今年も3.11のこと、アップします | ゆるゆるフォトライターmamadasの日常と仕事

今年も3.11のこと、アップします

私の生涯のなかで忘れられないこと。

それはいろいろあるけれど、あの3.11はやはり特別だった。

たまたま東京にいて揺れを体験し、テレビ中継を見て驚き、さらに現地を取材して心が震えた。

 

今年も3.11後に、綴ったブログをアップします。

 

 

 

東京・市ヶ谷駅で総武線を降りた途端だった。ゆらりときた。まるで大きな船にでも乗っているかのような長い周期の揺れだ。


3月11日。大学の広報誌の編集打ち合わせで東京に出張。時間に余裕をもって飛行機の便を選んだつもりだったが、予想以上に羽田からの移動に時間がかかり、少々あせりながら総武線の先頭車両を降りたときそれはきた。


地震だった。
 

 

 


 

 

 


 

 

 


 

すぐ揺れは収まるだろうとタカをくくっていた。しかし、なかなか収まらない。とにかく15時スタートという会議に間に合うよう日テレ通りを歩き出したけれど、まだ揺れている。


情報を取ろうと、てっとり早く福岡の事務所に電話。すると東北地方で震度7以上の地震が起こったという。だが、そのとき知り得た情報はそこまで。


携帯からニュースを見ようにもつながらない。再度、事務所に電話をかけたが、
もうつながらない。これじゃ、なんのための携帯なのか。


とにかく会議場所に行ってみると、すでに集まっていた編集スタッフのみなさんも不安そう。それでも、会議は始まったのだけれど、なかなか揺れは収まらず、時に下から突き上げるような縦揺れもまじって落ち着かない。


会議自体は30分も続いたろうか。でも、揺れは止まる気配を見せない。会議中も携帯でニュースにアクセスを試みるが、まったくつながらず。情報がないとこんなにも不安になるものなのかと実感する。


それでも揺れ続けている時間から考えると、相当大きな地震だということはわかった。しかし、映像を見るまで、被害の大きさがわからなかった。


会議がひと区切りついて、隣の部屋にあったテレビを見た。


ぼうぜんとなった。


東北地方が津波でとんでもないことになっていたのだ。見入っていたスタッフの間からもその惨状に「うわっ」とか「ひどい」とかの断片的な言葉しか出てこない。


中継映像に人が乗ったままの車が津波に流されるさまが一瞬まじり、息をのむ。結局、会議はお開きになったのだが、首都圏はほとんどの電車が運行をやめるか、大幅な間引き運転で大混乱となり、スタッフも帰れない人がほとんど。


わたしも宿泊予定のホテルまで行けない。いわゆる帰宅困難者になったのだが、大学側の好意で建物1階が開放されることになり、そこに泊まることになった。


窮屈な格好でソファに寝入ってしまったため、体のあちこちに痛みを覚えながら起床。大学や、誰かが差し入れてくれたパンなどをいただく。そうこうするうちに福岡に帰れるか不安になったが、午後の便はほぼ定刻通り飛ぶことが、携帯を通してわかったのでひと安心した。


ところがテレビでは空港が大混乱しているというので、スタッフのみなさんへのあいさつもそこそこに、とにかく羽田をめざす。

 
運よく、電車の接続もスムーズでなんとか空港に到着したが、空港ビル内はいつもの様子とはまったく違っていた。一夜を過ごしたであろう人があちこちに疲れた表情で床にすわりこんだり、寝そべっている。カウンター前にキャンセル待ちの人が長い行列をつくっており、確かに大混乱していた。


でも、印象的だったのはみなもの静か、というか、進まない行列に叫んだり怒鳴ったり、大きな声をあげる人がおらず、じっと耐えているというか、今の状況をすなおに受け入れている。逆にヒステリックな空港アナウンスが耳障りでしょうがない。

 
そういえば、地震直後の東京のみなさんの行動にも驚いた。泣き叫ぶでもなく、怒号を上げるでもなく、落ち着いて周りの状況を判断し、集団ヒステリーを起こすこともなく行動している。あの、ゆらっと来た瞬間、パニックに陥ることなく、すみやかに電車から降りる姿には感動すら覚えた。


地震に対する心構えが違うのだろうか。


さらにあれだけ揺れたにもかかわらず、翌日、電車から見た街並みに建物の崩壊もなかったことにも驚いた。昔のモルタル造りのアパートもちゃんと建っていたのだ(部屋のなかまではわからないけれど)


そんなこんなで、なんとか帰福。帰宅する途中、ついでだからと、先ごろ開業したJR博多シティによってみた。

どの店も大にぎわいだった。それはいいことだけれど、目の前に広がる平和過ぎる光景と、ついきのう見た東北の映像や自分の体験とのギャップが大き過ぎて、言葉が出なかった。

 




2011年6月のブログ



ここ半年、かなり忙しく、このブログも3月の大震災に東京で遭遇したことを書いて、しばらくちゃんと更新していなかったが、ついにその被災地に取材で行くことになった。


最初に訪れたのは塩竈市。市長にインタビューしたのだが、話を聞くと浦戸という大きな島が市の沖合にあって、それが大きな防波堤の役目を果たしてくれたそうで、市内の中心部は水に浸かる所もあったものの、建物が全壊するような被害はあまり出なかったという(もちろん島では建物が流されるなどの大きな被害を受けている)



実際、市内を歩いても地盤沈下している箇所は見られたものの、報道で伝えられているような一面壊滅という状況ではなく、建物はかなりしっかり残っていた。

 

 

 


 

駅近くにあるお寿司やさんも元気に営業中だった。よし、これは地元に貢献しなきゃ、なんていいながら、取材チーム一同でおいしい魚やお寿司をいただくことにした。
 



板さんに話を聴くと、建物は流されなかったらしい。でも、「ここまで水は来たんですよ」と指をさしてくれた。
 



お店は4階建てだそうで、板さんは波が来たとわかった時点で、急いで3階まで上がったという。


こういう立ち直った店(でも、改装などにかなりの借金を背負ったらしい)のことがあまり伝えられていないのでうれしかったが、それはほんの一部であることが翌日訪れた気仙沼でよくわかった。


一部の報道で、被災地はもう落ち着いたみたいに思っている人もいるようだが、5月末時点での現実はこうである。


気仙沼では地元新聞の記者を取材したのだが、彼も知り合いなどからそんな電話が入ると憤っていた。現地ではようやくがれきを片付けるための道路が形を現した程度に過ぎず、まだまだ復興に向けてほんの小さな一歩しか踏み出せていないのだった。


塩竈では観光客に戻ってきてもらうためと、住民の意気を上げるためにも夏祭りは絶対やるそうだが、気仙沼ではそういう状況だから、早々に夏祭り中止が決定されている。


一応、6月に基幹産業であるカツオの水揚げが再開できるよう市はめざしているそうだが、それも裏付けがあってのことではなく、目標を立てることで復興への意気を上げようということらしい。実際はカツオが水揚げされても市場がない、倉庫がない、流通のためのトラックがないなど、関連産業は壊滅状態で、ないない尽くしなのだ。


 驚いたのは市内を流れる大川という川の両側で、被害状況がころっと違うことだ。


川の手前の地区は壊滅。でも、川向こうにはしっかり家が残っている。同じ気仙沼のなかでもこうも違う。


先述したように同じ東北でも復興に向けて進んでいるところもあれば、気仙沼のようにまだこれからというところもあり、事情は自治体によって異なるし、その自治体内でも地域によって被害規模が大きく違う。

 
このことはやはり現地に行かないとわからなかったことだ。

それにしても、政治の軽いことよ。

あの人たちは現地でなにを見てきたのだろう。