この2つは似たものとして、どちらか片方(特に日月神示)だけを読んでそれで良しとしている人が多いのではないだろうか。

確かにいっていることは一見似ている。

後発の日月神示の方が、大本神諭の内容に似せて書かれてあるように思えるので、一つ読めばそれでいいだろうとなるのだろう。


日月神示は予言書という扱い方もあるが、

しっかり読めば生きていく上での心の持ち方、心得が書かれてあるように思える。

なので、日月神示を読んだあとに日常で生活をしていると、あぁこのことを言っているのね、

と内容を理解出来ることがよくある。


一方、神言会さんでは、あくまで大本神諭に重きをおいておられる。

重要さでは大本神諭の方が上で日月神示はその段階には届いていない、という話だった。

確かに、私は両方を読んだけれど、普段の生活の中で、大本神諭に書かれてあることになるほどと思うことってあまりなくて、あくまで三千世界の建て替えの話が主で、神霊世界のことについて書かれてある予告書と言ったふうだった。

神言会も神霊世界に関わって得た知識を教えてくれるブログなので、なるほどという感じで。


アメブロを見ていても、国常立尊という神様がメジャーになったことをよく感じる。

その神様を特別視することの意味をその人達はよく考えて書いているのかなと思ったりもするのだけど、それは弥勒の世を待ち望む、世の建て替えを待ち望む、この世界を変えてほしいと待ち望む、

ということなのだろうか。

私はこの神様に何を望むのだろう、何を期待するのだろうと思う。

自分が受け止めることは神言会で説かれている国常立尊のなした仕組みそれだけで、

これから先に起きることについてはあまり重視したり望むことって実はあまりなくて。

地球が滅びるのだ、今の人間は今のままでは生きていけずに別のものになってしまう、一旦は出直さなければならない。

そのことが私にはまだ受け止めきれずにいて、思考がそこで止まってしまうのだ。その先に永遠の世が待っているなんて言われても想像もつかない。


大本神諭に書かれてあることで私が好きなところは、塵ひとつも逃さぬ仕組み、虫ケラさえも助けなければならない、という話。

アンインストールという曲にもそういった歌詞が出てくる。


この星の無数の塵のひとつだと、今の僕には理解できない


自分が無数の塵の一つだと理解できないのは、

世の中での塵の扱いがひどいからです。

科学でもこの宇宙は塵やガスが集まってできたものだと説かれる。

では、塵とは一体なんなのか、という話を真面目にしているの人を私は見たことがない。


昔の人は掃除をする時は細かな塵でさえもしっかりとほうきで捉えて捕まえて掃くということが出来ていた。

それが美徳だった。埃やゴミで汚れた家の前や中などを綺麗にほうきなどで掃き清めるということが大事とされていた。

それは現代では失われた価値観ではないかと思う。四角い部屋を丸く掃く。

見えるところだけ綺麗にしてあとはごちゃごちゃで汚い。

塵ひとつの扱いが昔と今とでは違うから、人や宇宙や星を塵に例えられても、若い人は受け止めきれない。理解できない、となる。

大人になるとそんなことはどうでもいいと放棄して考えるのをやめることを覚えるので、悩むこともなくなる、と。

塵とは何なのか、ということを考えた時に、この曲を思い出し、大本神諭を思い出し、塵一つの大切さを知っている神というのは信用できると自分の中で納得して、

塵やゴミを蔑ろにしてただの不要物としてしか見ることの出来ない、今の人間に対してはそれではいけないと思い、

そういう神々については何もわかっていない連中だと思うのでした。