以前、私は『変わるもの、変わらないもの』の中で、春は(個人的には)別れの季節のイメージが強いということを書きました。

「別れのイメージが強い」ということは、言い換えれば「出会いのイメージが弱い」ということになります。実際はたくさん「出会い」もあったはずなのに、どうして記憶に残っているのは「別れ」の方ばかりなのでしょう。今回は、その点について考えてみました。


「出会い」より「別れ」の方が強く印象に残る理由――それは、「出会い」が後から気づくものであるのに対し、「別れ」はより直接的に体感するものだから――というのが、

自分なりに考え出した答えです。

 

もちろん、全部が全部これに当てはまるとは考えていません。人にしろモノにしろ、中には「出会い」の方が鮮烈で、「別れ」の方があやふやというケースもあるでしょう。ただ、これまでの人生を振り返ってみても――自分の記憶力と人生経験の乏しさの問題もありますが――、今でもはっきりと思い出せるぐらいの「出会い」は浮かんでこないのです。

 

日々の生活の中で、過去の記憶はどんどん奥の方へと追いやられていきます。それは「出会い」も「別れ」も例外ではありません。しかし、「出会い」は「別れ」よりも前に経験するものであり、なおかつ出会った瞬間はそれが今後の自分の人生にどれだけの影響を与えるかまではわかりませんから、比較的記憶が薄れがちになってしまうのも無理のないことと言えるでしょう。また、「別れ」に対して過敏になってしまうのも仕方のないことと思います。

 

最近の話だと、東芝未来科学館の一般公開終了のお知らせを見たとき、私はかなり落ち込みました。

そこで、少しでも後悔のないように、先日ラスト訪問をしてきました。

 

 

閉館時間が近づくにつれて、目頭がだんだんと熱くなるのを感じました。

そのとき私の胸中では、寂しい気持ちと感謝の気持ち、そして「最後に来れてよかった」という安堵の気持ちが混ざり合っていました。

「別れ」に対する過敏さは、できるだけ後悔しないように生きるための、一種の防衛反応のようなものなのかもしれません。

 

東芝未来科学館は学びと娯楽が融合した素晴らしい施設でした。今まで本当にありがとうございました。