この世は鏡の世界なのだと聞いている。
夫婦とは自分と相手が写し鏡になっているものだというのもよく聞くことである。
私の中ではしろちゃんは鏡の役割としてよく演じてくれている。
その姿を見て鏡とは何かということをまた考える。
その鏡の習性を利用して人を学ばせるという方法がある。
鏡とは自分の真実の姿を映すものという考え方があるが、そうではなく、
自分に足りていないものを写し出すという考え方である。
そうして自分に足りていないものと対面させて人間に学ばせるのである。
この世は学びの世界とも聞いている。
では、鏡を使って学ぼうとした時にスピリチュアルを例にとって考えてみよう。
スピリチュアルとは、この世界の愛とか光とかを華々しく持ち上げて低次元霊と交信して、
それを神だ光だと錯覚した上で自己陶酔するものであるが、
それらの姿を見て自分たちの欠点、足りていないものを知るのである。
スピリチュアルによってズタズタに誤魔化されて、言葉の意味がわからないものの代表に愛や光などがある。
では私たちは愛や光について真面目に考えたことはあるだろうか。
本物の悪とは愛というものの力を恐れていると私は聞いている。
現代人は愛を見失ってはいないか、とも思う。
世の中にはたくさんの歌があるがその8割程度は恋愛の歌と言われている。
では現代人は愛情深く、愛についてよく知っているのだろうと錯覚するが、実態は真逆の状態であると私は認識している。
それをしっかりと見つめ直して、言葉を感覚として受け入れられるように努力する。
それがスピリチュアルを鏡として学びに変える方法だと思うがどうか。
スピリチュアルの代表的な天使であるガブリエルについては私はこう聞いている。
その正体は神様が生命の栄える星に送り込んだ破壊天使、
文明が栄え愚かな歴史が繰り返される前に、
危険な文明を食べ尽くして発展を抑制させるという任務を帯びている、と。
今のスピリチュアルの隆盛も神様が意図したものだという可能性があるのだと。
では、私達に出来ることといえばそのスピリチュアルの姿から学ぶのみだと思う。
本人達が語ることを盲目に受け取るのではなく、
その姿を見て学びとるのである。
子供が親の言うことを聞くのではなく、
親の背中を見ているという、その様子を思い出せばいい。