所在地名からウエストポイントと称されるアメリカ陸軍士官学校は、200年を超える歴史を持ち、競争率10倍以上という入学の難しさと、厳しい訓練ゆえに途中でドロップアウトする者が少なからずいることでも知られる、エリート軍人養成校です。
ここに入学した学生たちの志望動機には「国に貢献したい」「国民を守りたい」「愛する家族を守りたい」といった士官学校ならではと思えるものや「優れた技能や知識を身につけたい」「将官に出世して偉くなりたい」といった上昇志向を示すものが多いのですが、中には「軍隊が楽しそう」「面白そう」といったものもあります。
志望動機は大きく「手段動機」と「内発的動機」の二つに分けることができます。
士官学校の場合、最初の5つは全て手段動機で、「楽しそう」「面白そう」が内発的動機です。
最初の5つをなぜ「手段動機」と呼ぶかというと、エリート軍人になることがその動機を達成する手段だからです。
国に貢献するのは軍人以外でも可能です。
公務員や消防士・弁護士・医師・ビジネスパーソン・・・どんな職業を通じても国に貢献することはできる訳で、ウエストポイントへの入学は「エリート軍人になること」が自分の目的や野心を達成する上で最も有効な「手段」だと考えているということです。
同校には、過去数十年に渡る学生たちの志望動機が保管されています。
こうした志望動機と学生たちのその後の進路に何らかの関連性があるかを研究した調査結果が、エール大学のエイミー・ヴェジェスニエフスキー博士によって発表されました。
誰が厳しい訓練を乗り越えて修了できたか、誰が軍功を挙げたか、誰が将官にまで上り詰めたか・・・といった職業軍人としての成功と入学時の志望動機に関連性があったかどうかを徹底的に追跡調査したのです。
その結果、手段動機と内発的動機、入学時にいずれを持っていた学生がその後優れた足跡・業績を残したか。
実は「内発的動機=軍隊生活が楽しそう・面白そう」を挙げた人たちが圧倒的に高い成果を残していたのです。将官にまで上り詰めた比率もきわめて高かった。
一方で、一人で数多くの手段動機を挙げた人ほど、その後は鳴かず飛ばずの結果になってしまったケースが多かったのです。
「仕事、ましてや軍人になるのだから崇高な動機を持っているのが当然ではないか」「エリート軍人になるのに、楽しそう・面白そうといった軟弱な動機でいいのか」というご指摘もあろうかと思います。
でも「楽しそう・面白そう」というのは心の内側から湧き上がってくる感情であり、理屈は不要です。
脳科学の知見によれば、物事に取り組むにあたって生死に関わる事以外は「楽しそう、面白そうだから」というのが最も根源的で本能的な動機だと言われています。
一方で、やるべき真っ当な理由を理論武装する(しなければならない)のは、実は「心からやりたい!」と思う内発的動機が弱いから、ともいえるのです。
手段動機を数多く挙げて自分の内なる声に気づかない(気づいても言わない)人がその後うまくいかなくなる事が多いのは、ある意味当然なのかも知れません。
ウエストポイントに関するエール大学の調査データが示しているのは、そういうことなのです。
企業の面接試験でも、おそらくほとんどの面接官が「当社への志望動機は何ですか」と訊きますよね。
でも、面接の場でこういう質問をしても返ってくるのは「社会貢献がしたい」「海外で活躍したい」「自分の力を試したい」・・・等々ほぼ手段動機のはずです。
「楽しそうだから」というような動機を挙げる人にはまずお目にかかれないでしょう。
でも、手段動機の大半は、その会社(組織)に入らなくても達成できる可能性が高い。
それだけに手段動機を前面に出して入社した人は、その後「何か違う」と感じた時にあっさり脱落してしまうことだってあり得るのです。
論語に「之(これ)を知る者は、之を好む者に如かず、之を好む者は、之を楽しむ者に如かず」という一節があります。
いくら知識がある人でも、好きでやっている人にはかなわない。好きでやっている人は、楽しんでやっている人にはかなわない。という意味で、「知好楽」と称されて学問や仕事に対する姿勢を語る事例として挙げられることの多い一節です。
はるか昔、紀元前に生きた孔子も「楽しんでやれる者が一番すごい」と認識していたのです。
「仕事が楽しい」と言う企業経営者は少なくありません。
自らが信じる目的を掲げて日々邁進する日々ですから楽しいと感じるのは当然でしょうし、トップが楽しいと思わなければ社員もついてこないでしょう。
ただ、自らが「楽しい」だけではなく、社員が仕事を「楽しい」と感じているかに想いを馳せている経営者は必ずしも多くないように見受けられます。
自分の掲げる「会社の目的」に社員もついてきて当然、という態度の方も少なくありません。
多くの企業経営者が社会的に意義ある目的を掲げます。
それ自体は素晴らしいことです。
目的遂行のために、企業業績を挙げるという目標も、もちろん必要です。
しかし、日常業務において社員の多くが「楽しさ」や「やりがい」を感じられなければ、やがて会社の目的達成が日々の業務を支配し、目的合理性が最優先されるようになってしまうでしょう。
それはいずれ目的達成のための手段の正当化をもたらし、手段の正当化は必ず何らかの犠牲をもたらす蓋然性が高い。
名だたる有名企業で、優れた資質を持っていたはずの社員たちが「目的達成のために」あとさき考えず不正に手を染める事案がなくならない理由の一つがここにあるのではないかと思います。
人工知能と人間の脳に関する比較研究をしている脳科学者の池谷裕二氏は「今やAIは多くの分野で凄まじい性能を発揮するようになっている。しかし、人間の脳にあってAI(人工知能)に決定的に欠けているもの。それは作業を『楽しむ力』です」と言っています。
今後AIは、今ある仕事の多くを代替するようになっていくでしょう。
そうした局面で人間は何をすべきなのかと考えると、AIに決定的に欠けている「楽しいと感じられる能力を活かす」というのは一つの大きな解に成り得るはずです。
「仕事を楽しく、なんて綺麗ごとだ」と言う方もいるかと思いますが、人間の感情や心理を正しく理解するならば、自社のスタッフが仕事や職場を楽しめているかを考え、どうしたら少しでもそういう状況になるのかに想いを馳せてみることは、現代の企業経営者にとって極めて重要なことではないでしょうか。
スタッフの多くが「楽しく」仕事をしている会社であるならば、「楽しそうだから」
という理由で入社を希望する人も増えるでしょう。
ウエストポイントの調査結果は、そういう人が多くなればなるほど成果が挙る可能性が高い、ことを示しているのです。