ジャリッ。
「リクルートできちゃう旅館の和装ユニフォーム」ならおまかせの
布の力久磨衣(くまい)の安達美和です(^◇^)
オリジナル暖簾や館内着・羽織なんかも企画製造してるんだぜッ
口の中で、「ジャリッ」とも「ザリッ」とも「ガリッ」ともつかない音がした後、味のない硬い何かの破片が、舌に触れました。今しがた、ずっと舐めていた飴を思い切ってかみ砕いたのですが、明らかにその硬い破片は飴のそれではないことが分かりました。車のミラーを覗きこんでみると、見慣れたはずのまぬけな顔が、さらにファニーな仕上がりになっていました。
前歯が、欠けていました。
んー、どうしたもんでしょうか。よりによって、前歯。幸い欠けたのは下の歯だったことと、最近花粉症になったことでマスクが手離せないことが重なって、周囲の人にベリー・ファニー・フェイスをさらす憂き目にはあわずに済みましたが、しかし、いかんともしがたい。
鏡に向かって、「いっ」と歯を剥いてみました。真正面からならまだごまかせるのですが、下からのアングルにはもう耐えられない顔になっています。もし、子供に下から覗きこまれたら、すぐに前歯に欠けていることに気が付かれてしまう。「おばちゃん、歯、欠けてるよ!」と大声で言われても、へらへら笑って人ごみに消えるくらいしかできない。つらい。
はぁ、しばらくのあいだ、わたしは愉快な歯欠けおばさんとして暮らさなければならないのか。そのあいだにわたしに初めて会った人は、わたしのことを「前歯の欠けた社会人」と認識するのだろうなぁ。もしくは、「前歯の欠けた30代の女」。はたまた、「前歯の欠けた営業マン」。あるいは、「前歯の欠けたネズミ年の人」。
そんなことを考えているうちに、ふと思い出したのはお笑い芸人のハリセンボンのはるかさんでした。有名人なのでいちいち説明するまでもありませんが、ハリセンボンのはるかさんは色白でガリガリで薄幸そうな女性です。デビューからしばらくのあいだは、前歯の一本が明らかにまがまがしい紫色で、一目で「神経が死んでいる」ことがまる分かりという、とんでもない武器を持っていました。
わたしが最初に彼女を覚えたのも、彼女の「前歯の神経が死んでいる」というビビッドな視覚情報にによってです。なんだか幸が薄そうだとか、他にもはるかさんを記憶するための情報はないでもありませんでしたが、やはり人間は一番インパクトがある部分を自然とキャッチしてしまうものなのですね。「薄幸そうである」という情報は、「前歯の神経が死んでいる」という情報に勝てない。というより、前者はあくまで「印象」に過ぎませんが、後者は圧倒的な事実です。彼女が「薄幸そうである」というのは主観です。え、そんなに薄幸そうには見えないけど、という方も、少なからず必ずいらっしゃる。でも、あの前歯は、前からみても横からみても薄目で見ても、どう見ても見事な紫色のあの前歯は、どうしたって「神経が死んだ歯」です。そこに疑問が差し挟まれる余地はありません。見事です。あっぱれ。
ハリセンボンさんはあっという間に売れっ子芸人になり、今ではとんでもない有名人ですが、その足がかりのひとつに、はるかさんの「神経が永眠された歯」が存在していたことは明らかです。
さて、芸人さんのような人気商売でなくても、お客様に自分のことを覚えていただくのは、わたし達ビジネスマンにとっても大変大事なことです。久磨衣のコミュニケーターであるわたし達も、お客様の記憶に残るために、出張の際には必ず自分たちで企画して仕立てた和装ユニフォーム姿で参ります。
わたしが三年程前から、SNSに変顔の自撮り写真をさらすようになったのも、お客様に覚えていただきたい一心でした。(笑顔や真顔の自撮りがどうしても恥ずかしくてできなかったという裏事情もあったのですが)その甲斐もあって、お客様には「いつも白目を剥いた子」として覚えていただき、その記憶のされ方はお客様の脳をちょっと汚している気がして切なくもあるのですが、なんとか目的を果たすことができました。
でも、「変顔」は、あくまで一時的なものです。写真を撮る時にだけ、気張ればそれで済むことです。一方、はるかさんの「神経の死んだ歯」は、治療しない限りそのまま。本当にお客様に覚えていただきたいのなら、一時的な「変顔」などではなく、恒常的に身に付けておける特徴があった方が良いに決まっています。
今日、わたしの前歯は欠けました。恐ろしいので患部には触れていませんが、ベロでひとなめふたなめ三十なめもすれば、もうちょっと欠けた部分を広げることもできそうです。「前歯の欠けた子」という圧倒的な印を手に入れるチャンスです。わたしは、勇者になれるかもしれない。しかし……。
わたしの胸には、確かに葛藤がありました。
これ以上、お客様に覚えていただくチャンスはないかもしれない。顔は人間の看板です。その看板に、圧倒的な特徴があったなら、絶対相手の記憶に残るはずです。お客様の脳裏に最初に浮かぶ営業マンになるためには、治療などしない方が良いかもしれない。しかし……。
でも。でも。
わたし、「前歯が欠けた子」としてお客様の記憶に残りたいのかしら……? 記憶には残りたい。でも、それは「前歯が欠けた営業マン」としてなの? 美和、本当に?
気が付いた時には、なじみの歯医者さんに電話をかけていました。
ハロー、先生。あたしの前歯欠けちゃったの。治してくれる? イエス、イエス、明日の夕方行くわ。じゃあね、どうもありがとう。
電話を切った自分の胸に、妙な悔しさが残っていました。もしもわたしが本当の芸人さんだったら、前歯を欠けたことをむしろチャンスと捉え、なんなら少し多めに自ら歯を砕いたかもしれません。だけど、できなかった。わたし、誰かを笑わせるのは大好きだし、お客様にも覚えてもらいたい。でも、でも、「欠けた前歯」でそれはしたくないの。
気取ってるかしら? そうかもしれないわね。自分でもヤんなっちゃう。
でもしょうがない。
これがアタイ。
歯が欠けたら治したい。
鼻毛が出てたらちゃんと切りたい。
そうよ、普通の女の子だもの。
できるのは白目が限界(そうよアタイは普通の女の子)
前歯が欠けたらすぐにデンティスト(そうよアタイは普通の女の子)
悔しいけれど認めなくっちゃ
それでも誰かの記憶に残りたい
そうよアタイは普通の女の子(フレフレ、アタイ。それいけ普通の女の子)