昼休みに新宿の花園神社で弁当を食べていた友人(女子)の話。 なんやかやと、きさくに話しかけてきたカップラーメンを食べているおじさんが隣に座った。大変だなあと内心先を思いやりながら、食事の途中で立ち上がるのもままならず、おじさんの相手をしていると、観光で来たらしき外人に写真を撮ってくれないかと頼まれた。その場を離れるちょうど良い機会になることもあり、すぐに請け合ってカメラを構えた。ところが座っていた場所にバッグを置いたままにしていたのがいけない。振り向くと、カップラーメンのおじさんが財布を抜き取り走り去って行くではありませんか。追いかけてはみたものの、路地に入られては追跡不可能だった。 おそらく、おじさんと外人が仲間であると思われるのは、まず隣に腰をかけてからのタイミングの良さ、次に、バッグのある位置を背後に回すようカメラを構えさせる誘導が働いていたように感じられたこと。初犯ではなく、花園神社付近で味を占めているコンビなのではないか。再分配がこのような信頼を度外視した形式で行わ
れるのは大変忍びない。だが、国家公務員の自己保身のみを優先した危機感の薄さは、忍びないどころでは済まず、信頼を排他的に維持するのだから遥かに犯罪としての度合いが高い。
なぜ付き合っているの?なぜ私なの?こう聞かれると普通、明るい性格でこっちまで楽しくなるから。普段はわがままだけどやるときはやるってところ。その笑顔。等々、取って付けた褒め言葉でその場を取り繕い、やがて語義矛盾に苛まれたそれらの美辞麗句が、虚しい響きになり、誰もいない荒野に棄てられて、砂混じりの乾いた風に吹かれるがままサボテンの刺に引っ掛かる末路となる。岩波古語辞典で「のり」を調べてみる。海苔、糊、生血、伸り、宣り、告り、罵り、乗り、賭り…だいたいこんな感じで並んでいる。全てに共通して内包されている意味は明確につかめないのですが、なんとなく関係性を指しているようであり、硬軟、液体固体、薄厚、強弱、長短、軽重、大小、確定不確定、決未決、前後、上下、半減倍増に振れているようだ。「付き合う」を慎重に解剖してみると、「のり」を基準にした振れ幅を示す関係性に醍醐味がありはしないか。そう思わされる。最高の祝福が「祝詞」をあらゆる振れ幅の内に受ける機会であるとすれば、関係者達が言語に定着しようともがい
ている「のり」の周辺事情として「付き合う」を書き換えることで、チャートのようにとまではさすがに断言出来ないものの、ある程度公の体裁を整えた形で示し合わせが可能になるのではないか。つまり「付き合う」で関係性を抱合しようとするのは、公に対しての看板程度の意味にしかならず、演劇や舞踏などをやっていれば納得がゆくかと思われますが、感情の悲喜こもごもの全てはとてもひとつの定義には収まらないわけです。台詞なのか本心なのか、抱いているのか形なのか。公を突破し、個人の奥底にまで主観を譲り渡してやろうと意気込んでいる者にとっては、関係性たるもの「付き合う」で括るにはあまりにも心許ない。それでも相手に「付き合う」という定義が私的に樹立されているときなどは、主観の核がむき出しになるまで付き合わなければいけないこともあるわけです。どちらも同じですが、むき出しの核で相対しているつもりが、ものの見事に受け売りの商品だったのに気付かされたりもし、易々と括弧を外した付き合いにまで洗練されはしないのですが。そこでやはり
「のり」が召喚されるべきなのです。「のり」は法で厳格さの受け皿にもなっています。なにも「のりで付き合った」からと言って、いい加減だとばかり放ってはおけないでしょう。海苔の性質を考えてもいいし、生血の通う駆け引きだと正直になってもいい。果たして「のり」以外にどうして付き合えるのか。誰か教えて。
小さな明かりで就寝前の読書をして、いよいよ寝てしまおうかと仰向けになったとき、リラックスするつもりで真上に伸ばした腕の影がカーテンに映っているのを目にした。すぐには気がつかなかったのに、数秒間見とれているうちにはだんだんと様相が変わってきて、指を動かして大袈裟になった影の様子が、随分と久しぶりに心を奪われているといった程度で済む範囲を越え、この世のものではなく、どこか次元の違う世界の現象を突き付けられてでもいるかのようなつもりにまでなってしまった。それを童心とでも捉えればいいものか逡巡しつつ壁の面に影を動かすと、ますます指は大きくなり、手元の小さな動きと、画面の大きな動きのアンバランスが、救いがたい世界との齟齬だと感じられ、ちょっと怖くなった。なぜそんな境地があらわになったものか、自分自身を疑ってみる。確かに恐怖も秘められている。しかし、恐怖を裏返すと、懐かしさも半分は占めているのがわかる。読んでいたのは岡田温司の『半透明の美学』だったわけだが、カーテンや壁に何事かでも遮られるのを御免
被った結果、その時視覚を支配していた影の質感が「何事」へと変質し、時間を撹乱させでもしたのだろうか。