授業


授業中先生が生徒を指名して、問題に答えさせる事は良くある事です。
他の生徒は指名されるとその場で口頭で答えていました。
喋れない私は、指名されると前に出て黒板に書いて答えていました。

人から注目される事がなにより苦手な私は、指名される度緊張していました。黒板まで歩いて行くところから、私が書き終えるまで、みんななに注目されるのかと思うと、苦痛でたまりませんでした。

そしてもう一つ、私にとってかなりの苦痛だった事。それは国語の朗読です。
授業中1人ずつ順番に国語の教科書を読む時間、喋れない私は順番を飛ばしてもらっていました。
その代わり先生にカセットテープを渡されて、家で朗読して録音して来るように言われていました。そのテープを先生が1人こっそり聞いてくれるのならばまだマシなのに、国語の時間にラジカセを持って来て、クラス全員にテープを聞かせるのです。

私はその時間とても恥ずかしくて、ずっと俯いてみんなの顔を見る事が出来ませんでした。みんなに私の声を聞かれる事が苦痛でした。
何より
「テープで声を聞いてもらってるんだから、いつか学校で直接喋って声をみんなに聞いてもらいなさい」
と言われているようで、プレッシャーに感じていました。
実際何人かから
「テープの声素敵やん。学校でも声聞いてみたい」
と言われた事はあります。
そして過去記事にも書いたように、特定の友達とは学校以外で喋っていたため、放課後一緒に遊べば声を聞けるんじゃないかと思われて
「今日私の家で遊ばないはてなマーク声聞いてみたい」
と、誘われた事もあります。

授業中私の朗読テープを聞くことで、みんないつか私の声を直接聞けるんじゃないかと期待していると思い、朗読の宿題は嫌でたまりませんでした。

何より家で朗読をしていると、母から
「学校で教科書読まれへんから、あんた1人だけテープに録音しやんなあかんねんで。いつまでこんな事続けるんよはてなマークいい加減にしてほしいわ」
と文句をいわれるようになり、それもこの宿題が嫌でたまらない理由の一つでした。


 委員会


小学校高学年になると、委員会活動が始まりました。
中でも放送委員は人気の花形委員で、放送委員に入りたいと憧れる人は多かったように思います。
私は学校では喋れない為、放送委員なんてもってのほかでした。喋れなくても支障のない委員会に入ろうと決めていました。

そんな私は小学5年の時は、給食委員に入りました。私の学校の給食委員の仕事は、1週間交代で食器類などの返却場所に行き、各教室から返却される食器やお鍋などを受け取って、台車に乗せていく仕事です。残飯は残飯で一つのお鍋にまとめて入れて、飲まれなかった牛乳瓶もまとめて置いていました。空になったボウルやお鍋は重ねて置いていました。給食の時間が終わると給食当番が返却にやって来るのですが、中々返却に来ないクラスがあれば、こちらから教室に取りに行く事もありました。

私は喋れないので、教室まで取りに行く以外の仕事を中心にやっていました。教室に取りに行くとなると
「給食委員です。食器の返却がまだなので、取りに来ました」
などと言わないといけないのです。

全てのクラスの返却が終わり、残飯もまとめも終わった後、給食のおばちゃんが食器類を取りにやってきます。私達給食委員は、給食のおばちゃんがやって来る前に仕事が終われば解散してもいいのですが、一緒に給食委員を担当していた6年生が
「給食のおばちゃんが来るまで待って、給食のおばちゃんのお手伝いもする」
と、決めていた為、年下の私は帰りづらく一緒に残っていました。別に残らなくてもいいと言われたのですが、教室に戻ったところで昼休みも独りぼっちなので、だったら残ってお手伝いしようと思いました。

給食のおばちゃんが来ると、給食を運ぶ専用のエレベーターに台車ごと乗せて降ろします。下で受け取る人もいるので、何回かに分けて全ての食器類、鍋など降ろすのです。
それを6年生の給食委員も手伝って、台車を押してエレベーターに入れます。給食のおばちゃんは
「大変やからいいよ。昼休みやし、友達と遊んだらはてなマーク
などと最初は言っていたけど
「私達が手伝いたいからやらせて」
とお願いしていたら、いつの間にか給食のおばちゃんも何も言わなくなりました。
6年生は給食のおばちゃんに
「今日の給食美味しかったよ」
とか
「また同じの食べたい」
「美味しい給食をありがとう」
など、感謝の言葉を伝える事も多々あり、給食のおばちゃんも、エレベーターに運ぶのを手伝ってもらった感謝を伝えていて、お互い素敵だなと思いました。
それに給食のおばちゃんが来るまで待っているのは、直接給食を作ってくれている感謝を伝えられるからだと言うような事も言っていたので、とても素敵な人だなと思いました。

私は喋れない為、声に出して感謝を伝える事は出来なかったけれど、黙って台車を押すのを手伝っていると
「ありがとう」
と言われて、こんな私でも誰かの役に立てるんだと嬉しくなり、給食委員の仕事は大好きでした。

6年生では、保健委員に入りました。

仕事内容は、休み時間に交代で保健室に行き、怪我人や体調不良の生徒が来たら対応する事。怪我人が来れば、手洗い場で傷口を洗ってもらった後、保健委員が手当をします。消毒をして、絆創膏を貼ったり。
他にも体調不良の生徒が来たら、体温計を渡して測ってもらい、熱があれば保健の先生に報告をして次の授業を休むか、早退するか、生徒と先生で話し合ってもらいます。
休む場合も早退する場合も、生徒のクラスの担任の先生に報告に行き、引き継いでもらいます。
他にも消毒する時に使うガーゼなどの補充も、保健委員の仕事でした。

運動会でも交代で救護テントに詰めて、怪我人が来たら対応していました。

これだけの仕事内容。怪我人や体調不良の生徒の対応。喋れないと困ります。私は仕事内容を知らずに、なんとなく喋らなくてもいけるかなと思って入ったので、保健委員に入った事を後悔しました。

喋れない分同じクラスの保健委員には、コミュニケーションの部分で助けてもらっていました。
例えば怪我人が来た時に
「あそこの手洗い場で傷口を洗ってきてね」
と言った説明。
体調不良の生徒が来た時に体温計を渡して
「熱測ってね」 
と言った説明。

そんなに頻繁に保健室に生徒が来る事はなく、誰も来なくて保健室でボーッと過ごす事の方が多かったです。保健室にはナイチンゲールの伝記などの漫画が置いてあり、喋れない私はひたすら漫画を読んで過ごしていました。他に同じクラスに2人保健委員がいたので、その2人は仲良くお喋りしていました。

体調不良の生徒が来ても、熱がなければそのまま帰すので、たまに熱があったりした時はその生徒のクラスを聞いて、担任の先生に伝えに行くのも、私は一緒について行くだけで同じ保健委員に伝えてもらっていました。他の先生も私が喋れない事を知っているから、私に対して何か話しかけて来ることはなかったです。

喋れないけど、ガーゼなどの補充のお手伝いや、消毒の時のお手伝いなど、やれる事はやっていました。

稀に休み時間に怪我人が立て込んで、次の授業に遅れる事もありました。

今から考えたら、保健の先生は何で変わってくれなかったんだろうはてなマークって思います。授業中に起きた怪我だと、流石に保健委員はいないから保健の先生が手当するけど、休み時間保健委員が居る時間帯の怪我は全て、保健委員任せでした。
よっぽど酷くて対応出来ないと判断した時のみ、保健の先生に見てもらっていたと思います。

稀に授業に遅れてしまうと、担任の先生から
「何で教室に戻って来るのこんな遅いのはてなマーク
と言われてしまい、その時も同じ保健委員の子に
「保健委員の仕事してたら遅くなりました」
と伝えてもらっていました。

次の授業を休むor早退する生徒がいた時は、職員室に担任の先生がいないか見に行ったり、いない時は生徒の教室まで行って担任と話をしないといけなく、本当に面倒でした。今の時代だったらスマホがあるから、そんな面倒な事にならないんだろうなと思います。

って言うかあの当時は生徒が当たり前に怪我の手当をしていたけど、今の時代は生徒がやる事はないのかもしれませんね。

保健委員は喋れない事で周りの人に助けてもらう事もありましたが、保健委員の仕事の日は教室から離れて過ごせるので、楽しかったです。怪我人が立て続けに来た時は忙しい分退屈ではなくなるので、1日に1回は立て続けに来て欲しいなと思っていました。教室で休み時間に本を読んで過ごすより、保健委員の仕事をしている方が好きだったし、人の役に立ててる実感がありました。