昨日は
織田信長の命を受けた光秀の丹波攻めで、
下の写真の、富士山の形をした
八上城で波多野氏は1年以上も籠城を続けました。
1579年に追い詰められた城主の波多野秀治は、『開城を迫るのならば、一族の保障と、光秀殿の母御を差し出されよ』と申し出ました。
光秀の母 牧は
『和平のためならば』と断腸の思いの光秀を励ましつつ、八上城に入りました。
降伏した波多野氏は恭順の礼を尽くすため安土城に向かうも、信長は即刻、切腹を命じた。
このことを知った八上城では、
兵たちが牧を十字架にかけてはりつけにし、
光秀は、
『いかに君主といえども、母の仇は不倶戴天の仇』」と、ブチギレ金剛になったとか。
現在、本能寺の変のきっかけは
足利義輝と長宗我部元親に使えた
石谷家文書が岡山県林原美術館からみつかり
四国説が、有力になっているようです。
明智光秀が、四国の長宗我部家と
婚姻を結んで和平するよていが、
信長が、裏切って攻める用意の最中だったとか