デザイナーのクリスチャン・ディオールが「最も完成度の高い服とは?」と聞かれた時にこう答えたそうです。

「デザイナーやパタンナー・縫い子・販売員・消費者、それぞれに『この服は誰のものか』と訊ねた時、全員が『私のもの』と答える服、それが最も完成度の高い服である」

 

ある経営コンサルタントが、この逸話を紹介しながら「関わる全ての人間が『このチーム・組織は自分のもの』と答えられるのが最高に優れたチーム・組織である」と語っているのを読んだことがあります。

 

いい話ではありますが、私は全面的に賛成・・・ではありません。

 

チームや組織が素晴らしい業績・成果を挙げている時には、関わる多くの人が上記のような発言をすることは間々あります。

かつてiPhoneが衝撃的なデビューを飾った時、日本の部品メーカー各社が「iPhoneを支えているのは、実は我が社だ」といった発言をしていたことがあります。

チームや組織が優れたパフォーマンスを発揮している時は、わずかな貢献しかしていない人であっても「私はチーム・組織の一員だ。この業績・成果に私も一役買っている」といった類の発言をするものです。

 

しかし、いかなるチーム・組織も良い時ばかりではありません。

 

大きなトラブルが発生したり、下り坂になることもあるでしょう。

 

そんな時にこそ「こうなってしまったのは(このチーム・組織に属していた)自分にも責任がある」と思って行動できる人が少なからずいる。これこそが優れたチーム・組織ではないかと思うのです。

 

人は、上り調子の時ではなく、トラブルに遭遇した時・下降局面においてこそ真価が問われます。

 

チームや組織がうまくいっていない時にトップが責任を感じるのは当然です(そうでない人もいます)が、メンバーの中に一人でも多く「自分にも責任がある」と感じて行動できる人がいるかいないか、そういうメンバーを生む土壌があるかどうかが、チームや組織の価値を決めるのではないでしょうか。

 

 

今や世界中で民主主義が危機に瀕していると言われます。

欧米では極右が存在感を示すようになり、極右リーダーの大半はロシアのプーチン大統領(のような専制政治)にシンパシーを感じているようです。

 

民主主義というのは決して効率が良いシステムではありません。

調子がいい時の独裁制(専制政治)は実に効率よく発展・前進します。

何しろ意志決定が速いですから。

 

だから国勢に陰りが見えている国や、経済的に不調に陥っている国・貧富の差が激しくなっている国(多くの西側諸国が該当します)では、「この現状を一気に打開してくれそうな」強いリーダーに任せようという機運が高まりがちになります。

 

第一次大戦で敗北を喫し、厳しい不況で社会不安に陥ったドイツはヒトラーを輩出し、彼の下で国力は一時高まったかに見え、第二次大戦の緒戦では連戦連勝を重ねました。

 

でも、どんな大国もいつかは下降局面に遭遇します。

成功し続けた国家など歴史のどこを探しても見つかりません。

 

そして、歴史が教えるのは下降局面に遭遇した時に独裁制は弱い、ということです。

 

「トップは全能である」という前提で構築されているシステムでは、現場の自己判断で勝手なことはできません。

でも、大きな危機や下降局面というのは、中枢でコントロールすることができないくらい同時多発的にトラブルや不調が起きているからそうなったのであり、現場が自発的に判断してトラブルや不調に対処する仕組みでないと対応できないのです。

 

独裁制は、下降局面に入った時に反対派が勢いづくことはあっても、体制内に「こうなった原因は自分にもある」と考えて行動できる人物が(独裁者が自分から言わない限り)まず誰もいません。

 

トラブルに遭遇したり下降局面になった時に「私はやらされただけ」と発言する人物が組織的に出てくるのが独裁制であり、「自分にも責任がある」と考えて行動を起こせる人物を、たとえわずかではあっても輩出する可能性があるのが民主主義なのだろうと思います。

 

民主主義は市民の成熟から大きな利益を得るシステムであり、独裁制はそうではないのです。

 

独裁制(専制政治)と民主主義の違いは突き詰めればこの一点にあります。

 

企業運営は必ずしも多数決で進められる訳ではありませんが、それでもトップダウン型運営の問題と自立したメンバーの意義について考える時、独裁制と民主主義の相違から得られる教訓があるように思います。

 

伸びている企業にオーナー企業が多いのは事実です。

でも、産業史を振り返ると、一旦問題が起きた時にガタガタになるのが早いのもまたオーナー企業だったのです。

 

経営者が圧倒的に大きな力を持ち得ているのだとすれば、全能の神のように自由にふるまうことにその力を注ぐのではなく、民主主義にありがちな「意思決定の遅さ」を克服しながらも、社員一人一人が成熟かつ自立したメンバーに育つことができる、そういう環境作りにこそ最大限の力を注ぎこむべきではないでしょうか。

「言いたいことがあるなら、はっきりと言え」「もっと分かりやすく明確に述べろ」

 

学校や職場で、教師や上司からこんな叱責を受けた経験はないでしょうか。

自分自身はなくても、誰かが怒られているのを見聞きした経験ならば、おそらく大半の人が思いあたるでしょう。

 

教師や上司のこうした発言に疑問を呈する人はあまりいないかと思いますが、私は、人にモノを言う時は「明確な論旨ではっきりと言うべきである」という、一見まともに思える考え方の過剰なまでの跋扈が、学校や企業から創造力を奪っている可能性があるのではないかと考えています。

 

私自身は人より声が大きいとよく言われますし、人前でもあまり臆せずに話ができる方だろうとも思います。

それでも何かまったく新しいアイデア、それもアイデアの卵のようなものが浮かんできた時などは、それが本当に自分自身の内から湧き出てきた斬新なものであればあるほど、誰かに説明しようとしても、まだ輪郭の定まらない思考がぐるぐると頭の中を巡っているので、なかなかズバリと明確な表現にすることができません。

 

自分も含めて誰も口にしたことがないような斬新なアイデアが生まれそうな時は、それを言葉にしようとしても、一つのセンテンスができあがるまでだってかなりの時間がかかることがあるし、時間をかけてもセンテンスが終わらないこともある。

 

本当に創造的なアイデアが浮かびそうな時ほど、なかなか「大きな声ではっきりと論理的に」は話せないものなのです。

 

それは、誰かの請け売りではなく、本当に自分自身の心の底・脳の奥底で生まれつつあるものを引っ張り出そうとするから起きる現象であり、それを「大きな声で、はっきりと話せ」と言われても難しい。

 

そんなことができるのは、たいていの場合、出来あいの意見を引っ張ってくるからです。

 

誰かが言ったことを記憶していて再生するだけなら、誰でも大きな声で、はっきりと言えます。

経験上、人が過剰に断定的になるのは、その意見が請け売りである証拠だと言い切ってもいいと思います。

 

誰かが小さな声でモゴモゴと語りだす時、実はそこにはとんでもなく素晴らしいアイデアが隠されているかも知れないのです。

もちろんそうではない可能性だってあるし、おそらくそうではない可能性の方が圧倒的に高いのかも知れませんが、千に一つでも素晴らしいアイデアが潜んでいるのだとすれば凄いじゃないですか。

 

そんな事は最後までじっくり聞いてみなければ分からないし、聞いてみても分からないかも知れない。

古今東西、科学でもビジネスでも「ものすごいアイデア・発想」の多くは、当初は周囲の人たちから馬鹿にされていたのですから。

 

でも、小さな声でもごもごと話し始めた人を頭ごなしに否定していては、千に一つの可能性さえも潰してしまうことになる。

だからこそ、学校でも企業でも、小さな声でもごもごと話し始めた人を叱責してはいけない。

そこには、素晴らしく創造的な何かが隠されている可能性があるのです。

 

小さな声を(こそ)しっかりとすくい取る。

 

教育やビジネスの場において、誰かが小さな声で自信なげに語りだした瞬間を、教師や上司は見逃してはいけない。

それはその人が「真に自分自身の言葉」で語り始めた兆候であることが多いからですし、そこには千に一つかも知れないけれど、素晴らしく創造的な何かが潜んでいる可能性があるのです。

 

小さな声でもごもごとでもいいから、何かを語り出したら、それを見逃さずに聞き取ろうと耳を傾けてくれる人がいる。

そういう環境を創ることもまた、教師や上司の役目なのではないでしょうか。

7月の都知事選、ポスター掲示板や選挙公報を見て暗澹たる気持ちになった人は少なくないのではないでしょうか。

「言論の自由」という名の下に、都知事選とおよそ無関係な写真・文面が並ぶポスターを子供が見ているのに出くわすと、申し訳ない気持ちにすらなりました。

 

民主主義が危機に瀕しているように見えるのは日本だけではありません。

立場の違いが、論争を超えて互いに相手を罵り合うまでになった二項対立の激しさや、排他的で自国中心主義の指導者を選ぼうとする動きが各国で勢いづくなど、民主主義を標榜する国々が揺れています。

 

角川ソフィア文庫に「民主主義」と題した一冊があります。

昭和23年から28年まで「民主主義の教科書」として中学高校で使われていたものを全文復刻したものです。

 

教科書といっても文庫本で400頁を超える分量があり、学術書の趣さえあります。

 

教科書ではありますが決して上から目線になることなく、中学・高校生に「民主主義とは何か」を理解してもらおうと、情理を尽くした丁寧な文章で書かれており、(この本の解説でも指摘されていますが)構成がしっかりしていて論理が明確なので、現代の我々大人が読んでも「なるほど、民主主義というのはこういうものだったのか」という気づきがある、きわめて優れた書物になっています。

 

この本は米国占領下にGHQから「民主主義とは何かを教えよ」という指示によって文部省が作成したものですから、基本的に米国型民主主義を範としていますし、GHQの意に添う内容でなければ検閲を通りませんでした。

 

それでも共産主義や社会主義への記述についても批判一辺倒になるのではなく、冷静かつ論理的な筆致で良い点・悪い点を述べていますし、戦前の大日本帝国憲法下の議会政治についても「明治憲法の中にも相当に民主主義の精神が盛られていたということができる」と踏み込み、ただ「民主主義とはまったく反対の独裁政治を行うことも不可能ではないようなすきがあった」と書いています。

 

太平洋戦争中「敵性言語」として英語の勉強を軽んじた日本と違って、アメリカでは日本の古典文学まで徹底的に研究して日本人の心性を理解できる人材を養成していたこともあり、GHQには並みの日本人以上に日本語能力の高い人たちがいましたから、大日本帝国憲法を一部擁護するような表現には当然気づいたでしょう。

 

それでもこれらの文章が削除されなかったのは「民主主義」を執筆した文部省スタッフの、冷静かつ論理的で可能な限り公平な視点を持とうと努めた記述によるところが大きかったのだろうと思われます。

 

戦争が終わったばかりの文部省に、これほどの知性を発揮する人々がいたことに驚きと共に深い敬意を覚えます。

 

この本から、私自身多くの気づきを得ましたが、中でも「民主主義にとって、とりわけ重要な意味を持つもの」と記されている「言論の自由」については、その本質をきちんと把握しておく必要があると再認識させられました。

 

民主主義にとって、なぜ「言論の自由」が重要だとされているのか。

 

それは、自分の信ずることについて情理を尽くして丁寧に伝える一方で、自分とは異なる意見に対しても「相手の言い分にも理があるのではないか。自分が間違っているのではないか」という謙虚な気持ちを持って耳を傾ける・・・そうした丁寧かつ真摯な議論が自由闊達に行き交うことによって、社会がより良い方向に向かっていく可能性が高いと考えられているからです。

 

「言論の自由」とは「何でも好き勝手に言える自由」ではなく、「自由闊達かつ丁寧な言論が行き交うことで社会をより良い方向に向ける可能性が高くなる=だから大切にすべき」という「言論の場への敬意」がベースにあるべきなのです。

 

残念ながら、国会でもテレビ討論等でも、こうした態度で言論の場に臨んでいる人をほとんど見ることができません。

左右いずれの側からの発言も、きわめて一方的で時に恫喝的でさえあります。

 

民主主義が劣化しつつある原因の一端は「言論の自由がなぜ大切なのか」という根本を多くの人々が忘れ、言論が行き交う場への敬意を持って発言する人が少なくなったことにあるのではないでしょうか。

 

 

世界中で新自由主義への過度な傾斜による格差拡大が進んでいることも、民主主義の逆風になっているように思えます。

 

「三大宗教であるキリスト教・イスラム教・仏教を含め、歴史上どの宗教も成し得なかったほど世界中の人々がこぞって信仰するもの、それが『MONEY』である」と言った哲学者がいましたが、かつて社会主義経済を是としていたロシアや中国もMONEYに対しては貪欲で新自由主義的ですらあります。

 

新自由主義の跋扈は、企業を成長させるのと同様の運営を国家組織にも求めるようになりました。

 

確かに企業運営では、優れた指導者が独断専行で物事を決めれば、組織が飛躍的に成長する可能性があり、そうした事例が数多く存在します。

国家に対してもそういう「フォース(力)」を求める気持ちは分かります。

 

しかし企業でも国家でも、指導者が永遠に正しい決断を続けることはまずありませんし、独裁的指導者が間違った決断をした時の被害の大きさもまた半端ではなく、古今東西の破滅的な事態はほぼすべてが独裁者によって引き起こされています。

 

企業なら破滅的事態を招いても(自殺する人がいない訳ではないものの)殺されることまではまずありません。

 

しかし、国家が破滅的な事態になれば、最終的にその被害を受けるのは市井の人々であり、その影響は後世にまで及ぶことすらあります。

我が国でも、一人ではありませんでしたが軍部という独裁組織の判断ミスによって多くの国土と300万もの人命が奪われ、戦後80年近く経っても未だに近隣諸国から非難を受ける事態を招いています。

 

民主主義は確かに強烈な推進力に欠けることもありますが、破壊的なカタストロフにもなりにくい仕組みなのです。

だからこそチャーチルは「民主主義は最悪の政治形態である。ただしこれまで試みられたあらゆる形態を除いては」と言ったのではないでしょうか。

 

専制者・独裁者は不安を背景に生まれます。

 

新自由主義は格差拡大を助長しますし、格差拡大は当然ながら社会不安を生みがちですから、不満を貯め込んだ人々は、現状を打破してくれそうな強い(ように見える)指導者や、打破どころか破壊してくれそうな指導者に注目しがちになります。

 

この本にも「民主主義の仮装をつけてのさばってくる独裁主義と、ほんものの民主主義とははっきりと識別することは、きわめてたいせつである。いかに難しくてもそれをやらなければならない」と書かれています。

 

民主主義は国民一人一人がその意義を理解してこそ守られるものであり、一部の政治家に委ねるのではなく、私たち一人一人が守り継いでいくべきものでもあります。

 

民主主義が危機に瀕していることを嘆くだけではなく、まず自分だけでも「民主主義とは本来どういうものだったのか」を認識し、周囲にも情理を尽くして伝えていく。

 

即効薬を求めたくなる気持ちは分かりますが、古今東西「正しいことを一気に成し遂げようとした」改革は、ほぼ全てが破滅的事態を招いてきた、という教訓を鑑みれば、時間はかかっても、先ず自分が、そして少しずつ周囲に「民主主義の本質をわきまえた人」を拡げていくことから始めるべきなのでしょう。

 

「民主主義」

この本が、今一度中学生や高校生はもちろん一人でも多くの日本人に読まれることを切に願います。

 

女性活用や性的マイノリティへの配慮・障碍者雇用など、ビジネス社会におけるダイバーシティの重要性が喧伝されることが多くなりましたが、2024年3月に発表されたジェンダー開発指数(GDI)によると、日本の女性活躍度は調査対象146か国中の118位という状況です。

 

こうなっている原因にはさまざまな要因がありますが、私は「平均的・標準的な働き手を想定した企業運営」も大いに影響しているのではないかと思っています。

 

企業が定める就業規則や各種規定などを見ると「当社のメンバーはこうあるべき」という標準的人物像が定められていて、そこから大きく外れることを「よしとしない」雰囲気をヒシヒシと感じます。

 

そもそもダイバーシティなる言葉を使う際には、対象となる人々を「多数派に属さない=平均的・標準的ではない人たち」だと考えているケースがほとんどですよね。

 

でも、ダイバーシティなる言葉が喧伝される以前においても、企業が考えるような平均的・標準的な人たちが企業メンバーの大半を占めていた訳ではありません。

 

あらゆる面で平均的・標準的な人物など存在しないからです。

 

実は、企業が想定している平均的・標準的な働き手からは誰もが大なり小なり外れていて、そこに生きづらさを感じる人たちが少なからずいたはずです。

 

実際には一人一人考え方も感じ方もブレがあるのに、一定の幅に納まることを企業は要求し、それに耐えられる人たちだけの集団にしようとしていたのではないでしょうか。

 

今や、あらゆる企業が「創造性が大事」と唱えていますが、創造的であることは平均的・標準的とは真逆といってもいい訳で、そういう人たちを許容する組織風土になっていないことが、日本企業の一人あたり生産性がOECD加盟38か国中30位という低いままになっている一因ではないかと思うのです。

 

多くの日本企業では、平均的・標準的な(企業にとって行儀のいい)ビジネスパーソン像を演じることに長けた人の前にキャリアパスが開かれていて、創造的な人たちがノビノビと活躍できる「自由闊達な風土」を出現させることを難しくしている、そんな気がしてなりません。

 

岐阜にある未来工業という会社は、従業員800人ほどで年間休日140日以上、原則残業なしで業績は40年以上黒字続き、保有特許数2000件以上は並み居る大企業を押しのけて日本のベスト10位内に入るという凄い中堅企業です。

 

創業者の故山田昭男会長は生前「アーティストに『制作プロセスを逐一報告しろ』なんて言って創造的なものが生まれる訳ないだろう。うちは一人でも多くの社員にクリエイティブであってほしいから、報連相禁止。『そんなことしている暇があったら考えろ!』と言っている」と述べておられました。

 

企業によって特性・個性が違うとはいえ、山田氏の基本的考え方には大いに肯けます。

 

経営者にとって極めて大切なことは「企業のパフォーマンスを最大限に発揮するためにはどうすればいいか」を考えて実行することですが、そのためには「やる気のある創造的なメンバーに、思い切って好きにさせる」ことだと思います。

 

いかなる組織・集団も2:6:2の法則に基づくと言われます。

平均以上の仕事をする人が2割、平均的な仕事をする人が6割、平均に満たない仕事しかできない人が2割です。

 

日本の多くの組織では、下位2割の人を見つけだして罰則を課すことを「マネジメント」だと信じている人が数多くいます。管理職と言われる人の大半がそうかも知れません。

 

でも働かずにグータラしているように見える人たちに罰則を与えれば組織のパフォーマンスが向上するかと言えば、そんなことは絶対にありません。

 

それよりも上位2割の人たちに気分よく仕事をしてもらうことで、下位2割のマイナスを補って余りある成果が生まれるようにする方が、費用対効果はまず間違いなく高くなります。

 

そして、創造的な仕事をする人々が求めるのは「上司からごちゃごちゃ言われて管理されないこと」なのです。

 

このことを理解して勇気を持って実行することが、創造性の高い仕事を生み出すための企業マネジメントの要諦ではないでしょうか。

コロナ禍の前になりますが、アメリカに住んでいる友人から「おもしろいよ」と見せられたニュースアプリがありました。

 

そのアプリは共和党・民主党いずれかの立場から書かれたニュース記事が満遍なく掲載されていて、共和党寄りの記事を読むとヘッダーにあるバロメーターの赤(共和党のカラー)が増え、民主党寄りだと同党の色である青が増える仕組みになっていました。

 

友人は共和党支持者ですが「赤の記事ばかりではなく、バロメーターの赤青がほぼ同じ割合になるように読むことにしたところ、民主党寄りの記事に対しても少しずつ理解できるようになり、民主党支持者の考え方に以前ほど反発を覚えなくなった。何となくバランスの取れた考え方ができるようになった気がする」と言っていました。

 

アインシュタインは「自分と反対の意見を聞くことは心地良いものではない。それでも反対意見に積極的に耳を傾け、自らの考えと並立させて冷静に比較検討する。これを科学的態度と言う」と述べています。

 

人間社会の悲劇の大半は「自分は正しく、自分の意見に従えない他者は間違っている」という過剰な断定の結果として引き起こされています。

 

私は、知性とは知識量や頭の回転の速さではなく『自分は間違っているのではないか』と冷静に自らを振り返ることのできる能力だと思っています。

なぜなら、そういう態度によって自らが良い方向に「かわる」可能性があるからです。

 

自分と意見を異にする相手に耳を傾けて、相手の内在的論理を理解しようと努め、冷静に自らの意見と並立させて比べてみる。

そうすることで、見方を異にする「他者」を学びや気づきの契機にすることができ、結果として今までの自分とは異なる「ものの見方」を獲得できる可能性が生まれます。

 

異なる見方を「知る」だけではだめで、異なる見方に対して理解できる(=わかる)ことによってこそ「自らがかわる」可能性が出てくるわけです。

 

冒頭で挙げた友人も「自分と反対の意見にも冷静に向き合うようにしたことで、バランスの取れた考え方ができるようになった気がする」と言っていました。

自らが「かわった」のです。

 

自分にとって受け入れにくい意見に触れた時、もちろん拒絶することもできます。

多くの場合に人はそうしてしまうのですが、もしかするともう少し深く理解しようとする「=わかる」ことによって自分が「かわる」機会を永遠に失ってしまったのかも知れないのです。

 

企業における不正や不祥事はいつか必ずバレますし、バレたら想像を絶するダメージが生じ、時には企業そのものが存続できなくなることもあります(20年ほど前、雪印乳業は不祥事が連続したことで会社が消滅しました)。

 

誰もが「そんな事はわかっているよ」と言うでしょう。

でも、不正や不祥事が露見して苦闘する企業を毎年のように目にしているのに、不正や不祥事が相変わらずなくならないのは、多くの企業体質が「かわっていない」からです。

 

口で「わかっている」と言っても、自らをかえることができなければ、それは「わかった」ことにはならない。

 

「わかる」ことは「かわる」ことなのです。

 

 

1980年代の甲子園で、春夏合わせて優勝3回・準優勝2回の実績を残した徳島県立池田高校野球部の名監督・蔦文也氏は「試合前に子どもたちを鼓舞するときは漢語を使い、試合後にねぎらうときには大和ことばを使う」と言っておられたそうです。

 

確かに「乾坤一擲」や「奮闘努力」などの漢語は、試合前に聞くと身が引き締まるでしょうし、試合後は「よくやったね」といった大和ことばの方が心に響きそうです。

 

政治家や役人(多くの大企業トップも)は、不祥事の謝罪会見をする際には「遺憾でした」「忸怩たる想い」などの漢語を多用しますが、あまり心に響きませんよね。

「このような事態に至ったことは遺憾の極みであり、忸怩たる思いです」と言われるより「このようなことになったのは私の過ちです。本当に申し訳ありませんでした」の方が、よほどマシではないでしょうか。

 

ことばの感性研究分野で活躍する黒川伊保子さんは「生命・精神・感謝・天空・国家・希望という言葉と、いのち・こころ・ありがとう・そら・くに・のぞみ・・・比べてみると、漢語である前者はスケール感があってダイナミックだが何だか素っ気ない。対して(大和ことばである)後者からは、心にしみいるような温かな人間味が感じられる」と言っておられますが、同感です。

 

企業トップの方々は漢語(やカタカナ語)を頻繁に使う印象がありますが、大和ことばの方が相手の心深くまで伝わるので、企業イメージを体現するトップである以上、少なくとも謝罪会見などは大和ことばを使った方がいいのだろうと思います。

 

言葉というのは武器にもなれば致命傷を負わせる凶器にもなり得ます。

 

漢語・大和ことばの使い分けもそうですが、そもそも謝罪会見で漢語を連発する人は「心から申し訳なかった」と思っているのではなく、「メディア(不特定多数)が相手なのだし、何とかこの場をやり過ごせればいい」と考えて、漢語を多用してごまかしているようにしか見えません。

 

自らの言葉を通して「(謝罪を)受け取る相手」に寄り添おうなどという気持ちが全くないのでしょう。

 

言葉の受け手に寄り添うと言えば、以前こんな話を聞いたことがあります。

妻が夫にむっとする瞬間で圧倒的に多いのは、家事でミスをした時に責め言葉を投げかけられた時だそうです。

 

例えば

突然の夕立で洗濯物を濡らしてしまった時に「朝の天気予報で言ってただろう。テレビを見てたくせに何を聞いてたんだ」という一言や、朝起きてコーヒー豆が切れているのに気づいた夫からの「何で買い足しておかないんだ」といった言葉です。

 

思い当たる方が少なからずいるのではないでしょうか。

 

こんな時「天気予報を見た時に『今日は部屋干しがいいよ』と言ってあげれば良かった」とか「コーヒー豆が残り少ないことを伝えてあげればよかった」と声をかけてあげれば、場の空気は随分と変わりますよね。

 

相手に寄り添った言葉の出し方はビジネスの場でも大切です。

 

部下や出入り業者がミスをした時に「何をやってるんだ!」と怒る人は少なからずいます。

言われた側は恐縮しているのですが、よく観察してみると、恐縮しながらも不満そうな表情を浮かべている人が決して少なくありません。

 

ミスされて怒りたくなった時に頭ごなしに叱りつけるのではなく「自分も確認してあげれば良かったな」とか「もう少し丁寧に伝えてあげるべきだったね」といった言葉を届けてあげれば、相手は本当に素直な表情で「いえ、私の方こそ申し訳ありませんでした」と返してくれるはずです。

 

そもそも「自分も〇〇してあげればよかった」というのは、単なる慰めの言葉じゃないんです。

 

その件については自分も責任者の一人であることを表明することで、連帯する気持ちが伝わり、そこに信頼関係が生まれるのです。

そして、上司や先輩が「〇〇してあげればよかった」と言える職場では、必ずと言っていいほど、この言葉遣いが伝染していきます。

 

ぜひ試してほしいですね。

少子化に伴い、大学の学生獲得競争が熾烈を極めているからでしょうか、大学の学生募集広告を目にする機会が増えたように思います。

広告を見ていると、情報やAIといった「いまどきの流行ワード」を並べた学部・学科新設を謳う大学が多いようですし、「社会ですぐに役立つ」実学志向を打ち出している学校も少なくありません。

 

企業経営者の中にも「大学では、実社会ですぐに役立つ勉強をさせろ」という声は多く、時には「文学部なんか廃止したらいい」などの暴論を吐く人もいます。

 

社会ですぐに役立つ勉強をすることも、もちろん大切ではありますが、大学という場所で実学偏重が強すぎるのは問題ではないかと私は考えています。

 

秋山真之という人物をご存じでしょうか。

日露戦争時の海軍参謀で、日本海海戦を勝利に導いた立役者として知られ、司馬遼太郎の「坂の上の雲」の主人公の一人でもあります。

彼は日露戦争後に海軍大学校で教鞭をとります。

日本海軍を勝利に導いた参謀本人が講義するとあって、教室には学生たちが殺到します。

その冒頭で秋山は「私が今から教える戦術は、将来役に立たなくなる」と言って居並ぶ学生達の度肝を抜きます。

彼は「戦術は技術の進歩と共に陳腐化する。最新戦術を学ぶことも必要だが、孫氏の兵法などの古典や戦史を深く学ぶことで、いつの時代にも通用する普遍的な思想を身につけることこそが肝要だ」と伝えたのです。

 

幕末から明治にかけて活躍した志士たちの多くは、外交術や近代戦術など、その当時「今すぐ必要」とされた学問にはほとんど無知でしたが、「これは学ばねばならない」と思った知識・技術は集中して取り組むことで身につけていきました。

 

ただ、藩校などで四書五経を始めとする古典を学んでいたことで、激動の時代をどう乗り越えていくかを判断できるだけの基礎的な力量を備えていた者は決して少なくなかった。

欧米列強の植民地になっていた可能性さえあった日本を、独立国家として近代化への道を歩ませたのは、彼らの「どうしていいか分からない状況において、どうにかしてそれを判断する」力量でした。

 

現代は、秋山真之が活躍した明治大正や幕末・維新の頃と比べても格段に変化の激しい時代です。 

そこで本当に求められるものは「どうしていいか分からない時に、どうしていいかを判断する」能力や覚悟だと思うのです。

 

実学だけを学んでいたのでは、そういう力を身につけるのは難しいのではないかと思います。

古典や歴史などの人文科学を学ぶことの意義はそこにあるのだろうと思います。

 

古典や歴史といった学問は、学んだからといっていつ役立つかなんてわかりません。

来年かも知れないし、10年後・20年後かも知れない。 時にはほとんど必要とせずに人生を過ごす人さえいるでしょう。

 

それでも、自らの血肉となる学問を身につけておくことは、人生を歩む上で決して無駄ではないはずですし、いざという時に役立つのはそうした基礎的な知力なのです。

 

大学というところは、そういう基礎的知力を養う場所でもあるのではないでしょうか。

 

「すぐ役立つことは、すぐに役立たなくなる」のですから。

先日、大学教授をしている知人に「教師にとって知識を教えることも重要だが、本当に大切なことは『学びへの意欲を起動させること』だと思う」と言われました。

「いかに優れた教師でも知識量には限りがあり、知識の森に自ら分け入っていこうとする自学自習にこそ学びの本質はある。学生に「学びへの意欲」が生まれれば、教師の仕事は半ば終わったようなものだ」と。

 

小学校の頃「昆虫にメチャクチャ詳しい奴」や「どんな草花でも見たら名前が分かる、ミニ牧野富太郎」がいました。

大人になってからは、オーディオになると溢れんばかりの蘊蓄が出てくる人や、ワインを語らせると時間を忘れて話し続ける人にも出会いました。

 

人は、本当に興味を持つといくらでものめりこむことができる能力を持っているのです。

「もっと詳しく知りたい」「もっと深い知識を身につけたい」とのめりこんでいく、これこそが「学びへの意欲」が起動した瞬間です。

 

ただし「学びへの意欲」が発動するきっかけは予測不能です。

全く同じモノを見たり聞いたりしても、「もっと知りたい」と強い興味を抱く人もいれば、関心を持たない人もいる。むしろ後者の方が多数派でしょう。

先の知人も「だからこそ、できるだけ多様な教育理念を持ち、多様な教え方をする、いろんなタイプの教師に出会えるようにしてあげること、さまざまな機会に触れられるようにしてあげることが重要だし、教師の側もシラバスに添った授業をするのではなく、学問への興味を掻き立てるにはどうすればいいかを試行錯誤することが大切だと思う」と言っていました。

 

仕事においても同様のことが言えるだろうと思います。

「この仕事をやりたい!」という意欲を起動させることができれば、人から指図されなくても自らどんどん積極的に仕事を推進していく力が湧き出てくるでしょう。

 

そういう意欲は上から「意欲を持って仕事に取り組め」などと指導されて発動される訳では決してありません。

勉強同様、人が仕事への意欲を発動するきっかけは千差万別で、こうすればいいという特効薬はありません。

思い切って仕事を任せ、トップが責任を取ってあげることがきっかけになることもあるでしょうし、自己申告での異動や業務ローテーション・素晴らしい顧客との出会いが仕事への意欲の発動につながることもある。

 

ただ、上意下達が徹底された風土から仕事への意欲が発動されることは、おそらくないだろうと思いますし、査定や評価、報連相といったものからも離れたところにあるのではないでしょうか。

 

レナード・バーンスタインという作曲家は「もしも自分が、来年どういう曲を作るのか計画書を出せ、とか曲創りのプロセスを定期的に報告しろ、などと言われたら、作曲への意欲そのものをなくしてしまうだろう」と言っていました。

 

私たちは、小さい頃から学校では成績をつけられ、会社では勤務考課される。

ずっとそうやって「査定されることに慣れきって」育ってきました。

 

査定されることに慣れ過ぎていて、誰かが作問したことに「正解」を返して良い点をもらおうとする行為が勉強や仕事の中心になっている事が少なくありません。

 

でも、本当に重要なのは「自ら問いを立てる」ことのはずです。

「これをやりたい」「もっと深い知識を身につけたい」という想いを持つことは「自ら問いを立てる」ことであり、言い換えれば自ら「場を主宰する」ということです。

 

経営者・指導者の大きな仕事の一つは、一人でも多くのメンバーが自ら「場を主宰できる」風土・環境を創ってあげることでもあるのだろうと思います。

 

世に数多く存在するマネジメント論や360度評価云々に振り回されることなく、業績をしっかりと挙げながらも、自ら「これをやりたい」と仕事への意欲を起動するメンバー、言い換えれば「場を主宰できる」メンバーが一人でも多く出現するような環境・風土創り・・・言うは易く、実際には相当難しい課題ではありますが、これに取り組むことが経営者・指導者にとって真に大切なことなのではないかと思いますし、一人でも多くのメンバーがビジネスパーソンとして幸福になる道筋でもあるのだと思うのです。

 

「利益を挙げなければならない企業において、そんなのきれい事だ」と言われるのは理解できますし、その方がリアリスティックに聞こえるかも知れません。

でも理想論に対して「そんなの無理に決まっているだろう」と知った風な言葉を口にした瞬間に、その人は経営者として、と言うより人として進化するのを止めてしまったのと同じではないかと思うのです。

 

「業績をここまで挙げる」といった事業体としての目標だけでなく、人々が生きる場としての企業の在り方を模索することは決して小さくない意味を持っていると信じています。

昨今、政治系の雑誌広告が新聞などに頻繁に掲載されています。

それらを見ると、思想的に反対の立場にある人たちを遠慮会釈なく罵倒する文言が並んでいます。

 

テレビの討論番組などでも、発言者が保守かリベラルかに関係なく、自分と異なる意見を持つ相手を小馬鹿にし「何でこんなことが分からないのか」と言わんばかりの上から目線での発言が飛び交っているので、最近は見る気が失せました。

 

ごく一般の人々によるSNS等での発信においても、少し政治絡みになると「こんなことも分からないのか」と言った、上から目線で相手を馬鹿にする語法がまかり通っています。

 

「言論の自由」は憲法で保障された基本的人権の一つですが、そもそも「なぜ言論の自由が大切なのか」・・・言論の自由が拠って立つ基本原理を私たちはあまりにないがしろにしているのではないでしょうか。

 

「言論の自由」はなぜ大切なのか。

それは、人々が自由に意見を交わし、異なる意見に耳を傾けて議論を重ねていくことで、より良い考え方に収斂していく可能性が、そうでない場合よりも高いからだと思います。

 

親兄弟でも意見が異なることは数えきれないほどあります。

ましてや他人同士であれば多様な意見が生まれるのは当然のことで、自分と全く異なる意見を持つ人も決して少なくない。

 

だからこそ、情理を尽くして自らの意見を述べると同時に、立場や意見の異なる相手の話にもしっかりと耳を傾けて互いの意見をじっくりと吟味する。

そうすることで、より良い考え・より優れた意見に到達する可能性が、そうでない場合よりも高いはずだという信念こそが「言論の自由」に意味を持たせているのではないでしょうか。

 

「言論の自由」が成り立つのは、誰もが好き勝手な事を言っていい自由の存在ではなくて、言論が自由に行き交うことで結果的に社会がより良い方向に進んでいくはず、という「言論の場への信任」があってこそだと思います。

 

会話する喜び、コミュニケーションすることの喜びは、自分が思いもしなかった考え方やアイデアを他人から得られることであり、自分とは異なる感受性を通して違う世界を知ることにある、私はそう思っています。

 

私が、このブログなどを含めて、できる限り丁寧な言葉で感情的にならないように文章を書こうとするのは、私に反対する意見の方々にこそ読んで頂き、できれば「お前の言うことにも一理ある」と思って頂ければ幸いですし、「いや、それは違うよ」という場合には、理路整然とした反対意見を聞かせて頂くことで自分自身の考えを吟味していきたいと考えるからです。

 

異なる意見・立場の相手に私の意見を届け、同時に相手の意見にも耳を傾けるためには、私が上から目線での発言をしていては望むべくもありません。

情理を尽くして、丁寧に自らの意見を述べると同時に「自分は間違っているかも知れない」という謙虚な気持ちを持ちながら相手の意見に耳を傾ける、そんな姿勢があってこそ、より良い議論・コミュニケーションが成り立つのではないでしょうか。

 

社会をより良くするための手段であるはずの「言論の自由」が、その役割を正しく発揮できるためには、私たち自身が「言論が行き交う場を、真っ当なカタチで活性化することが社会を良くするはず」という「言論の場への信任」が必要なのですが、それなしで「自由」だけが独り歩きしているのが、民主主義国家と言われている(日本を含む)多くの国々で行われていることのような気がしてなりません。

 

民主主義が危機に瀕している、という論調を時々目にしますが、その理由の一つが、人々が言論の自由の何たるかを理解していないから・・・

私はそんな気がしてなりません。

大人は身近な問題に対して、その多くが一筋縄ではいかないことを知っている。

だが、大きな問題になると、突然子供のように一刀両断したがる。

 

夫婦関係や親子関係・組織内の人間関係・難しい顧客への対応・・・人生において右か左か簡単に解決策を見いだせない事は山ほどあります。

外部の人から「こうしたらいいのではないか」と正論めいたアドバイスをされても「部外者だからそう言えるけれど、そうは言ってもなあ」と悩む。

大なり小なり、そうした問題を誰もが抱えているものです。

 

ところが原発存続や日中関係・普天間移設など大きな問題になると、きっぱりと意見を決めて「こうすべき」と一刀両断の意見を述べる人が少なくありません。

しかも、その「きっぱりとした意見」というのがたいてい二極に分かれるのであって、三極や四極・五極・・・になることはまずない。

 

新聞やテレビ・ネットを含めたメディアは「勝ち組・負け組」や「右か左か」「YESかNOか」といった分かりやすい分類を提示した方が読者の注意を惹くのでしょうが、身近な問題でも簡単に答えを出せないことはいくらでもあるのに、大きな問題をそんなに簡単な構図にしてしまっていいのでしょうか。

 

そもそも私たちが「問題」と呼んでいるものの多くは、長期にわたる私たち自身の行動や発言の結果であることが多い。

だから、それは「問題」というよりむしろ「答え」と言ったほうがいい。

 

妻が大事にしていたブランドバッグを誤って傷つけたような場合は、謝罪して再購入してあげればおそらく一件落着するでしょう。

しかし、長年連れ添った妻が突然「離婚したい」と言い出し、驚いた夫が離婚を拒否しているような場合は、妻には子育てや家事に対する夫の姿勢や言動などへの積年の想いが詰まっており、「離婚問題」が勃発したのは長年の結婚生活に対する結果であり「答え」である訳です。

両者共に納得・満足するような解決策を見つけることはたやすいことではありません。

 

同様に、世の中で「問題」と言われていることの多くは、過去の施策や不作為などの長年の積み重ねによって生じたものであり、時間の経過と共に利害関係者は多岐にわたり、複雑に絡み合っていますから「右か左か」なんて簡単に決められることはまずない。

 

原発存続の問題にしても、エネルギー確保やCo2削減・震災への安全性・廃棄物処理・テロ対策・電気代高騰の可能性・・・等々、挙げればきりがないほど数多くの要素が絡みます。 

地元の人々にとっては、どれほど科学的根拠を並べて安全と言われても「絶対安全と言われながら福島は被災したじゃないか」という「感情のもつれ」もある。

 

各々の利害関係者の要求や想い・科学的データを根源的かつ冷静に分析しながら議論を進めると共に「クリーンエネルギーだけで日本の電源を安定かつ低コストで確保することは本当にできないのか?」「高度な安全性を担保できる地下埋設型小型原発建設の可能性はないのか?」と言った多少なりとも前向きかつ丁寧な議論に持っていく努力が必要なはずですが、メディアは「賛成か反対か」で簡単に切り取ってしまいますし、市井の人々もその構図に乗って議論をしています。

 

さまざまな要素を踏まえると安易に二項対立で論じられる案件ではないはずですが、冷静沈着な声の多くは賛成・反対の二項対立の渦に完全に飲み込まれてしまっています。

 

あらゆる思想性というものは、二項対立に決着をつけることにあるのではなく、さまざまな利害得失要素を抱え込んだ葛藤の中で、多種多様な選択肢を踏まえて思索することから始まるものだと思います。

それは身近な問題でも大きな問題でも同じです。

 

高等生物ほど複雑な物事を考えることができ、人間はその頂点にあります。 

ただ、人間の脳の重さは1200~1500gで体重の2~2.5%でしかないのに、摂取エネルギーの20~25%も使ってしまう浪費家なので、脳科学の知見によれば「脳は放っておくと、すぐに楽をしたがる」のだそうです。

だから、論理的な判断を積み重ねていく「アルゴリズム」的思考よりも、限られた簡易的情報に基づいて判断を下す「ヒューリスティック」処理をしてしまう傾向があるのですが、ほとんどの人間はそのことを自覚すらしていないと言われます。

安易な判断に基づいて確固たる信念を持ち、それを変えない方が、脳が楽だからです。

 

情報が氾濫している現代は、自分が気に入った情報を簡単に見つけることができてしまう訳で、それについて深く思索することなく、一つの考え方に固執して確信を持った方が脳生理学的に楽なので、我々はあまりにも簡単に一刀両断してしまいがちなのです。

 

脳科学の知見は、きっぱりと何かを言う人は、自分で考え抜いた訳ではなく、メディアなどの受け売りであることが多い、ことを指摘しています。

人生経験の長い方は同意頂けると思いますが、人が過剰に断定的になるのは、たいていの場合、他人の意見を受け売りしているときですから、確かにその通りだと思います。

 

そもそも脳は、複雑な事を考えれば考えるほど、あちらこちらへと迷い、考え方が変遷するものなのです。考えてみれば当然ですね。

 

迷う、悩む、というのは高等生物であることの証でもあります。

 

「ブレない」人であることを、我々はほめ言葉として使うことがありますが、脳科学的には「脳を使っていればいるほど我々は悩み、ブレる」のです。

 

さまざまな要素を考慮しながら考えて考え抜いた末にたどり着いた意見を持っている人は、今の意見を持つに至った思索の変遷(ブレ)を述べることができます。

あらゆる可能性を吟味し、真剣かつ徹底的・根源的に思索していれば、いかなる問題でも考え方が変遷しているはずで、もちろん考えが変遷してきたことを自ら認めることもできるし「今後絶対に自分の意見が変わらない」と断言することにも躊躇がある。

 

だからこそ、本当にあらゆる要素を検討した上で考えて考え抜いた人というのは、意見の違う相手に対しても謙虚になれるのです。

 

でも、かたくななまでに自説を譲ろうとしない人は、自説に確信があって「自説を譲らない」のではなく、自説を形成するに至った自己の変遷を言うことができない(=本当に自分自身で考えて考え抜いた訳ではない)ので「自説を譲れない」のです。

 

大きな問題は積年の行動による結果であり答えであり、それを解決するためには複雑に絡み合ったものを一つ一つ丁寧に解きほぐしていく作業が必要である。

それが知性を発動するということではないかと思います。

 

ビジネスにおいても「ようするにどういう事だ」とか「一言で言うとどうなるのだ」という問いかけが頻繁になされますが、そういう手法に馴染まない物事は多々あります。

 

安易に話を簡単にしてはいけない。  私はそう思います。