御茶ノ水駅のホームで地面と平行になるほどに俯いた男が、右足はようやく履いているものの左足だけ、ボロボロの靴の踵を踏み潰して引きずりながら、乗客が並ぶよう指定された中央線側の白線に向かって数センチづつ進んでいる。一歩の飛距離が靴の半分ほどで、ホームの中央をスタートしたときには最初の電車が去ってしまい、こっちまで釣られて彼が次の電車に乗れるのかどうかハラハラしながら見つめ入ってしまった。次の電車の到着の知らせがあったときには、あと一人分だけ前に進めば指定の位置にたどり着く距離まで来ていた。一貫して同じスピードを保っているから、むしろそのまま転落してしまうのではないかと心配したが、行儀よく白線の内側に収まって歩を止めた。首尾よく入線した電車のドアが開き、隣のドアから乗り彼の乗車風景を見届けようと待ち構えた。しかし、時間調整で比較的長く停まった電車のドアが目の前に開かれているのに、足の裏でホームのコンクリートをゴシゴシするだけで最後の一歩を出さない。そうこうするうち発車ベルが鳴り、容赦なくドア
が閉じられ神田へと動き出してしまった。引き返した彼は、線路を背にして再びホームの中央目指して歩き出していた。素晴らしいパフォーマンスだった。 最初暗黒舞踏の担い手かと思った。でもいかんせんコントの国の人なのだった。
時間がない。あんなこともしたかったしこんなことも、あの飲み会には是が否でも参戦したかった。ああ、時間がもっとあれば繰り越ししてでも予定を激しく組めるのに、身を費やすばかりで、なぜこうもうまくいかないんだろう。まったく不甲斐ない。そうだこういう時は、自分が二人いたらいいんだ。さすれば調子の良し悪しをうまく案配して賑やかなところには余裕のある方に、ちょっと真面目で聞き耳さえ立てていれば収穫が期待出来るような席には大人しい感じの方に行ってもらえばいい。いやしかし、果たしてこの二人は第三者の介入なくして対等な立場で尊重し合い、最善を尽くした妥当な割り振りを決められるものなのだろうかという疑問が残る。互いにとっての相手となるもう片方の自分は、やがては同じ自分に帰属するのだという最低限の約束を守り、隔離された状態を経ても、分離以前の関係を記憶に残した他者の信頼に足る己を持ち続けていられるのだろうか。二人をひいき目なしに示し合わせられる元々の自分が、分離によって不自然となる部分の埒外に残っていて、割
り振られたことのある過去をうまくまとめ直せればいい。正常と異常をコンダクトしうるありのままの自分を恒常的に保つ、唯一無二のわたしがいるのだとすれば、パズルの一駒然とした部分の全部への連なりが、欠けた絵柄を補って自然さを象徴するように、それを指した他者が混乱に陥ることなく己に向けて回帰してくるだろう。というかむしろ対人関係などそのような空白をしてなんとか持ちこたえているに過ぎないように思える。前人未踏の細部が部分の集合である自分には空白として常に担保されている。ただ一点、踏破された地点を占めていたのが、遠近法の無限遠点を支配した神の座だったのだろう。不可知の部分に自然が流入すると、神が死んだからこその独裁体制が創造され、反射的に己の空白を捏造してしまう。
今回は前見たときよりお互いを言わく言い難いものとして捉え、かつそれを放置はせず、及ばざる各自の特異な完結点には敬意を払う。そう言った鍛練の過程があったんではなかろうかと思いました。足元が確かだからこそ迷わず出来る選択の世界から、一か八かでも構わず行為全体を投げ打ち、判断力の機能する底抜けの世界へと飛び出して、Mの分岐点になるのではないかと期待してしまいました。 演目の紹介に『生まれて死んでまた生まれて』とありますね。生まれて=死んで、ならば常識的な死生感の範疇で共通理解が得られます。ところが、「また=生まれて」となると、生死を乗り越えた個体の復活劇なのか、はたまた遺伝子の譲り渡しから派生する新たな個体を、過去の「生まれて」で誕生した個体とは別個に生成された生命体に託した結果なのか、宗教感なども織り込んだ相当にかまびすしい問題提議になります。Mの作品は、生=死を別の世界に差し置いて、現在ここにある性にのみ生命の徴を書き込むための演技(他になんと言ったらいいのかわからず
、とりあえず演技にしてみた)を行ったものと見ました。語り起こしの起点を生とするか、死とするか、性とするかで、演技の軌道も異なってくるはずです。性を始源に定め、絶頂を迎えねばならない動的な時制を一定の恒常性に留めおくアクロバットを試みることで、以前以後に引き裂かれる時間関係への配慮を極力抑えることが可能になる。悲劇や喜劇のどちらかに割り振られてしまう運命を遠ざけることが出来る。そういった意味で、絶頂を棚上げにした性差のコントロールによって、物語の萌芽にスラッシュを入れたお二人の設定は、起爆剤無き爆弾のようで理に適っていました。性はコントロールした演技だとしても、本来恒常性とは背反するもので、いつでも現在が優先され、どちらに転ぶかもわからない不確定要素の塊だろうと考えられるわけです。アリストテレスは言います。『~すべてをあますところなくあらわす再現のほうが低俗であるということは、明々白々である。じじつ、多くの動作をするのは、自分で何かをつけ加えないなら観客には理解されないと考えるからで
ある。』(『詩学』) 性の開示を不問に付すとなったとき、「多くの動作」を性差に縛られた定型(やみくもに唾棄するわけではないのです。山田五十鈴の素晴らしさ、坂東玉三郎の素晴らしさ…)と捉え直せば、二人以上の関係を備え、互いに互いを再現しあい、尚且つふとしたきっかけで再現をしているはずが対象そのものへ回帰して行く(アバター)過程は、何者かを演ずるという定型をかなぐり捨てた最小の演技になりうるのではないか。また=生まれての定型はシンデレラやイエス・キリストです。再生であり変身でもある、また=生まれての再現です。こうした夢のような物語を脱っし、「なんだわたしはあなたでもよかったんだ」と現すような感性を持った演技があれば、格差、境界、金融経済などへのアンチテーゼになりうるものと信じています。