性を発揮せよ」という掛け声は勇ましくとも、その組織が(山崎さんが指摘するような)旧態依然たるものになっていることが大きな要因ではないでしょうか。

 

創造性というものは、アレコレ指示されたから発揮できるものではありません。

ブレークスルーの原動力になるのは、自由闊達に発想・行動できる環境です。

 

従業員800名の中堅企業ながら、特許&意匠登録件数は巨大企業を押しのけて全国20位以内の常連で、平均報酬は中部地区トップレベルを誇り、年間休日140日プラス有休40日完全取得など福利面でも他を圧倒している、という会社が岐阜にあります。

 

その会社、未来工業の創業者である故山田昭男氏は生前こう語っておられました。

 

「ホウレンソウ(報告・連絡・相談)は禁止している。現場で判断してもらった方が効率的だし、中小企業こそ徹底して頭を使わないといけないのに、ホウレンソウなんてさせるから、社員が上司の顔色を見るようになって、自分で考えなくなるんだ」「残業も禁止。頑張って長く仕事をすることで仕事を片付けようとすると創造力を発揮しなくなる」と。

 

未来工業のやり方は、創造性を発揮する方法論として行動科学的にも理に叶っています。

 

スタンフォード大学で組織行動学を教えているミシェル・ゲルファンド教授は「ルーズな文化とタイトな文化」という著書の中で、「こと創造性の発揮に関して言えば、タイトな文化よりルーズな文化の方が適している」と述べています。

 

ゲルファンド教授はさまざまな実験を通してこのことを証明しており、同じ文化に属するメンバーでも整然と片付けられた部屋よりも散らかった部屋でブレストした方が創造性の高いアイデアが出ることや、全員で一斉に同じ行動をさせた時よりも、てんでばらばらの行動をさせた後の方が創造力が高まることなどを実証しています。

 

高度成長期の日本を支えたのは工業力の強さであり、皆が同じ方向を向ける団体戦の強さでもありました。

その成功体験があまりに染みついてしまったことが、IT時代になって日本の弱さとなって出てきてしまったのではないでしょうか。

 

旧い組織で成功体験を積み上げてきたトップや上級管理職にとって、メンバーを自由にさせるのは勇気がいることだと思いますし、実際問題として、自由にさせれば適当に仕事をする社員が出ることもまた避けられないことでもあります。

 

しかし、適当に仕事するメンバーが出現するなど自由にさせることのマイナスと創造性によって得られるプラスを差し引きすれば後者が圧倒的に多い・・・そういう企業風土を「創造する」ことが21世紀の企業トップに求められる役割なのだろうと思います。

 

創造性の高い企業風土を創りたいと思えば、組織の作り方・在り方について、実はトップこそ創造性を発揮しなければいけない。

 

それが21世紀という時代なのでしょう。

先日、親戚を訪ねた際に中学一年の姪から教科書を見せてもらう機会がありました。

 

注目したのは「あすを生きる」と題された道徳の教科書です。

 

道徳教育は、自民党の強い要望により小学校・中学校における「特別の教科」と定義され、2015~2018年度の移行措置を経て、中学では2019年から完全実施されることになった科目です。

 

私はこのことに多少の疑問を持っていたこともあり、実際の道徳教科書に興味を抱いたのです。

 

自民党と文部省による道徳教育の強化に疑問を持ったのは、それが真の道徳心を養おうとするものではないように映ったからです。

 

道徳の定義は簡単だが、実行するのは限りなく難しい。 私はそう思っています。

 

定義は簡単だというのは、道徳的であるとは「もし世の中が私と同じような人ばかりだったとしても、愉快に快適に暮らしていくことができるか」

その問いを自らに投げかければいい、そう考えているからです。

 

高速道路が渋滞している時に路側帯を走り抜けていく車がありますが、他の人たちがそういうことをしないからこそ成り立つ訳で、誰もが同じような事をし始めたら収拾がつかなくなります。

会社の帳簿をごまかす人ばかりになってしまったら、やがて会社は潰れます。

 

自らの行為を振り返って「世の中が自分と同じような人ばかりであったとしても、愉快に気持ちよく暮らせる」と自信を持って言えるのであれば、それは道徳的に生きていることである、私はそう思います。

 

一方で、実行するのは限りなく難しいというのは、人が真に道徳的であるかを試されるのは「上司などの上位者が間違った指示を下した場合」や「世の大半の人たちが間違った方向に進んでいる場合」だからです。

 

渋滞の高速道路で路側帯を走らないようにすることや、電車で席を譲るなどの行為は難なくできる人でも、会社や役所で上司から不正の隠蔽を指示されたり、かつてのナチスドイツや文革時の中国のように、圧倒的多数がとんでもない方向に進んでいる時に異を唱えることは決して簡単ではありません。

 

組織であれば冷や飯を食わされることもあるでしょうし、国家であれば時には牢獄や死を意味することだってあるかも知れません。

 

真に道徳的である、ということは本来そういう覚悟が必要なことなのです。

 

人間はいとも簡単に周囲に流されて、とんでもない事をしでかす生き物でもあります。

 

エール大学で行われた有名な実験があります。

 

「体罰と学習効果の測定」という名目で集められた参加者が、ガラスで隔たれた隣室にいる生徒が間違った回答をするたびに電機ショックを与えるように指示されます。

 

電機ショックは何段階かに分かれており、最大は「致死の可能性有」となっています。

 

隣室の生徒は電気ショックのたびにうめき声をあげ、やがて絶叫する事態となっても実験責任者が「続けるように」と指示します。

すると驚くことに大半の人が致死量の電気ショックを与えたのです。

 

実は隣室の生徒は実験関係者で電流は流れておらず、フリをするだけで、この実験はナチスドイツのアイヒマン裁判が始まった1年後に実施され「ユダヤ人虐殺は決して悪魔の仕業ではなくごく普通の人々が関与していた」証明だとも言われました。

 

ここまで極端な実験ではなくても、多くの人が不正の事実を認識していながら長年に渡って不正行為が続けられてきた大手企業の例や、国家にとって極めて重要である書類の破棄や改竄を命じられて応じたキャリア公務員の例など日本でも、エリートがいるはずの大企業や役所において道徳にもとる行為の例は枚挙に暇がありません。

 

真に道徳的であることは勉強ができる頭の良さとは別次元のことであり、極めて難しいことでもあります。

だからこそ本当に国家や社会を善き方向に向けていくためには、日常的な道徳以上にしっかりとした「真の道徳に至る教育」が必要だと思うのですが、残念ながら自民党や文部省にはそうした道徳を身につけさせようという意図が感じられません。

 

中学一年のものとは言え「あすを生きる」という実際の道徳教科書からも「いずれは真の道徳を身に着けられる市民を育てよう」という意図が、少なくとも私には全く感じ取れませんでした。

新卒で入社した会社では最初に人事部に配属され、配属間もない新人達を集めた席で担当役員がこんな話をしてくれました。

 

「人が人を正しく完璧に評価できるなんてことはあり得ない。人を評価する立場になったら『自分が下す評価は間違っている可能性がある。いや間違っている可能性の方が高い』という謙虚な姿勢を常に持っていてほしい」

 

同時に「評価というのは、間違っている可能性があるからこそ救われる面もある」とも言われました。

 

その時は「ふーん」と思いながら聞いていましたが、真の意味が理解できるようになったのはかなり後になってからでした。

 

居酒屋などでビジネスマン・ウーマン達が「何であいつが出世するんだ」とか「ウチの人事評価はおかしい」などの愚痴で盛り上がっている場面に出くわすことがあります。

 

ビジネスパーソンの8割以上が自分への評価に納得していないとも言われますが、確かにそうかも知れません。

 

居酒屋で愚痴るビジネスパーソンたちは「人事評価は完璧にしてほしいよな」と言っていますが、仮に人事評価が完璧にミスなく行われる会社があったとして、そういう会社は本当に理想的で社員を幸福にすると思いますか? 

 

YESと答えた人、本当にそうですか?

 

よく考えてほしいのですが、完璧な人事評価が行われているということは、報酬のわずかな違いが、その会社での能力の違いを冷徹に反映していることになります。

あなたが誰かより100円でも低い報酬であれば、その分だけ成果が劣っていることが証明されていることになり、それに異論を唱えることができないのです。

 

それって身も蓋もない話ではないのでしょうか。

 

昨今は「能力主義人事」を実施することが金科玉条のように言われていますが、能力主義には今挙げた事象以外にもさまざまな問題が内包しています。

 

「ハーバード白熱教室」で有名なマイケル・サンデル教授が、能力主義についてこう語っています。

 

「完璧な能力主義が理想だという人がいるが、本当にそうだろうか。能力主義の倫理は、勝者のあいだにはおごりを、敗者のあいだには屈辱と怒りを生み出す可能性が高い。公正な能力主義の創造を執拗に強調することは、我々の成功(あるいは不成功)の解釈に腐食作用を及ぼす。勝者は『自分たちの成功は自分たち自身の手柄であり、自分たちの美徳の尺度なのだ』と考えるようになり、自分より低い評価の人たちを見下す誘惑から逃れることが難しい。 低い評価の人たちにとっての問題は、低迷する報酬だけでなく、社会的敬意の喪失でもある。運命の偶然性(運と言い換えてもいい)を実感することは、謙虚さをもたらすことにつながる」

 

そもそも企業における能力主義というのは、往々にして「業績を短期的なエビデンスで示すことができた人が高く評価される」傾向にあります。

 

でも、高い業績を誇っていた会社、それも一流と言われる大手企業で不正が起きるのは、短期的業績の達成に重きを置きすぎて「これってちょっとまずいんじゃないの」という理性的な声が届かなかった、というケースが圧倒的ですよね。

 

それに、高い業績を挙げることができた人も、たった一人でそれが成し遂げられたのではありません。

ビジネスの仕組みを作った先達やバックアップ部門の支援があってこそのはず。

 

新自由主義が浸透するようになって、世界的に「格差社会が進行している」と言われます。

 

私は、格差が進行している最大の理由は、能力主義の結果、勝ち組と言われるようになった人たちが、その特権を100%自分の才能と自己努力による報酬であり、それゆえ誰とも分かち合う必要なんてないと信じ込んでいるからだと思っています。

 

「利益に貢献したかどうか」という(それも比較的短期間の)一軸で評価された人たちが、それが自分の才能と努力によるものだと考えて共同体への敬意を欠くことになる。

 

これこそが能力主義の落とし穴ではないかと思います。

 

私自身は、トップ以下の構成メンバーが共同体への敬意を持ち、その証としてチームとしての評価を7割・個人としての評価を3割程度にするなど、共同体への評価に重きを置く手法が一定程度有効だと感じていますが、それと同時に大切なことは、冒頭で述べたように(評価を担当する人間が)評価を過信しないことだと思います。

 

完璧な能力主義に問題があるとは言え、だからと言って適当な評価方法でいいはずがありません。

できる限り丁寧かつ正確な評価をするように努めるべきです。

 

その上で評価者が「できる限り正確な評価をしてきたつもりだが、まだ見落としやミスはあるかも知れない。いやあるはずだ」という謙虚な気持ちを持ち続けること。

 

正しい評価に向けた最大限の努力をしながらも、どこまで行ってもそれは叶えられない可能性が高い・・・という引き裂かれたような想いを評価者が持ち続けていることが、評価を道徳的に担保する一つの手段ではないかと考えています。

 

 

 

 

最近は学校でも企業でも「ほめて育てろ」と言われることが多くなっていますが、年配者を中心に「本当にそれでいいのか」という思っている方も少なからずいるようです。

 

これについては学術的な研究がいくつか存在しており、中でもコロンビア大学が行った実験が有名です。

 

それは以下のような内容です。

 

400名の子どもに、一定の予習をさせた上で知能テストを受けてもらいます。

テスト終了後ランダムに3つのグループに分け、実際の成績は隠して一人ずつに「高得点だったよ」と伝えると同時に、以下のように対応しました。

 

グループ1には「本当に頭がいいね」とほめた。

グループ2には「努力していたね」とほめた。

グループ3には、何もコメントしなかった。

 

次に、新しい二つの課題から一つを選択してチャレンジするように指示します。

 

一方は、難易度が高く簡単に解けそうにないけれど学びを得られそうな課題で、もう一方は簡単に解けそうな課題、です。

 

二つの課題を選ばせた結果、難易度の高い課題を避けた子供たちの割合は

 

グループ1(頭がいいとほめた)    65%

グループ2(努力をほめた)      10%

グループ3(何もコメントしなかった) 45%

 

となったのです。

 

同様の実験は他にも行われてほぼ同じ結果が出ていることから、脳科学の知見では「ほめるなら本人の素質や能力をほめるのではなく、努力や工夫をほめるべき」というのが定説になっています。

 

コロンビア大学の実験には続きがあります。

 

二つ目の選択課題を終えた後、今度はこれまでよりはるかに難しく、容易に解けそうにない課題が与えられたのですが、グループ1の子どもたちの多くは露骨に嫌そうな表情をしました。

 

さらに衝撃的なのは、三番目の課題を終えた後で、互いの成績を自主発表する場を設けたところ、「頭がいい」とほめられたグループ1の40%が実際の成績よりも良い点数を報告したのです。

ちなみにグループ2・グループ3で虚偽報告をした割合は10%以下でした。

 

この衝撃的な結果について、実験を担当したコロンビア大学は「頭がいいと高く評価されたことで、その評価から外れることを恐れるようになり、高く評価されることから得るメリットを失いたくないためにウソをつくようになった」と分析しています。

 

この実験結果、ちょっと考えさせられます。

 

例えば超難関と言われる大学を卒業した人たちは、小さい頃から「頭がいい」と言われ続けてきた可能性が高く、日本でそういう人たちがどんなポジションについているのだろうと考えると、日本屈指の大学を卒業した人たちが中枢にいる組織で「捏造」や「改竄」「記録の紛失」などという言葉が連発されるのは、脳科学的には「必然の結果」と言えるのかも知れません。

 

企業においても、トップマネジメントに君臨している人たちは「仕事ができる」「優秀だ」と言われ続けてきた可能性が高い訳で、名だたる大企業で不都合な真実が隠され、不正が行われる理由の一つが、ここにあるのではと考えさせられます。

 

脳科学の知見は、「頭がいい」とか「仕事ができる」など本人の能力をほめられると、評価が覆りそうな事態を忌避したくなり、マイナス評価を避けるためには不正も厭わない傾向があることを明らかにしている訳で、もしあなたが「仕事ができる」「優秀だ」と言われているとすれば、その評価が覆りそうな際に、脳が不正への誘惑へ導く可能性があるのだということはしっかりと自覚しておく必要があります。

 

だからこそ、どんなに高いポジションについていようとも、怒られることや謝罪することから逃げようとしてはいけないのです。

それは相手のポジションや年齢が下であってもです。

 

周囲の評価が覆ったとしても、またゼロからやり直せばいいだけのことです。

 

自分の地位に関わらず、高評価であっても低評価であっても周囲に惑わされず常に謙虚な姿勢で恬淡と努力を積み重ねていく、そんな仕事ぶりこそが大切であることを脳科学の知見は教えてくれます。

 

合気道の道場を主宰している方から「武道とは無敵をめざすための修行です」と伺ったことがあります。

 

私は「武道というからには、どんな敵と戦ってもこれを倒し、最強になるために修行するのは、実現するかどうかは別として当然でしょう」と応じたら、その方は「そういうのを無敵と言うのではありません」と言われました。 

「そもそも対戦相手のみを敵とする考えが間違っている」と。

 

どれほど武道の技に秀でても、心身のパフォーマンスが低下していれば戦っても負ける可能性があり、自らのパフォーマンスを低下させる要因には、けがや病気・心理的葛藤などいくつもありますし、老いからくる体力・気力の低下だってあります。

 

そもそも歴史上いかなる強者であっても、老いや死から免れ得た人は一人もいません。

加齢からくる体力・気力の衰えを「敵」と捉えて、全力を尽くしてそれに抗おうとしている武道家がいたとすれば、生きていること自体を敵に回すことになってしまいます。

 

「無敵」とは、敵を「存在してはならないもの」「抗うべきもの」と捉えるのではなく、自らに何が起きようともそれを「敵」と見なさず平然と受け流すことのできる態度・心身の在り様を言うのです。

 

病気になったら、生まれてからずっと病気であったかのようにふるまい、配偶者を亡くしたら、生まれてからずっと配偶者に死なれ続けてきたかのように平然とふるまうことができる。そういう態度を取ることのできる人であってはじめて、世界は無敵になるのです。

 

自分の身にどのような状況が起きようとも、それを敵や災難と捉えるのではなく、所与のものとして「では、自分が今持っているリソースでどうすれば未来を切り拓いていけるか」を冷静に考えて実行する、それが敵を作らない=無敵の構えなのであり、こうした態度を涵養することが武道本来の目的である、その方はそう教えてくれました。

 

幕末の三大道場、神道無念流「練兵館」の塾頭は桂小五郎(後の木戸孝允)であり、鏡心明智流「士学館」の塾頭は武市半平太、北辰一刀流「千葉道場」の塾頭は坂本龍馬でした。

 

司馬遼太郎は「竜馬がゆく」の中で、この三人についてこう書いています。

「それぞれ当時の剣壇を三分する勢力であったが、このそれぞれの名門の塾頭を、のちの維新の立役者が占めたのは奇妙な偶然といっていい」

 

前述した方は「司馬作品は大好きだが、この一文は違う。決して『奇妙な偶然』などではない」と言われました。

 

彼らは剣技の修行を通して、周囲で起きたことに一喜一憂せず、自らの持つリソースを最大限駆使して道を切り拓くという武道本来の「無敵の追求」を究める修行をしていたはずで、それは維新の立役者としても立派に通用する能力だったのだ、と。

塾頭であると同時に維新を動かす原動力となり得たのは必然だった、という訳です。

 

企業経営にも通じる話ではないでしょうか。

 

少なからぬ経営者が、業績の良い時は自信満々自らの功を誇り、業績が下降すると「景気が悪い」とか「円高が」「円安が」「コロナ禍が」と他罰的になって「敵」を作ろうとします。

 

しかし、まわりの状況がどんなに厳しくなろうとも、あるがままを冷静に受け入れて、手元にあるリソースを最大限有効活用して生き延びる術を探る、という武道家がめざす「無敵」の構えは、経営に携わる者にも必須の能力なのではないでしょうか。

 

自戒を込めて言うと、実は手元にあるリソースの有用性に(それどころか、それがリソースであることにすら)気づかない人も多いのです。

 

「鶏鳴狗盗」という故事があります。

 

中国・戦国時代の政治家に孟嘗君という人がいて、あるとき秦の王に殺されそうになりました、。

孟嘗君は王の寵姫に命乞いをしたところ、彼が持つ「狐白裘」という宝物をくれるなら、とちう条件を出されましたが、それは既に秦王に献上してしまっており困り果てていたところ、食客の一人に泥棒の名人(狗盗=犬のようにすばしこい泥棒)がいて、狐白裘を見事に盗み出してきて、これを寵姫に献上することで彼女の手引きで逃れることができたのです。

 

秦を脱出した孟嘗君でしたが、途中で函谷関という関所に阻まれます。

関は夜なので閉じられており、追手が背後に迫ります。

その時、食客の一人に物真似名人がいて鶏の鳴き声を出したところ、関守は夜が明けたと勘違いして門を開き、その隙に孟嘗君は脱出した、という話です。

 

泥棒も物真似名人も、政治家が食客として遇するような人物とは思えませんが、孟嘗君は「どんな奴でも一芸あれば」と積極的に食客に迎え入れており、そのことが自らの危機を救ったのです。

 

危機的状況になってから、慌てて「手持ちのリソースは何か」と探しまわるのではなく、日頃から手元にある物事の「周知の有用性」だけでなく、「先駆的有用性」「潜在的有用性」を把握する力を養っておくこともまた「無敵」であるためには欠かせないことなのです。

 

司馬遼太郎の「竜馬がゆく」に、竜馬を尊敬している土佐藩士・檜垣清治と竜馬が絡むこんな記述があります。

 

「(檜垣が)江戸で竜馬に会ったとき、竜馬は檜垣の長大な刀をじろりとみて、『無用の長物だ。刀が何寸何尺長いからといって役にも立たず、偉くもない』といって自分のみじかい差料をみせた。檜垣はなるほどと思い、その長大な刀をすてて竜馬と同じ寸法の刀を差料とし、後日その旨を竜馬に語ると、『ははあ、おれはこれさ』と竜馬は懐からピストルを出し、一発、景気よくぶっぱなした。檜垣はおどろき、苦心のあげくピストルを手に入れ、三度目に竜馬に会うと、『おれはこんどはこれだよ』と万国公法を見せた」

 

土佐人は長刀を好んだと言われていますが、龍馬は動きやすい短い刀に替えた。さらにピストルを知ると刀を「武士の魂」などと言わずにあっさりと切り替えました。

次に持ち替えたのは万国公法で、海援隊所有の「いろは丸」と紀州藩所属の明光丸との衝突について争われた際に、龍馬は万国公法に基づいて紀州藩から7万両の賠償金を得ています。

万国公法の戦闘力は、刀剣やピストルよりはるかに凄かった訳です。

 

日頃から周囲にあるものの「先駆的有用性」「潜在的有用性」に目を凝らし、何が起きようともそれを所与のものとして受け入れて、手持ちのリソースの「先駆的・潜在的」能力を最大限に使って対応する。

 

武道家がめざす「無敵」の構えは、経営者にとっても方向は同じです。

 

 

無知とは知識が欠如した状態を言うのではなく、自分がこうと信じこんだ知識で頭の中が目詰まりして、新しい知識を受け入れる余地がない状態のことを言う。 そう書かれた本を読んだことがあります。

 

アメリカでは民主党・共和党いずれの支持者も相手の言い分を聞こうとしなくなりましたし、欧州でも少し前に起きたイギリスのEU離脱問題や移民を巡る意見対立は相互に罵詈雑言を浴びせるような事態にまでなりました。

 

日本でも、憲法論議や沖縄辺野古・原発などの問題で討論が交わされると冷静な議論にならず、時に互いの人格攻撃に至るような状況になることも少なくありません。

 

例えば原発問題では推進派も反対派も互いに相手を激しく非難しますが、「どうすれば脱炭素を図りながら、電力を確保するのか」「大地震やテロに対しても原発を安全に保つにはどうすればいいのか」と冷静に議論を交わそうという雰囲気は見られません。

 

しかもいずれの側も、大半の人は原発について科学的に正確な知識を踏まえた上で発言している訳でもありません。

 

人はものを知らないから無知なのではありません。

自分の知的な枠組みや思想信条の組み替えを要求されるような情報入力を頑なに拒む我執的態度を「無知」と呼ぶのです。

いくら豊富な知識を持っていても、今自分が考えていたり信じているものを変えたくないと思っている人間は進んで「無知」になってしまいます。

 

アインシュタインは「自分は間違っているのではないか、と冷静に考えて検証する努力を怠らない姿勢を科学的態度という」と言いましたが、それはあらゆるジャンルにあてはまるのではないでしょうか。

 

オルテガ・イ・ガセーという哲学者は「少数の不愉快な敵とも共存できる社会が民主的な市民社会である」と言いました。

 

強大な敵ならば闘うか共存するかの二択を迫られますが、少数の不愉快な敵であれば無視することも蹴散らすこともできる。

それでもそうせずに、彼らの意見も尊重しながら共存しようとする姿勢こそが成熟した市民社会のあり方だ、とオルテガは言っている訳で、なぜそうするのかと言えば、蹴散らすこともできる少数の反対者の意見にも耳を傾けることで、多数派であるという驕りから来る「無知」を防ぐことができるからです。

 

社長や役員というのは、その肩書だけで多数派同様の権力を持ち得ます。

 

それだけに「自分は間違っているのではないか」という問いかけを常に自らに向ける姿勢が必要なのですが、なかなかそれができない経営者が少なくないように思われます。

 

でも、ビジネスの歴史は、少数派に見える存在が次代の主役になることの繰り返しでした。

 

しかもIT時代においては経験に基づいた知識よりも新しい新鮮な感性・知識がしばしば未来を鋭く見通すことがある。

 

だからこそ企業を統べる経営者が妙なプライドを捨て、頭の中を外には最大限に開き、内には「自分は間違っていないか」を常に自問自答する、そういう態度が不可欠な時代になっているのだろうと思います。

 

 

 

 

 

 

 

バレエ教室を主宰している方からこんな話を伺いました。

 

バレエ教室で自習の時間があると、生徒たちは例外なしにある練習をします。

しかも「世界中、どこでも同じ」だそうです。

 

それはピルエット(片足立ちして回転する動作)です。

自習時間になると、世界中どこのバレエ教室でも生徒たちはひたすらピルエットの練習をするのだそうです。

なぜなら「ピルエットは回数が数えられるから」です。

 

バレエという身体芸術の美しさを構成する要素はほとんど無限です。

けれども、見る者を魅了するアーティスティックな動き方や表現手法は数値的に表わすことが難しい。

でもピルエットなら回転数を数えることができ、人より多く回れると優越感に浸ることもできるのです。

 

「バレエの身体活動の美しさとは何か」を追求するという、答えがすぐには見つからない問いを自分に向けることを忌避して、数値的な技術向上に走ろうとする姿勢を、話をして頂いた方は「バレエの堕落です」と言っておられました。

 

同じことはあらゆるジャンルで起きています。

 

ビジネスなどは、とりわけそうではないでしょうか。

 

売上や利益・ROEなど数字として表現されるものが企業にとって極めて重要であることは間違いありません。

 

しかし、企業活動が生み出すものはそれだけではない。

 

実際、世の経営者の大半が「人が資産」とか「社会に貢献(したくて会社を創った)」と言っていますし、社是などにそう記している企業も多い。

それでもなおブラック企業や不祥事がなくならないのは、やはり数字に表れる部分を追いかけることに汲々として、数字で表現できない価値を追求することが疎かになっているからではないでしょうか。

古今東西、企業の不祥事は、そのほぼ全てが数字を無理に追及しようとして起きていることからも、企業人にとって数字への呪縛がいかに強いかが分かります。

 

15世紀のイタリアで複式簿記が発明され、19世紀のアメリカで減価償却の概念が確立される。そして20世紀の管理会計・ファイナンス理論によって将来キャッシュフロー=未来が数字で予測できるようになるなど、企業の歴史は「可能な限りあらゆる事を数字で表そうとする」ことをめざした歴史でもあり、ビジネスパーソンはその数字を追いかけることに必死になってきました。それは今も変わりません。

 

しかし、会社が持つ人材の価値は未だ貸借対照表には載っていませんし、売上や利益・ROEといった指標以外に、その企業が社会に果たしている役割について明示できないことは多い。

 

売上や利益などの数字はどうでもいいなどと言っている訳ではありませんが、バレエと同様、企業においても答えがすぐには出てこない、数字に表れない価値にもっと目を向ける必要があるのではないでしょうか。

 

ピルエットがバレエを構成する要素のごく一部であり、真の価値は総合的な美しさの表現であるのと同様、企業においても売上利益といった数字はもちろん大切だけれど、社内の人材や社会に与える影響をも含めた優れた企業活動をめざすという、答えがすぐには出てこない問いに真摯に向き合う姿勢、そういう態度こそが企業が社会に存在する本質的価値を追求していくことになるはずです。

 

 

日々の業務や会社運営を可能な限り論理的かつ科学的にできないかと考えて、行動経済学に注目してきました。

心理学や脳科学の知見も取り入れた裾野の広い分野で、日々の業務に参考になることが結構あります。

 

「集合知」もその一つです。

 

集合知に関する論文は数多くありますが、科学雑誌「ネイチャー」に発表されたこんな実験があります。

 

5000人の参加者に対して課題(正解あり)を与えます。

先ず一人ずつ考えてもらい、その後4~5人のグループ討論をした後に回答させると、平均値は正解にぐっと近づきます。

 

この実験、全体の人数をいろいろ変更して試してみると、最も平均値が高いのは20人の場合です。

 

20人の集団で、先ず一人ずつ答えを考えさせた後に5人ずつ4グループになって討論した上で回答させると、5000人の場合より平均値がほぼ常に上回るのです。

 

ちなみに、グループ討論の後でメンバーをシャッフルして再びグループ討論させると、5000人の場合も20人の場合も成績はさらにアップします。

 

ただ、20人より多い人数で課題に取り組んでも平均値が上がることはありません。

 

これはどういうことか?

一つの事に取り組ませるならば、合計20人程度に共通の目標を持たせ、実際の運営では4~5人ずつのチームに分ける。

時々はチーム間で人事異動を行ってメンバーをシャッフルする。

そうすれば最高のパフォーマンスを発揮する可能性が高く、20人を超えて人材を集めても人的リソースの無駄になる可能性が高い。 ネイチャーの実験はそう語っています。

 

実際の業務においても、4~5人を超えるチームを作ると一体感を保てないチームが出てくる可能性が高いですし、合計50人や100人の集団が共通目標を同じような熱量で持つことも難しい。

 

4~5人のチームで合計20人程度が共通目標を持てばいい、というのは実感としても肯けます。

 

さらに、時々チーム間の人事異動をすることで適度な刺激やチーム相互間の知見交換が行われることで、より高い成果を挙げやすくなる可能性が高いのです。

 

実際の業務運営に参考になる知見ではないでしょうか。

 

当社でもメンバーの共感を得ながら実施を検討しているところです。

就活の時期になると「就職人気企業ランキング」なるものが発表されます。

 

調査を実施する企業によって多少の違いはありますが、ほぼ似たような有名大手企業が名を連ねます。

 

この「就職人気企業ランキング」について「ラーメンを食べたことがない人による人気ラーメン店ランキングと同じ」と言った人がいますが、私も同感です。

 

就活では、人気企業ランキングもそうですが、当たり前に行われていることだが、よく考えると理解しづらいことが多い。

その一つが、就活する学生が当然のように行う「先輩訪問」です。

 

学生の多くが、就職を希望する会社に在籍する先輩を訪ねて話を聞いています。

企業側から積極的に先輩を派遣するケースもあります。

この先輩、たいていは大学卒業後10年以内の若手です。 

兄貴・姉貴といった年代の方が学生にとって話しやすいのは事実でしょう。

 

でも、よく考えてほしいのですが、もしもあなたが「フルマラソンにチャレンジする」ことを決意したら、まずはどうしますか?

 

練習するのはもちろんですが、マラソンを完走したことのある人から経験談や練習方法・教訓を聞こうとするのではないでしょうか。

10km走やハーフマラソンしか経験したことのない人からマラソンの魅力について得々と語られても「あまり参考にならない」と考えますよね。

 

ところが就活の場面では、マラソンに例えれば5kmか10kmしか社会人人生を走ったことのない人たち(先輩)を訪問して熱心に話を聞き、自らの人生を左右する最初の決断をしようとしているのです。

 

しかも、誰もこれをおかしいと思わない。

 

こうなってしまう理由は二つあります。


一つは、ネットや就活本・SNSなどで仕込んだ悲しいほど定型的な「就活はこうすべき」という情報に基づいて活動しているからです。

 

現代の日本人は、江戸時代の人が1年に得る情報を1日で取得していると言われるほど溢れんばかりの情報を得ているだけに「自分は、充分な情報に基づいて自らの判断で意志決定している」と考えがちですが、実際にメディアで流れている情報の大半は「できるだけ多くの受け手がほしがる情報」が選択的に選ばれています。 

 

メディアも営利企業ですから、ある意味当然の行動で、「至言」であるよりも「多くの人たちが飛びつきそうな情報」を流す方が「カネになる」のです。

 

IT時代になって、スマホやPCの画面に表示される情報は(多く見られるほど広告主も増えますから)ますますその傾向が強くなっています。

 

ところが受け手の側はそういう事情を勘案せずに、ネットや就活本などのメディアを通して流れてくる情報、それらの情報に基づいて発信されるSNS等を盲目的に「信じてしまう」・・・そして、請け売りの情報であることに気づかないまま「自分自身が主体的かつ自由に判断した」つもりになってしまうのです。

 

誰もが先輩訪問をしている(と周囲の誰もが言っているから)先輩訪問をする、そういうことです。

 

二つ目の理由は、「就職するモチベーション」が高すぎて「仕事をするモチベーション」を持つことの重要性に気づけないことです。

 

私自身の学生時代もそうでしたが、学生の多くは「就職するモチベーション」は高いが「仕事をするモチベーション」があまり感じられない。 というか、「人生を通して仕事をしていくということはどういうことなのか」について、学校でも家庭でも、たぶん誰からも教えられたことがないのです。

 

当たり前ですが、キャリア=仕事人生というのは就職先が決まったところで「終わる」のではなく、そこから「始まる」ものです。

 

転職や起業したとしても、ほぼ大半の人が30年・40年と「仕事」を続けていくはずです。


20代前半で仕事を始めて、30年40年と仕事をしていくためのモチベーションはネットや就活本のリクルート情報では得ることができません。

 

でも、就職するモチベーションばかりが高いから、そこがゴールであるかのように考えて、最近就職した先輩の話を聞いて事足れりとなってしまう。 これが二つ目の理由です。

 

 

社会人としての人生は起伏のある道を走り続けるマラソンと同じです。

 

だとすれば、マラソンを走ったことのある人からこそ話を聞くべきではないでしょうか。


(マラソンを走ってきた)人生のベテラン達から話を聞く方が、5kmか10kmしか走っていない少しばかり年上の先輩の話よりも圧倒的に意味がある。 私はそう思います。

 

聞く相手は企業人に限る必要はありません。

 

多様な職業の多彩な人生のベテランから話を聞くことが、社会人としての生き様や人生を考える上で大いに役に立つはずです。

 

親戚や近所のおじさん・おばさん(おじいさん・おばあさん)に聞いてもいいし、学校のOBならば、就職した会社を既に退職したくらいの人に聞いてみてもいいでしょう。

 

時には年配者の自慢話を聞かされるだけに終始することもあるかも知れませんが、その時は聞き流していればいいし、そういう話の中からも得るものはあるはずですよ。

 

繰り返しになりますが、就職はゴールではなくスタートラインにつくことです。

そして仕事人生は、これから30年40年かけて走ることになるマラソンです。
 

一人でも多くの人生のベテラン(マラソン走者)の話を聞いてから、自らのマラソンを始めてみませんか。

 

まだマラソンは完走していないけれど(ハーフ以上は走ってきた)おじさんからのアドバイスです。

京都・龍安寺の石庭が世界的に有名になったのは、イギリスのエリザベス女王が1975年に来日した際に同寺の見学を熱望し、石庭を絶賛したことが世界中のマスコミに取り上げられたのがきっかけだそうです。

 

龍安寺には何度か訪れて、庭をながめて過ごしたことがあります。

 

水を感じさせるために、あえて水を抜くという「引き算の美学」に触れ、15個の大石と無数の小石からなる石の庭を静かに眺めていると、いろんな想いが頭の中に浮かんできて自らを静かに振り返ることができる。 

それが龍安寺・石庭の魅力ではないかと思います。

 

龍安寺の石庭は「動かない」からこそ、深い思索へと誘うのではないでしょうか。

 

これは優れた写真や絵にも通じるものだと思います。

 

単にデジタルな情報量だけを取れば、写真や絵よりもテレビや映画・YouTubeなど映像の方が多いに決まっています。

しかし、映像より圧倒的に情報量が少ないはずの「動かない」1枚の写真や絵が、時として映像よりもはるかに多くのことを語りかけてきます。

 

映像はその中に自らが没入するような感覚になるのに対して、すぐれた写真や絵・石庭など(動かないもの)をながめていると、いつのまにか自分自身が今いる場所から離れて、さまざまな考えを巡らせ、言わば思考の旅に出たような感覚に陥ることがあります。

 

仏教に「止観」という言葉があります。

精神を集中し心を静寂にして(止)対象をありのままに観察する(観)ことで正しい思索を得るという考え方で、「止」と「観」は互いに不離の関係にあるとされています。

 

忙しさの中に身を置いていると、こうした感覚を味わう時間を持つことが難しい、動きながら考えることを余儀なくされている、そう思いがちですが、止まって観ることはすこぶる重要で、「会話」や「討議」も大切ですが、立ち止まって静かに思索する、そういう時間でこそ得られるものが絶対にあるはずです。

 

故スティーブ・ジョブズなど、経営者の中に禅の世界に身を置く人がいるのも、そのせいではないかと思います。