2011年に公開された「セデック・バレ」という台湾映画があります。

 

1・2部合わせて4時間を超える大作で、日本が台湾を統治していた時代に起きた、台湾先住民・セデック族による日本人虐殺事件(霧社事件)を描いたものです。

 

セデック族が抗日蜂起事件を起こした背景には「働くことの意味」をめぐる、統治側の日本人との決定的なずれがありました。

 

セデック族は狩猟の民であり、太古の昔から森で獣を狩って暮らしていました。

 

狩猟というのは、労働であり身体鍛錬であり神事でもある、さらには楽しみの要素もある・・・これらが渾然一体となった実に複雑な営みです。

 

獲物を仕留めることは、食料の確保であると同時に高い身体能力を持っていることの証であり、恵みをくれた森の神に感謝する宗教的な想いへもつながります。

 

豊かな獲物を村にもたらした若者は刺青を入れることを許されて一人前の男として遇される、という伝統が連綿と続いてきたのです。

 

ところが、植民地化されたことで、こうした生活は破壊されてしまいます。

 

村人は狩りを禁じられて、森から木材を伐採する日本人製材業者の下で働く賃金労働者にされてしまいました。

神聖だった森は製材原料を切り出すだけの「ただの森」になってしまい、日本人から「未開人」扱いされ、見下されながら賃労働をする日々が続く。 

村の集まりに日本人を誘っても「不潔だ」と言って近寄ろうともしない。

 

こうした現状に絶望して、ついに彼らは蜂起し、結局は壊滅させられます。

 

セデック族の人々にとって、狩猟と賃金労働はまったく異なるものでした。

 

本来まったく異なるものを同じ「働く」という一つの言葉にしてしまうことはできないのですが、日本人植民者たちは、セデック族がただ単に食料や毛皮を得るために狩りをしているのだと思った。だから、生活用品を買えるだけの貨幣を稼げるなら、どんな仕事でも同じだろうと考えた。

それどころか、日々の運不運にも左右される狩猟と異なり、毎月確実に決まった貨幣が稼げる仕事につけてやったのだと考え、狩猟がいくつもの重層構造を持つ深い文化的な営みであることを全く理解できなかったのです。

 

私たちは「働く」という言葉を、その意味を熟知しているかのように使いますが、「働く」という言葉の意味を本当に理解していると言えるのでしょうか。

 

日本の農村部でも、かつて「稼ぎに行ってくる」というのは賃労働に出かける、すなわちお金のために仕事をすることを意味していました。

 

農作業もまた自然と向き合いながら、土をつくって耕し、農道や灌漑など自分たちの環境を整備する、そして収穫の時期には神に感謝を捧げる祭礼を行う・・・仕事は日々の暮らしそのものと不可分でした。

 

これに対して「稼ぎ」は決して人間的な仕事を意味しておらず、「お金のためにしかたなしにする労働」だったのです。

 

 

何が仕事で何が賃労働なのかは客観的に決められるものではないと思います。

 

属している共同体によって定義が異なるものだからです。

 

その定義=仕事をするインセンティブによって、その共同体が意味づけられると言ってもいいのではないでしょうか。

 

それは現代の企業社会でも実は全く同じなのだろうと思います。

 

ちなみにセデックというのは「真の人」を意味するのだそうです。