10月24日付け日経朝刊に広告掲載されていた月刊誌の見出しにこう書かれていました。

 

「祝 高市総理!! 早苗の敵は日本の敵!」

 

そう考えている人は少なからずいるでしょうね。

 

オルテガ・イ・ガセットという哲学者・政治学者がいます。

西部邁など日本の保守論壇にも大きな影響を与えた人物です。

 

そのオルテガは「民主主義・自由主義の本質は、少数の不愉快な敵をも尊重し共存することである」と語っており、けだし名言だと思います。

 

敵が多数派ならば、戦わないのであれば共存するしかありませんが、少数の不愉快な敵ならば無視することもできるし、叩き潰すこともたやすい。

それでもそうするのではなく、存在を尊重し共存することが民主主義・自由主義というものだ、と言っているのです。

 

政治討論番組などで反対意見を述べる人に対して「そんな奴は日本人じゃない」などと言っている人がいますが、自分と異なる意見を完璧に否定して売国奴呼ばわりする考え方って民主主義・自由主義とは相いれないのではないでしょうか。

「高市さんの敵」は、あくまで「高市さんの敵」であって「日本の敵」と呼ぶのはどうなんでしょう。

 

もしも前述の月刊誌が主張する状況に世の中全体がなったとすれば、北朝鮮とさして変わらないのでは、と感じてしまうのは私だけでしょうか。

 

たとえ高市早苗総理がどんなに素晴らしい政治家で、どれほど優れた業績を挙げたとしても、国民全員が総理を賛美するのではなく、それでも高市総理に反対する人々がいて、そうした人々の発言や存在を否定されることがない。

 

私はそんな国に住みたいと思いますし、日本はまだそういう国であると信じたいとも思っています。

作家の司馬遼太郎に大岡昇平、俳優の池部良。

この三人はいずれも陸軍軍人としての経歴を持っています。

司馬さんは満州で戦車隊の小隊長をつとめ、大岡さんはフィリピンでマラリアに罹って昏睡状態で倒れていたところを米軍の捕虜となり、英語の話せた池部さんはインドネシアで終戦を迎えた際に、進駐してきた豪軍との交渉役を担っています。

 

戦後、折に触れて、それぞれのスタイルで戦争や軍隊を語っています。

表現方法は三者三様ですが、共通して語っていることがあります。

 

それは「日頃『大和魂を持て!』とか『八紘一宇』など勇ましいことを言って周りを鼓舞している人に限って、いざ窮地になると使い物にならなかったし、日頃勇ましい上官に率いられた部隊もいざという時には本当に弱かった」という内容です。

 

三人とも、その理由を述べていませんが、分かる気がします。

 

日頃勇ましい発言をする人は、ほぼ例外なく「怒っている(ように見える)」人です。

人間は「怒っている」というだけで周囲の注目を浴びますし、日常的にそういう態度を取っている人の周辺には、どうしても忖度する人々が集まるようになって上意下達型の組織ができあがる。

 

イケイケドンドンの時はそれでもいいでしょうが、本当にいざ!という局面においては上意下達では切り抜けることができません。

船が沈みかけている時に、各部署の担当者がいちいち船長にお伺いを立てていたらどうなるか、少し考えるだけで分かりますよね。

でも、怒っている人がトップにいる組織では、そういう時ですら「あとが怖いから(あとなんてないかも知れないのに)」とトップの顔色を見てしまうことが多いものです。

 

太平洋戦争時のアメリカ海兵隊が前線指揮官に配布した、日本軍の特徴を記した冊子がワシントンの国立公文書館にありますが、そこには「日本軍は最初に決めた方針がうまくいっている時は、たいへん強い。だが意表を突かれた形で反撃されるとあっけないほど脆い」と書かれています。

 

上意下達を徹底させようとし、精神論で戦うことを強いたと言われる日本軍の特徴を、相手方はそう見ていた訳です。

 

高度成長期の快進撃を経て、予想外のバブル崩壊に直面した後、失われた30年に見舞われた日本経済・日本企業のことを言われているような気もします。

 

そもそも、人間は本気かつ真剣に考えている時は、怒鳴り声をあげたり、叱責するということをしません。しないというよりはできない。

自らの内面と対話するので、もっと内省的な言葉づかいになるはずです。

組織や事業の事を真剣に考えて最適解を出そうとすればするほど、怒ったり気合を入れることで周囲を鼓舞したりはしないし、できないのです。

 

そもそも論理的かつ情理を尽くして丁寧に説明されれば、たいていの人は理解できる力を持っています。

「怒る」という行為は、力(威力・権力・圧力)で物事を解決しようとし、丁寧かつ情理を尽くすというプロセスを回避するためのものだと思います。

 

カリスマ経営者が力で統治する企業が、良い時はグングン成長するのに、何か起きると一気にダメになることが多いのも、このあたりに理由があるのではないでしょうか。

 

企業ならまだ被害は少ないですが、私が心配するのは、世界中で「怒っている(ように見える)」指導者が率いる政党が人気を集め、いくつかの国ではそういう人がトップになっていることです。

 

怒っている人は力を笠に着ているので力強く見えやすいのは事実でしょう。

 

でもそれはすごく危険な兆候のような気がします。

所在地名からウエストポイントと称されるアメリカ陸軍士官学校は、200年を超える歴史を持ち、競争率10倍以上という入学の難しさと、厳しい訓練ゆえに途中でドロップアウトする者が少なからずいることでも知られる、エリート軍人養成校です。

 

ここに入学した学生たちの志望動機には「国に貢献したい」「国民を守りたい」「愛する家族を守りたい」といった士官学校ならではと思えるものや「優れた技能や知識を身につけたい」「将官に出世して偉くなりたい」といった上昇志向を示すものが多いのですが、中には「軍隊が楽しそう」「面白そう」といったものもあります。

 

志望動機は大きく「手段動機」と「内発的動機」の二つに分けることができます。

士官学校の場合、最初の5つは全て手段動機で、「楽しそう」「面白そう」が内発的動機です。

最初の5つをなぜ「手段動機」と呼ぶかというと、エリート軍人になることがその動機を達成する手段だからです。

国に貢献するのは軍人以外でも可能です。

公務員や消防士・弁護士・医師・ビジネスパーソン・・・どんな職業を通じても国に貢献することはできる訳で、ウエストポイントへの入学は「エリート軍人になること」が自分の目的や野心を達成する上で最も有効な「手段」だと考えているということです。

 

同校には、過去数十年に渡る学生たちの志望動機が保管されています。

こうした志望動機と学生たちのその後の進路に何らかの関連性があるかを研究した調査結果が、エール大学のエイミー・ヴェジェスニエフスキー博士によって発表されました。

誰が厳しい訓練を乗り越えて修了できたか、誰が軍功を挙げたか、誰が将官にまで上り詰めたか・・・といった職業軍人としての成功と入学時の志望動機に関連性があったかどうかを徹底的に追跡調査したのです。

 

その結果、手段動機と内発的動機、入学時にいずれを持っていた学生がその後優れた足跡・業績を残したか。

 

実は「内発的動機=軍隊生活が楽しそう・面白そう」を挙げた人たちが圧倒的に高い成果を残していたのです。将官にまで上り詰めた比率もきわめて高かった。

一方で、一人で数多くの手段動機を挙げた人ほど、その後は鳴かず飛ばずの結果になってしまったケースが多かったのです。

 

「仕事、ましてや軍人になるのだから崇高な動機を持っているのが当然ではないか」「エリート軍人になるのに、楽しそう・面白そうといった軟弱な動機でいいのか」というご指摘もあろうかと思います。

 

でも「楽しそう・面白そう」というのは心の内側から湧き上がってくる感情であり、理屈は不要です。

 

脳科学の知見によれば、物事に取り組むにあたって生死に関わる事以外は「楽しそう、面白そうだから」というのが最も根源的で本能的な動機だと言われています。

一方で、やるべき真っ当な理由を理論武装する(しなければならない)のは、実は「心からやりたい!」と思う内発的動機が弱いから、ともいえるのです。

 

手段動機を数多く挙げて自分の内なる声に気づかない(気づいても言わない)人がその後うまくいかなくなる事が多いのは、ある意味当然なのかも知れません。

ウエストポイントに関するエール大学の調査データが示しているのは、そういうことなのです。

 

企業の面接試験でも、おそらくほとんどの面接官が「当社への志望動機は何ですか」と訊きますよね。

でも、面接の場でこういう質問をしても返ってくるのは「社会貢献がしたい」「海外で活躍したい」「自分の力を試したい」・・・等々ほぼ手段動機のはずです。

「楽しそうだから」というような動機を挙げる人にはまずお目にかかれないでしょう。

 

でも、手段動機の大半は、その会社(組織)に入らなくても達成できる可能性が高い。

それだけに手段動機を前面に出して入社した人は、その後「何か違う」と感じた時にあっさり脱落してしまうことだってあり得るのです。

 

論語に「之(これ)を知る者は、之を好む者に如かず、之を好む者は、之を楽しむ者に如かず」という一節があります。

いくら知識がある人でも、好きでやっている人にはかなわない。好きでやっている人は、楽しんでやっている人にはかなわない。という意味で、「知好楽」と称されて学問や仕事に対する姿勢を語る事例として挙げられることの多い一節です。

はるか昔、紀元前に生きた孔子も「楽しんでやれる者が一番すごい」と認識していたのです。

 

「仕事が楽しい」と言う企業経営者は少なくありません。

自らが信じる目的を掲げて日々邁進する日々ですから楽しいと感じるのは当然でしょうし、トップが楽しいと思わなければ社員もついてこないでしょう。

ただ、自らが「楽しい」だけではなく、社員が仕事を「楽しい」と感じているかに想いを馳せている経営者は必ずしも多くないように見受けられます。

自分の掲げる「会社の目的」に社員もついてきて当然、という態度の方も少なくありません。

 

多くの企業経営者が社会的に意義ある目的を掲げます。

それ自体は素晴らしいことです。

目的遂行のために、企業業績を挙げるという目標も、もちろん必要です。

 

しかし、日常業務において社員の多くが「楽しさ」や「やりがい」を感じられなければ、やがて会社の目的達成が日々の業務を支配し、目的合理性が最優先されるようになってしまうでしょう。

それはいずれ目的達成のための手段の正当化をもたらし、手段の正当化は必ず何らかの犠牲をもたらす蓋然性が高い。

 

名だたる有名企業で、優れた資質を持っていたはずの社員たちが「目的達成のために」あとさき考えず不正に手を染める事案がなくならない理由の一つがここにあるのではないかと思います。

 

人工知能と人間の脳に関する比較研究をしている脳科学者の池谷裕二氏は「今やAIは多くの分野で凄まじい性能を発揮するようになっている。しかし、人間の脳にあってAI(人工知能)に決定的に欠けているもの。それは作業を『楽しむ力』です」と言っています。

 

今後AIは、今ある仕事の多くを代替するようになっていくでしょう。

そうした局面で人間は何をすべきなのかと考えると、AIに決定的に欠けている「楽しいと感じられる能力を活かす」というのは一つの大きな解に成り得るはずです。

 

「仕事を楽しく、なんて綺麗ごとだ」と言う方もいるかと思いますが、人間の感情や心理を正しく理解するならば、自社のスタッフが仕事や職場を楽しめているかを考え、どうしたら少しでもそういう状況になるのかに想いを馳せてみることは、現代の企業経営者にとって極めて重要なことではないでしょうか。

 

スタッフの多くが「楽しく」仕事をしている会社であるならば、「楽しそうだから」

という理由で入社を希望する人も増えるでしょう。

ウエストポイントの調査結果は、そういう人が多くなればなるほど成果が挙る可能性が高い、ことを示しているのです。

第二次大戦末期、敵に自爆攻撃を仕掛けた特攻(特別攻撃)をご存じだと思います。

 

実はドイツでも第二次大戦中に特攻が行われたことがあります。

日本のカミカゼ攻撃を知ったドイツ空軍のハンス・ヘルマン大佐が提案したもので、当初、ゲーリング空軍司令官やヒトラー総統は「単なる自殺行為としか思えない」と否定的でしたが「戦況を打開できる可能性がある」と主張するヘルマン大佐に押されて「自由意志で行われるならば」と計画が承認され、部隊が編制されて実際に特攻が行われています。

 

しかし、養成コストのかかるパイロットや高価な機体がほぼ100%の確率で損耗する一方、損失に見合った戦果を得られないことが分かった結果、特攻はすぐに取りやめになりました。

 

日本でもパイロット養成費用や機体のコストと、挙げうる戦果の計算はされていて「間尺に合わない」ことは分かっていました。

しかし、当時の海軍航空参謀で戦後参議院議員になった源田実氏は「当時の空気として、一度始めた特攻を途中で止めようと言い出すことはできなかった」と述べており、終戦まで特攻は続けられました。

 

4044名もの将兵が犠牲になったのが戦艦大和の特攻出撃です。

沖縄及び周辺の海に展開する米軍に大和を突入させ、あわよくば乗組員を陸戦隊として上陸させようという計画で、当初海軍部内の検討会議では「制空権を握られている海域に大和を突入させるのは無謀で戦果も期待できない」とされましたが、結局計画は遂行され、目的地に着く以前に米軍航空機の猛攻によって大和以下6隻の艦船と4千人以上の将兵が海中に消えました。

 

当時の海軍軍令部次長・小沢治三郎中将は、戦後文藝春秋のインタビューに応じて「大和の特攻が無謀であることは分かっていたが、当時の空気からしてやらざるを得なかった」と述べています。

 

空気・・・

緻密な計算や論理を越えた「場の空気」が、人々に死を受容させるほどの力を持つのです。

 

「空気の研究」の著者・山本七平氏は「和を持って貴しとなす日本では、突出して『空気』に配慮する傾向が強い」と述べています。

 

現在でも「アイツはKYだ(空気を読めない)」と言われるのは基本的に否定的な意味ですから、「空気」は今なお社会を支配しているのです。

 

日本人が突出して「空気』に配慮するのだとすれば、それはなぜなのか。

 

太古の昔から自然災害の多かった日本では、共同体が助け合って暮らす必要があり、個人の身勝手なふるまいを許さない方が結果的に全体の生存率を高めることにつながり、空気を読むことに一定の合理性があったのではないでしょうか。

 

日本人の「場の空気を大切にする」特質は、高度成長期には大いにプラスに働きました。

 

日本が高度成長を続けた1960年代から70年代は大量生産が中心で、工場など大きな組織を一糸乱れず効率よく運営していくためには、上意下達や報連相に大きな意味があったのだろうと思いますし、空気を読んで働いてくれる社員の存在は団体戦を勝ち抜く上で強力な武器でもあったのでしょう。

 

しかし産業構造が変わり、創造性や独創性が問われる現代のビジネス社会にあって、必要以上に「空気におもねる」ことは、発展を阻害する大きな要因になります。

 

創造性や独創性というのは現状を打破することであり、誤解を恐れずに言えば「空気を読まない」からこそ生まれ得る、と言っても過言ではありません。

しかしながら、いまだに上意下達を当然とし、報連相をやかましく言う会社では「空気を読まない」人が出てくる余地はあまりないだろうと思われます。

 

酒席などでサラリーマン同士の会話を聞いていると「本当は反対だったけれど、あの場の空気ではああ言わざるを得なかった」といった類の話が結構な頻度で語られています。

 

自分が正しいと思ったことを言い出せない「空気」は、現代の企業社会にも根強く存在しているのです。

 

だからこそ、良い意味で「空気を読まずに進める人」が現代の企業やビジネスに求められていることを認識し、「空気を読まない言動が許される『空気』を作ること」が、企業トップの役割の一つでもあろうと思うのです。

 

そもそも企業社会において「空気」を形成する最大の要因はトップであることが多い。

トップにモノ申せない空気・反対できない空気を持つ組織もあれば、自由闊達で風通しのいい組織もあります。

 

私が知り得る中で、自由闊達な空気を創ることに長けた経営者は(いずれも故人ですが)リクルートの江副浩正氏と未来工業の山田昭男氏です。

 

江副氏は役員等の幹部社員には厳しかったですが、若手社員からの提案を(それも新人など若手であればあるほど)歓迎し、多少粗削りなものであっても積極的に耳を傾け「何とか実現させてやれないか」という態度で接していました。

 

山田氏は「報連相は不要、自分で考えてやってみろ」と唱え、徹底して自分で考えることを要求すると共に、大きな予算を伴うものでない限りは個々人が自由に試行錯誤することを奨励していました。

 

リクルートも未来工業も創業者であるお二人亡き後も成長を続け、新規事業を生み出し続けているのは、お二人が「自由闊達な言動を良しとする『空気』を創っていた」からではないかと思います。

 

業種や経営者の個性によってやり方は様々であっていいと思いますが、独創性や創造性を必要とする現代のビジネスにおいて「空気を読まない『空気』を創る=空気をマネジメントする」ことの重要性が、もっと認識されていいのではないでしょうか。

 

現代のビジネス社会では、そこに経営者の存在意義が問われてもいるのです。

 

空気に支配されがちなのが日本人の習性なのだとすれば、それを良い方向に使えばいい(空気をマネジメントすればいい)のですから。

デザイナーのクリスチャン・ディオールが「最も完成度の高い服とは?」と聞かれた時にこう答えたそうです。

「デザイナーやパタンナー・縫い子・販売員・消費者、それぞれに『この服は誰のものか』と訊ねた時、全員が『私のもの』と答える服、それが最も完成度の高い服である」

 

ある経営コンサルタントが、この逸話を紹介しながら「関わる全ての人間が『このチーム・組織は自分のもの』と答えられるのが最高に優れたチーム・組織である」と語っているのを読んだことがあります。

 

いい話ではありますが、私は全面的に賛成・・・ではありません。

 

チームや組織が素晴らしい業績・成果を挙げている時には、関わる多くの人が上記のような発言をすることは間々あります。

かつてiPhoneが衝撃的なデビューを飾った時、日本の部品メーカー各社が「iPhoneを支えているのは、実は我が社だ」といった発言をしていたことがあります。

チームや組織が優れたパフォーマンスを発揮している時は、わずかな貢献しかしていない人であっても「私はチーム・組織の一員だ。この業績・成果に私も一役買っている」といった類の発言をするものです。

 

しかし、いかなるチーム・組織も良い時ばかりではありません。

 

大きなトラブルが発生したり、下り坂になることもあるでしょう。

 

そんな時にこそ「こうなってしまったのは(このチーム・組織に属していた)自分にも責任がある」と思って行動できる人が少なからずいる。これこそが優れたチーム・組織ではないかと思うのです。

 

人は、上り調子の時ではなく、トラブルに遭遇した時・下降局面においてこそ真価が問われます。

 

チームや組織がうまくいっていない時にトップが責任を感じるのは当然です(そうでない人もいます)が、メンバーの中に一人でも多く「自分にも責任がある」と感じて行動できる人がいるかいないか、そういうメンバーを生む土壌があるかどうかが、チームや組織の価値を決めるのではないでしょうか。

 

 

今や世界中で民主主義が危機に瀕していると言われます。

欧米では極右が存在感を示すようになり、極右リーダーの大半はロシアのプーチン大統領(のような専制政治)にシンパシーを感じているようです。

 

民主主義というのは決して効率が良いシステムではありません。

調子がいい時の独裁制(専制政治)は実に効率よく発展・前進します。

何しろ意志決定が速いですから。

 

だから国勢に陰りが見えている国や、経済的に不調に陥っている国・貧富の差が激しくなっている国(多くの西側諸国が該当します)では、「この現状を一気に打開してくれそうな」強いリーダーに任せようという機運が高まりがちになります。

 

第一次大戦で敗北を喫し、厳しい不況で社会不安に陥ったドイツはヒトラーを輩出し、彼の下で国力は一時高まったかに見え、第二次大戦の緒戦では連戦連勝を重ねました。

 

でも、どんな大国もいつかは下降局面に遭遇します。

成功し続けた国家など歴史のどこを探しても見つかりません。

 

そして、歴史が教えるのは下降局面に遭遇した時に独裁制は弱い、ということです。

 

「トップは全能である」という前提で構築されているシステムでは、現場の自己判断で勝手なことはできません。

でも、大きな危機や下降局面というのは、中枢でコントロールすることができないくらい同時多発的にトラブルや不調が起きているからそうなったのであり、現場が自発的に判断してトラブルや不調に対処する仕組みでないと対応できないのです。

 

独裁制は、下降局面に入った時に反対派が勢いづくことはあっても、体制内に「こうなった原因は自分にもある」と考えて行動できる人物が(独裁者が自分から言わない限り)まず誰もいません。

 

トラブルに遭遇したり下降局面になった時に「私はやらされただけ」と発言する人物が組織的に出てくるのが独裁制であり、「自分にも責任がある」と考えて行動を起こせる人物を、たとえわずかではあっても輩出する可能性があるのが民主主義なのだろうと思います。

 

民主主義は市民の成熟から大きな利益を得るシステムであり、独裁制はそうではないのです。

 

独裁制(専制政治)と民主主義の違いは突き詰めればこの一点にあります。

 

企業運営は必ずしも多数決で進められる訳ではありませんが、それでもトップダウン型運営の問題と自立したメンバーの意義について考える時、独裁制と民主主義の相違から得られる教訓があるように思います。

 

伸びている企業にオーナー企業が多いのは事実です。

でも、産業史を振り返ると、一旦問題が起きた時にガタガタになるのが早いのもまたオーナー企業だったのです。

 

経営者が圧倒的に大きな力を持ち得ているのだとすれば、全能の神のように自由にふるまうことにその力を注ぐのではなく、民主主義にありがちな「意思決定の遅さ」を克服しながらも、社員一人一人が成熟かつ自立したメンバーに育つことができる、そういう環境作りにこそ最大限の力を注ぎこむべきではないでしょうか。

「言いたいことがあるなら、はっきりと言え」「もっと分かりやすく明確に述べろ」

 

学校や職場で、教師や上司からこんな叱責を受けた経験はないでしょうか。

自分自身はなくても、誰かが怒られているのを見聞きした経験ならば、おそらく大半の人が思いあたるでしょう。

 

教師や上司のこうした発言に疑問を呈する人はあまりいないかと思いますが、私は、人にモノを言う時は「明確な論旨ではっきりと言うべきである」という、一見まともに思える考え方の過剰なまでの跋扈が、学校や企業から創造力を奪っている可能性があるのではないかと考えています。

 

私自身は人より声が大きいとよく言われますし、人前でもあまり臆せずに話ができる方だろうとも思います。

それでも何かまったく新しいアイデア、それもアイデアの卵のようなものが浮かんできた時などは、それが本当に自分自身の内から湧き出てきた斬新なものであればあるほど、誰かに説明しようとしても、まだ輪郭の定まらない思考がぐるぐると頭の中を巡っているので、なかなかズバリと明確な表現にすることができません。

 

自分も含めて誰も口にしたことがないような斬新なアイデアが生まれそうな時は、それを言葉にしようとしても、一つのセンテンスができあがるまでだってかなりの時間がかかることがあるし、時間をかけてもセンテンスが終わらないこともある。

 

本当に創造的なアイデアが浮かびそうな時ほど、なかなか「大きな声ではっきりと論理的に」は話せないものなのです。

 

それは、誰かの請け売りではなく、本当に自分自身の心の底・脳の奥底で生まれつつあるものを引っ張り出そうとするから起きる現象であり、それを「大きな声で、はっきりと話せ」と言われても難しい。

 

そんなことができるのは、たいていの場合、出来あいの意見を引っ張ってくるからです。

 

誰かが言ったことを記憶していて再生するだけなら、誰でも大きな声で、はっきりと言えます。

経験上、人が過剰に断定的になるのは、その意見が請け売りである証拠だと言い切ってもいいと思います。

 

誰かが小さな声でモゴモゴと語りだす時、実はそこにはとんでもなく素晴らしいアイデアが隠されているかも知れないのです。

もちろんそうではない可能性だってあるし、おそらくそうではない可能性の方が圧倒的に高いのかも知れませんが、千に一つでも素晴らしいアイデアが潜んでいるのだとすれば凄いじゃないですか。

 

そんな事は最後までじっくり聞いてみなければ分からないし、聞いてみても分からないかも知れない。

古今東西、科学でもビジネスでも「ものすごいアイデア・発想」の多くは、当初は周囲の人たちから馬鹿にされていたのですから。

 

でも、小さな声でもごもごと話し始めた人を頭ごなしに否定していては、千に一つの可能性さえも潰してしまうことになる。

だからこそ、学校でも企業でも、小さな声でもごもごと話し始めた人を叱責してはいけない。

そこには、素晴らしく創造的な何かが隠されている可能性があるのです。

 

小さな声を(こそ)しっかりとすくい取る。

 

教育やビジネスの場において、誰かが小さな声で自信なげに語りだした瞬間を、教師や上司は見逃してはいけない。

それはその人が「真に自分自身の言葉」で語り始めた兆候であることが多いからですし、そこには千に一つかも知れないけれど、素晴らしく創造的な何かが潜んでいる可能性があるのです。

 

小さな声でもごもごとでもいいから、何かを語り出したら、それを見逃さずに聞き取ろうと耳を傾けてくれる人がいる。

そういう環境を創ることもまた、教師や上司の役目なのではないでしょうか。

7月の都知事選、ポスター掲示板や選挙公報を見て暗澹たる気持ちになった人は少なくないのではないでしょうか。

「言論の自由」という名の下に、都知事選とおよそ無関係な写真・文面が並ぶポスターを子供が見ているのに出くわすと、申し訳ない気持ちにすらなりました。

 

民主主義が危機に瀕しているように見えるのは日本だけではありません。

立場の違いが、論争を超えて互いに相手を罵り合うまでになった二項対立の激しさや、排他的で自国中心主義の指導者を選ぼうとする動きが各国で勢いづくなど、民主主義を標榜する国々が揺れています。

 

角川ソフィア文庫に「民主主義」と題した一冊があります。

昭和23年から28年まで「民主主義の教科書」として中学高校で使われていたものを全文復刻したものです。

 

教科書といっても文庫本で400頁を超える分量があり、学術書の趣さえあります。

 

教科書ではありますが決して上から目線になることなく、中学・高校生に「民主主義とは何か」を理解してもらおうと、情理を尽くした丁寧な文章で書かれており、(この本の解説でも指摘されていますが)構成がしっかりしていて論理が明確なので、現代の我々大人が読んでも「なるほど、民主主義というのはこういうものだったのか」という気づきがある、きわめて優れた書物になっています。

 

この本は米国占領下にGHQから「民主主義とは何かを教えよ」という指示によって文部省が作成したものですから、基本的に米国型民主主義を範としていますし、GHQの意に添う内容でなければ検閲を通りませんでした。

 

それでも共産主義や社会主義への記述についても批判一辺倒になるのではなく、冷静かつ論理的な筆致で良い点・悪い点を述べていますし、戦前の大日本帝国憲法下の議会政治についても「明治憲法の中にも相当に民主主義の精神が盛られていたということができる」と踏み込み、ただ「民主主義とはまったく反対の独裁政治を行うことも不可能ではないようなすきがあった」と書いています。

 

太平洋戦争中「敵性言語」として英語の勉強を軽んじた日本と違って、アメリカでは日本の古典文学まで徹底的に研究して日本人の心性を理解できる人材を養成していたこともあり、GHQには並みの日本人以上に日本語能力の高い人たちがいましたから、大日本帝国憲法を一部擁護するような表現には当然気づいたでしょう。

 

それでもこれらの文章が削除されなかったのは「民主主義」を執筆した文部省スタッフの、冷静かつ論理的で可能な限り公平な視点を持とうと努めた記述によるところが大きかったのだろうと思われます。

 

戦争が終わったばかりの文部省に、これほどの知性を発揮する人々がいたことに驚きと共に深い敬意を覚えます。

 

この本から、私自身多くの気づきを得ましたが、中でも「民主主義にとって、とりわけ重要な意味を持つもの」と記されている「言論の自由」については、その本質をきちんと把握しておく必要があると再認識させられました。

 

民主主義にとって、なぜ「言論の自由」が重要だとされているのか。

 

それは、自分の信ずることについて情理を尽くして丁寧に伝える一方で、自分とは異なる意見に対しても「相手の言い分にも理があるのではないか。自分が間違っているのではないか」という謙虚な気持ちを持って耳を傾ける・・・そうした丁寧かつ真摯な議論が自由闊達に行き交うことによって、社会がより良い方向に向かっていく可能性が高いと考えられているからです。

 

「言論の自由」とは「何でも好き勝手に言える自由」ではなく、「自由闊達かつ丁寧な言論が行き交うことで社会をより良い方向に向ける可能性が高くなる=だから大切にすべき」という「言論の場への敬意」がベースにあるべきなのです。

 

残念ながら、国会でもテレビ討論等でも、こうした態度で言論の場に臨んでいる人をほとんど見ることができません。

左右いずれの側からの発言も、きわめて一方的で時に恫喝的でさえあります。

 

民主主義が劣化しつつある原因の一端は「言論の自由がなぜ大切なのか」という根本を多くの人々が忘れ、言論が行き交う場への敬意を持って発言する人が少なくなったことにあるのではないでしょうか。

 

 

世界中で新自由主義への過度な傾斜による格差拡大が進んでいることも、民主主義の逆風になっているように思えます。

 

「三大宗教であるキリスト教・イスラム教・仏教を含め、歴史上どの宗教も成し得なかったほど世界中の人々がこぞって信仰するもの、それが『MONEY』である」と言った哲学者がいましたが、かつて社会主義経済を是としていたロシアや中国もMONEYに対しては貪欲で新自由主義的ですらあります。

 

新自由主義の跋扈は、企業を成長させるのと同様の運営を国家組織にも求めるようになりました。

 

確かに企業運営では、優れた指導者が独断専行で物事を決めれば、組織が飛躍的に成長する可能性があり、そうした事例が数多く存在します。

国家に対してもそういう「フォース(力)」を求める気持ちは分かります。

 

しかし企業でも国家でも、指導者が永遠に正しい決断を続けることはまずありませんし、独裁的指導者が間違った決断をした時の被害の大きさもまた半端ではなく、古今東西の破滅的な事態はほぼすべてが独裁者によって引き起こされています。

 

企業なら破滅的事態を招いても(自殺する人がいない訳ではないものの)殺されることまではまずありません。

 

しかし、国家が破滅的な事態になれば、最終的にその被害を受けるのは市井の人々であり、その影響は後世にまで及ぶことすらあります。

我が国でも、一人ではありませんでしたが軍部という独裁組織の判断ミスによって多くの国土と300万もの人命が奪われ、戦後80年近く経っても未だに近隣諸国から非難を受ける事態を招いています。

 

民主主義は確かに強烈な推進力に欠けることもありますが、破壊的なカタストロフにもなりにくい仕組みなのです。

だからこそチャーチルは「民主主義は最悪の政治形態である。ただしこれまで試みられたあらゆる形態を除いては」と言ったのではないでしょうか。

 

専制者・独裁者は不安を背景に生まれます。

 

新自由主義は格差拡大を助長しますし、格差拡大は当然ながら社会不安を生みがちですから、不満を貯め込んだ人々は、現状を打破してくれそうな強い(ように見える)指導者や、打破どころか破壊してくれそうな指導者に注目しがちになります。

 

この本にも「民主主義の仮装をつけてのさばってくる独裁主義と、ほんものの民主主義とははっきりと識別することは、きわめてたいせつである。いかに難しくてもそれをやらなければならない」と書かれています。

 

民主主義は国民一人一人がその意義を理解してこそ守られるものであり、一部の政治家に委ねるのではなく、私たち一人一人が守り継いでいくべきものでもあります。

 

民主主義が危機に瀕していることを嘆くだけではなく、まず自分だけでも「民主主義とは本来どういうものだったのか」を認識し、周囲にも情理を尽くして伝えていく。

 

即効薬を求めたくなる気持ちは分かりますが、古今東西「正しいことを一気に成し遂げようとした」改革は、ほぼ全てが破滅的事態を招いてきた、という教訓を鑑みれば、時間はかかっても、先ず自分が、そして少しずつ周囲に「民主主義の本質をわきまえた人」を拡げていくことから始めるべきなのでしょう。

 

「民主主義」

この本が、今一度中学生や高校生はもちろん一人でも多くの日本人に読まれることを切に願います。

 

女性活用や性的マイノリティへの配慮・障碍者雇用など、ビジネス社会におけるダイバーシティの重要性が喧伝されることが多くなりましたが、2024年3月に発表されたジェンダー開発指数(GDI)によると、日本の女性活躍度は調査対象146か国中の118位という状況です。

 

こうなっている原因にはさまざまな要因がありますが、私は「平均的・標準的な働き手を想定した企業運営」も大いに影響しているのではないかと思っています。

 

企業が定める就業規則や各種規定などを見ると「当社のメンバーはこうあるべき」という標準的人物像が定められていて、そこから大きく外れることを「よしとしない」雰囲気をヒシヒシと感じます。

 

そもそもダイバーシティなる言葉を使う際には、対象となる人々を「多数派に属さない=平均的・標準的ではない人たち」だと考えているケースがほとんどですよね。

 

でも、ダイバーシティなる言葉が喧伝される以前においても、企業が考えるような平均的・標準的な人たちが企業メンバーの大半を占めていた訳ではありません。

 

あらゆる面で平均的・標準的な人物など存在しないからです。

 

実は、企業が想定している平均的・標準的な働き手からは誰もが大なり小なり外れていて、そこに生きづらさを感じる人たちが少なからずいたはずです。

 

実際には一人一人考え方も感じ方もブレがあるのに、一定の幅に納まることを企業は要求し、それに耐えられる人たちだけの集団にしようとしていたのではないでしょうか。

 

今や、あらゆる企業が「創造性が大事」と唱えていますが、創造的であることは平均的・標準的とは真逆といってもいい訳で、そういう人たちを許容する組織風土になっていないことが、日本企業の一人あたり生産性がOECD加盟38か国中30位という低いままになっている一因ではないかと思うのです。

 

多くの日本企業では、平均的・標準的な(企業にとって行儀のいい)ビジネスパーソン像を演じることに長けた人の前にキャリアパスが開かれていて、創造的な人たちがノビノビと活躍できる「自由闊達な風土」を出現させることを難しくしている、そんな気がしてなりません。

 

岐阜にある未来工業という会社は、従業員800人ほどで年間休日140日以上、原則残業なしで業績は40年以上黒字続き、保有特許数2000件以上は並み居る大企業を押しのけて日本のベスト10位内に入るという凄い中堅企業です。

 

創業者の故山田昭男会長は生前「アーティストに『制作プロセスを逐一報告しろ』なんて言って創造的なものが生まれる訳ないだろう。うちは一人でも多くの社員にクリエイティブであってほしいから、報連相禁止。『そんなことしている暇があったら考えろ!』と言っている」と述べておられました。

 

企業によって特性・個性が違うとはいえ、山田氏の基本的考え方には大いに肯けます。

 

経営者にとって極めて大切なことは「企業のパフォーマンスを最大限に発揮するためにはどうすればいいか」を考えて実行することですが、そのためには「やる気のある創造的なメンバーに、思い切って好きにさせる」ことだと思います。

 

いかなる組織・集団も2:6:2の法則に基づくと言われます。

平均以上の仕事をする人が2割、平均的な仕事をする人が6割、平均に満たない仕事しかできない人が2割です。

 

日本の多くの組織では、下位2割の人を見つけだして罰則を課すことを「マネジメント」だと信じている人が数多くいます。管理職と言われる人の大半がそうかも知れません。

 

でも働かずにグータラしているように見える人たちに罰則を与えれば組織のパフォーマンスが向上するかと言えば、そんなことは絶対にありません。

 

それよりも上位2割の人たちに気分よく仕事をしてもらうことで、下位2割のマイナスを補って余りある成果が生まれるようにする方が、費用対効果はまず間違いなく高くなります。

 

そして、創造的な仕事をする人々が求めるのは「上司からごちゃごちゃ言われて管理されないこと」なのです。

 

このことを理解して勇気を持って実行することが、創造性の高い仕事を生み出すための企業マネジメントの要諦ではないでしょうか。

コロナ禍の前になりますが、アメリカに住んでいる友人から「おもしろいよ」と見せられたニュースアプリがありました。

 

そのアプリは共和党・民主党いずれかの立場から書かれたニュース記事が満遍なく掲載されていて、共和党寄りの記事を読むとヘッダーにあるバロメーターの赤(共和党のカラー)が増え、民主党寄りだと同党の色である青が増える仕組みになっていました。

 

友人は共和党支持者ですが「赤の記事ばかりではなく、バロメーターの赤青がほぼ同じ割合になるように読むことにしたところ、民主党寄りの記事に対しても少しずつ理解できるようになり、民主党支持者の考え方に以前ほど反発を覚えなくなった。何となくバランスの取れた考え方ができるようになった気がする」と言っていました。

 

アインシュタインは「自分と反対の意見を聞くことは心地良いものではない。それでも反対意見に積極的に耳を傾け、自らの考えと並立させて冷静に比較検討する。これを科学的態度と言う」と述べています。

 

人間社会の悲劇の大半は「自分は正しく、自分の意見に従えない他者は間違っている」という過剰な断定の結果として引き起こされています。

 

私は、知性とは知識量や頭の回転の速さではなく『自分は間違っているのではないか』と冷静に自らを振り返ることのできる能力だと思っています。

なぜなら、そういう態度によって自らが良い方向に「かわる」可能性があるからです。

 

自分と意見を異にする相手に耳を傾けて、相手の内在的論理を理解しようと努め、冷静に自らの意見と並立させて比べてみる。

そうすることで、見方を異にする「他者」を学びや気づきの契機にすることができ、結果として今までの自分とは異なる「ものの見方」を獲得できる可能性が生まれます。

 

異なる見方を「知る」だけではだめで、異なる見方に対して理解できる(=わかる)ことによってこそ「自らがかわる」可能性が出てくるわけです。

 

冒頭で挙げた友人も「自分と反対の意見にも冷静に向き合うようにしたことで、バランスの取れた考え方ができるようになった気がする」と言っていました。

自らが「かわった」のです。

 

自分にとって受け入れにくい意見に触れた時、もちろん拒絶することもできます。

多くの場合に人はそうしてしまうのですが、もしかするともう少し深く理解しようとする「=わかる」ことによって自分が「かわる」機会を永遠に失ってしまったのかも知れないのです。

 

企業における不正や不祥事はいつか必ずバレますし、バレたら想像を絶するダメージが生じ、時には企業そのものが存続できなくなることもあります(20年ほど前、雪印乳業は不祥事が連続したことで会社が消滅しました)。

 

誰もが「そんな事はわかっているよ」と言うでしょう。

でも、不正や不祥事が露見して苦闘する企業を毎年のように目にしているのに、不正や不祥事が相変わらずなくならないのは、多くの企業体質が「かわっていない」からです。

 

口で「わかっている」と言っても、自らをかえることができなければ、それは「わかった」ことにはならない。

 

「わかる」ことは「かわる」ことなのです。

 

 

1980年代の甲子園で、春夏合わせて優勝3回・準優勝2回の実績を残した徳島県立池田高校野球部の名監督・蔦文也氏は「試合前に子どもたちを鼓舞するときは漢語を使い、試合後にねぎらうときには大和ことばを使う」と言っておられたそうです。

 

確かに「乾坤一擲」や「奮闘努力」などの漢語は、試合前に聞くと身が引き締まるでしょうし、試合後は「よくやったね」といった大和ことばの方が心に響きそうです。

 

政治家や役人(多くの大企業トップも)は、不祥事の謝罪会見をする際には「遺憾でした」「忸怩たる想い」などの漢語を多用しますが、あまり心に響きませんよね。

「このような事態に至ったことは遺憾の極みであり、忸怩たる思いです」と言われるより「このようなことになったのは私の過ちです。本当に申し訳ありませんでした」の方が、よほどマシではないでしょうか。

 

ことばの感性研究分野で活躍する黒川伊保子さんは「生命・精神・感謝・天空・国家・希望という言葉と、いのち・こころ・ありがとう・そら・くに・のぞみ・・・比べてみると、漢語である前者はスケール感があってダイナミックだが何だか素っ気ない。対して(大和ことばである)後者からは、心にしみいるような温かな人間味が感じられる」と言っておられますが、同感です。

 

企業トップの方々は漢語(やカタカナ語)を頻繁に使う印象がありますが、大和ことばの方が相手の心深くまで伝わるので、企業イメージを体現するトップである以上、少なくとも謝罪会見などは大和ことばを使った方がいいのだろうと思います。

 

言葉というのは武器にもなれば致命傷を負わせる凶器にもなり得ます。

 

漢語・大和ことばの使い分けもそうですが、そもそも謝罪会見で漢語を連発する人は「心から申し訳なかった」と思っているのではなく、「メディア(不特定多数)が相手なのだし、何とかこの場をやり過ごせればいい」と考えて、漢語を多用してごまかしているようにしか見えません。

 

自らの言葉を通して「(謝罪を)受け取る相手」に寄り添おうなどという気持ちが全くないのでしょう。

 

言葉の受け手に寄り添うと言えば、以前こんな話を聞いたことがあります。

妻が夫にむっとする瞬間で圧倒的に多いのは、家事でミスをした時に責め言葉を投げかけられた時だそうです。

 

例えば

突然の夕立で洗濯物を濡らしてしまった時に「朝の天気予報で言ってただろう。テレビを見てたくせに何を聞いてたんだ」という一言や、朝起きてコーヒー豆が切れているのに気づいた夫からの「何で買い足しておかないんだ」といった言葉です。

 

思い当たる方が少なからずいるのではないでしょうか。

 

こんな時「天気予報を見た時に『今日は部屋干しがいいよ』と言ってあげれば良かった」とか「コーヒー豆が残り少ないことを伝えてあげればよかった」と声をかけてあげれば、場の空気は随分と変わりますよね。

 

相手に寄り添った言葉の出し方はビジネスの場でも大切です。

 

部下や出入り業者がミスをした時に「何をやってるんだ!」と怒る人は少なからずいます。

言われた側は恐縮しているのですが、よく観察してみると、恐縮しながらも不満そうな表情を浮かべている人が決して少なくありません。

 

ミスされて怒りたくなった時に頭ごなしに叱りつけるのではなく「自分も確認してあげれば良かったな」とか「もう少し丁寧に伝えてあげるべきだったね」といった言葉を届けてあげれば、相手は本当に素直な表情で「いえ、私の方こそ申し訳ありませんでした」と返してくれるはずです。

 

そもそも「自分も〇〇してあげればよかった」というのは、単なる慰めの言葉じゃないんです。

 

その件については自分も責任者の一人であることを表明することで、連帯する気持ちが伝わり、そこに信頼関係が生まれるのです。

そして、上司や先輩が「〇〇してあげればよかった」と言える職場では、必ずと言っていいほど、この言葉遣いが伝染していきます。

 

ぜひ試してほしいですね。