先ずは、10月23日開催ツアー報告が大変遅くなりましたことを先ずお詫びします。

ツアー行程は以下です。

9:00市民会館前出発 → 田川内1号古墳(八代日奈久)県指定文化財:横穴式石室  → 百済来地蔵堂(坂本町)市指定文化財:本堂、梵鐘、五輪塔群、古位牌、日羅公墓など → 芦北町薩摩街道佐敷宿交流館 昼食 → 芦北町総合コミュニティセンター(葦北史談会と懇談・資料室見学) → 日羅将軍神社(津奈木赤崎)→ 野坂の浦(芦北田浦)※野坂の浦比定地には諸説有り→ 17:30市民会館着

▶前日のシンポジウムのテーマ「渡来人の足跡と地名」で、主役の一人とも言える葦北出身の『日羅』の事蹟を訪ねてみようという企画。キャンセルも出たが、ほぼ定員の31人参加。好天にも恵まれ、2台のマイクロバスで出発。先ず、田川内1号墳。古代には近くまで海岸線が迫っていたといい、縄文時代の貝塚も現存していた。横穴式石室の内部に円文などの装飾を持つことで知られるが、熊本地震の影響で内部の見学はできず、会長等の解説に耳を傾けながら墳丘を眺めて古代に思いを馳せた。次は、古代には葦北君の力が及んでいたとされる百済来にある百済来地蔵堂。祀られている仏像のうち1体が盗難に遭って以来、本尊(延命地蔵)は格子越しに見る。日羅が父親(阿利斯登)に贈ったとのいわれがあり、厳かな雰囲気を漂わせていた。本堂の手前にある日羅の墓とされる塚も密やかに歴史を語っていた。昼食後は「葦北史談会」との懇談。史談会(松原久美子会長)の挨拶に始まり、史談会の会員2名からは「葦北君の勢力範囲は薩摩北部まで広がっていた」や「日羅と阿利斯登は球磨に眠る」といった独自の見解が披露され、参加者からも質問が活発に出された。懇談の後、センター内の歴史資料室で町教委の深川裕二氏の説明を聞きながら見学した。その後は海を臨む小高い丘にひっそりと佇む「日羅将軍神社」へ。ここは海上の小学校で有名になった津奈木町赤崎の地。日羅は軍人ではないが、服装の姿からこう呼ばれるようになったという。神社は、日羅の遺体を載せた船がこの辺りに着いたとの言い伝えから祀られたもの。世話人の方がお茶菓子を準備して私達一行を待っておられ、この予期せぬ出来事に一同は大感激。ツアー最後は田浦の「野坂の浦」。万葉集に長田王がうたった「葦北の 野坂の浦ゆ 船出して 水島に行かむ 波立つなゆめ」の歌碑が不知火海に突き出た岬に建てられ、波穏やかな内海とその先に横たわる天草の島々が万葉の時代と変わらぬ情景を映しているように思われた。【詳細は「熊本の地名」ニュースレター11月号に掲載】