2024年の2月は笑い男事件が作中で起きたその月でした。
ちょうどそれくらいのタイミングで攻殻機動隊の笑い男事件(攻殻機動隊stand alone complex)を見終えて、面白かったなぁとその気分に浸っていたので、楽しく過ごすことができました。
攻殻機動隊は押井守版の映画から始まり、何度も続編やテレビアニメ版が作られていますが、
電脳化の進む世界が舞台なので、魂(ゴースト)を持たないロボットも出てきます。
主人公からして自分の肉体を失った機械人間の人達なので、そういった少し難しい話をテーマに話が進むのですが、人形使いだとか、傀儡回しとかいう言葉が使われるたびに私も人形使いであり、傀儡であると感じることがあります。
playerという言葉に共感するのです。
私の体の中には何体もの霊が入っているらしく、
よく笑う男の人、よく笑う女の人、しろちゃんを操っている可愛い人、ツンツンしてくる人、よく涙する人、よく頭を下げる男の人など、たくさんの人が表に自然に出てきます。
人とは霊止である、というお話があるように、
人間の肉体とは複数の霊が憑依するみたいなのです。
外部の霊が働きかける世界から、内在神の世界に切り替わっているというお話が神言会でありました。
地獄から出てきた霊たちの憑依も激しくなってくる、と。
自分でも気付かぬうちにプレイヤーになっている人は世の中には多くいるのではないかと思います。
この3曲の歌の中で一番メッセージ性の強い部分として
繋がること以上のものがある
という部分があります。
神仏、霊と繋がることだけで浮かれたり、
それに満足していてはいけないのだと思います。
自分が特別だと思い上がると碌なことがない。
そんな風になっている人たちよりも、
神仏に関わらずに真面目に生きている人たちの方が人間としてよく弁えている、とそう思います。
追記
ぬいぐるみと遊ぶのが好きなのですが、
そこに柳田國男の遠野物語の中におしら様というのが出てくるらしくて、おしら様で遊んだり踊らせたりするのだとか。
お馬さんはうちではくまちゃんの奥さんだったり市杵島という設定もあり、私のお母さんでもあり、おしら様でもあるかもしれないという
訳がわからなくて混乱中。
急性期の妄想がいくつか説明がついてしまうことがあるので、いつかこの謎も解けるといいなぁ。
遠野物語は少し前にブックオフで買っていたので、それをまた読んでみよう。
近いうちに青森に遊びに行きたいと思っているので、きっといい予習になるでしょう。